子供の頃から、読書が苦手だった。
本を読むスピードが遅かったので、途中で嫌になってしまったのです。それ以前に、読書に興味がなかったのだろう。
特に、小説は好きではなかった。
中学生になると映画が好きになり、活字ではなく映像で物語を味わうようになる。
社会人になってからも、仕事に必要なものしか本を読まなかったので、自ずとノンフィクションや旅行、歴史や社会科学系の書籍が中心だった。
でもシニアになると、時間がたっぷりある。
自分のペースでゆっくりと自分が読みたい本を読むのも、人生の成熟期の過ごし方としては悪くないと思った。
そこで、このブログでも読書に関するシリーズを始めようと思う。
題して、「吉祥寺図書館」。
私が日常的に利用している図書館の名前だ。自宅に持っていた本はほとんど捨てて、今ではもっぱら吉祥寺図書館で借りて読んでいる。
本を読んでも時間が経つと忘れてしまうので、記録しておくことはこれからますます大切になるだろう。
どんな本を読むかは、その時の興味の赴くままだ。

さて、シリーズ1回目に取り上げるのは、アーネスト・ヘミングウェイ著「武器よさらば」。
光文社古典新訳文庫で読んだ。
来年の夏、キューバに旅行する予定なので、これまで読んだことのなかったヘミングウェイの作品を読んでみようと思ったのだ。
1929年に発表されたこの作品の舞台となっているのは、第一次大戦のイタリア。ヘミングウェイ自身の体験をベースにした戦場での恋愛小説である。
あらすじについては、Amazonから引用しておこう。
第一次世界大戦の北イタリア戦線。負傷兵運搬の任務に志願したアメリカの青年フレデリック・ヘンリーは、看護婦のキャサリン・バークリと出会う。初めは遊びのつもりだったフレデリック。しかし負傷して送られた病院で彼女と再会、二人は次第に深く愛し合っていくのだった…。
この小説自体はフィクションだが、ベースとなっているのは自らの戦争体験だということは彼の経歴を見ると一目瞭然だ。
ヘミングウェイは19歳の時、見習いとして働いていた新聞社を辞め、アメリカ赤十字社に入ってイタリアへ派遣される。そこで負傷した兵士たちを運ぶトラック班に配属され、オーストリア軍の砲撃によって重傷を負った。治療のため収容されたミラノの病院で、アグネス・フォン・クロウスキーという女性と恋に落ち、彼女が「武器よさらば」のヒロイン・キャサリンのモデルと言われている。
そのため、戦場の描写などは単なる想像ではなく、彼が実際に戦場で見聞きした事実に基づいて書かれているのだろう。
小説を読んで特段感動したということはなかったが、一番印象に残ったシーンを引用しておこうと思う。それは、イタリア軍が大規模なは退却をする場面。兵士と住民が入り乱れ道路を塞ぐような大混乱の中、若手エリート幹部が敗走した現場将校を尋問し処刑するシーンだ。
ちょっと長くなるが、その部分を丸ごと書き写す。
(前略)おれは尋問されている男を見た。小柄で、太った、白髪の中佐。さっきおれの目の前で引きずり出された男だ。尋問をしている連中は有能で、冷酷で、冷静だった。撃つばかりで、撃たれたことのないイタリア人によくあるタイプだ。
「旅団は?」
中佐が答えた。
「連隊は?」
中佐が答えた。
「なぜ連隊から離脱した?」
中佐が答えた。
「将校が自分の隊から離れてはならないことくらい知ってるはずだ」
中佐は、知っていると答えた。
それで終わった。別の将校が口を出した。
「おまえみたいなやつらが、あの野蛮人どもを、この神聖な祖国に土足で踏みこませたんだ」
「どういうことだ?」
「おまえみたいな卑怯者の生で、おれたちは勝利を逃したんだ」
「退却を経験したことは?」
「イタリア軍は退却なんかしない」
おれたちは雨のなかに立って、それをきいていた。前には将校たちがいて、中佐はおれたちの斜め前に立っていた。
「もし銃殺するつもりなら」中佐がいった。「たのむから、ぐだぐだ尋問をしていないで、さっさとやってくれないか。ばかばかしい」中佐は十字を切った。将校たちが口々に何かいって、ひとりがメモ帳に何か書きつけた。
「部隊を離脱。したがって、銃殺」その男がいった。
憲兵がふたり、中佐を土手に連れていった。中佐は雨のなかを進んでいった。両脇を憲兵に固められた老人が、帽子もなしに歩いていく。おれは目をそむけたが、銃声はきこえた。次の尋問が始まっていた。今度もまた部隊を離脱した将校らしい。弁明も許されなかった。メモ帳の決定が読み上げられると、将校は泣き叫んだ。そして次の兵士が尋問さえている途中に銃殺された。将校たちは尋問の最中に、前の男が射殺されるようにしていた。そうすれば、射殺には手を出さず、ただ尋問を続けていればいいからだ。おれは迷っていた。尋問を待つか、すぐに逃げるか。イタリア軍の軍服を着たドイツ人に見られるに決まっている。連中の心は読めた。まあ、連中に心があって、ちゃんと働いていればだが。全員、若くて、祖国を救おうと必死なのだ。(中略)おれたちは雨のなかに立たされ、ひとりずつ尋問されて、銃殺されていく。いままでのところ、尋問された将校は全員、処刑されている。尋問する連中の見事なほどの冷静さと厳しさは、自分は安全なところにいて他人に死を宣告する者に特有のものだ。
イタリア人がイタリア人を処刑する。しかも最前線で戦ってきた人たちを。
戦場の理不尽さを端的に切り取った場面で、簡潔な文章がその場の状況を生々しく浮かび上がらせる。
「尋問をしている連中は有能で、冷酷で、冷静だった。撃つばかりで、撃たれたことのないイタリア人によくあるタイプだ。」
「全員、若くて、祖国を救おうと必死なのだ。」
「尋問する連中の見事なほどの冷静さと厳しさは、自分は安全なところにいて他人に死を宣告する者に特有のものだ。」
こうしたヘミングウェイが発する言葉や人間観察の眼は、実際の戦場で見た理不尽な出来事から生まれたのだろう。戦場では時に正論は通用しなくなる。恐怖が凶器を生み、死ぬ必要のない人が殺されるのだ。
でも、こうした理不尽なことは戦場に限らない。現場を知らない上司が高みから見下ろすように前線で苦労した部下を切り捨てることはどこの会社でも見られる光景だ。
私が好きな旅行という観点からは、作品に登場する場所2ヶ所に興味が湧いた。
一つは、戦場となったイタリア北東部の山岳地域。
知らない地名ばかり登場するし、そもそもイタリアとオーストリアが戦ったことすら日本人にはあまり知られていない。しかし、もしこの地域を旅行することがあれば、作品に登場する町や村をぜひ回ってみたいと思った。
実際に、スロベニアやイタリアのドロミテ地方はぜひ旅してみたい地域なので、いずれそうした機会もあるかもしれない。
もう一つは、ミラノの北方にあるマッジョーレ湖。
軍を脱走した主人公ヘンリーがキャサリンを連れて手漕ぎボートでスイスへと脱出するシーンはなかなか緊迫感がある。
マッジョーレ湖はイタリアで二番目に大きな湖で、南北に細長く伸びていて、北端の一部はスイス領となっている。だから、湖の南にあるストレーザのホテルに宿泊していた主人公たちは、憲兵が逮捕に来るとの情報を聞いて深夜に手漕ぎボートで北を目指す。
コモ湖などと並んでミラノ郊外の高級リゾートにもなっているようなので、機会があれば一度行ってみたいと思った。
私の場合、どうしても旅行と結びついてしまうのだが、小説を読んでその作品に登場する場所を訪ねるというのもシニアらしい旅の楽しみ方かもしれない。
ヘミングウェイの文体についても書いておきたい。
訳者の金原瑞人さんが「解説」の中でこんなことを書いていて興味を惹かれた。その部分を引用したい。
ヘミングウェイの文体は、簡潔で短く、余分な修飾語がついていない、というのはよく指摘される。それに関しては、有名なエピソードがいくつもある。たとえば<カンザスシティ・スター>で見習い記者をしているときに、渡された文章についての心得にはこんなことが書かれていたとか。
文は短く。最初の段落は短く。生き生きとした言葉を使うこと・・・形容詞を使わないように。とくに大げさな形容詞は避けること・・・
あるいは、パリで大先輩のガートルード・スタインからも「短く、凝縮した文体を心がけるように」といわれたとか、詩人のエズラ・パウンドに原稿を見せたところ、片っ端から形容詞を削られたとか。
しかし、ヘミングウェイの文体について最も端的に語っているのは彼自身の言葉かもしれない。
わたしはいつも、「氷山理論」に基づいて書くようにしている。つまり、文体の7、8割が水面下になくてはならないということだ。わかっていることは削ればいい。そうすれば氷山は強くなる・・・
正確にいえば、氷山の水面下に隠れている部分は全体の9割なのだが、それはともかく、ヘミングウェイの文体の大きな特徴はわかってもらえると思う。
「氷山理論」。
これは、ぜひ覚えておきたい。
私も小説にありがちな難解な修飾語が苦手で、自分はなるべく簡潔で短い文章で書きたいと思っているが、「わかっていることは削る」という意識には欠けているようだ。
このブログについては、備忘録的な要素が第一なので、どうしてもだらだら書いてしまうが、もし仕事で文章を書く必要があれば、氷山理論を頭に置きつつ書きたいと思う。
その後、ジャーナリスト・作家としてキューバやアフリカで暮らしたヘミングウェイ。やはり魅力的な人物だ。
でも彼のマッチョな視線は、私とはやはり違う。そして、時代も違うのだ。
キューバに行く前に、「老人と海」はどうしても読まなければならないだろう。