2022年の年間テーマである調理修行。
トイレにかかっている「和食の暦」に私が知らない鍋料理が描かれていた。

「常夜鍋」。
カレンダーにはこんな説明が添えられていた。
沸かした湯に日本酒を入れ、薄く切った豚ロース肉とほうれん草をくぐらせて、レモン醤油やポン酢でいただく。属の向田邦子さんもこの鍋が大のお気に入りだった。「湯の量の三割ほどの酒を入れる。これは日本酒の辛口がいい。できたら特級酒のほうがおいしい。」とエッセイ集『夜中の薔薇』に記している。
「和食の暦」より
ということで、早速図書館で向田邦子著『夜中の薔薇』を借りてきた。

『夜中の薔薇』は1981年に出版された向田邦子さんのエッセー集で、62の短編が収められている。
さて、肝心の「常夜鍋」はどのエッセーに登場するのか?
タイトルから当たりをつけていくつか読んでみるが、なかなか「常夜鍋」が出てこない。
仕方がなくネットで調べてみると、「食わらんか」というエッセーに「豚鍋」という名で描かれていることが簡単にわかった。
読んでみると、こんな具合である。

十年ほど前に、少し無理をしてマンションを買った。
気持ちのどこかに、うちを見せたい、見せびらかしたいというものが働いたのであろう、あのころの私はよく人寄せをして嬉しがっていた。
今ほど仕事も立て込んでいなかったから、まめに手料理もこしらえ、これも好きで集めている瀬戸物をあれこれ考えて取り出し、たのしみながら人をもてなした。
もてなした、といったところで、生まれついての物臭さと手抜きの性分なので、書くのもはばかれるほどの、献立だが。そのころから今にいたるまで、あきたかと思うとまた復活し、結局わが家の手料理ということで生き残っているものは、次のものである。
若布の油いため
豚鍋
トマトの青じそサラダ
海苔吸い
書くとご大層に見えるが、材料もつくり方もいたって簡単である。
向田邦子著「食わらんか」より
向田さんが書いている通り、そのレシピはどれも簡単そうに見えた。
私が作りたいと思った「常夜鍋」、向田さん曰く「豚鍋」の作り方はこうだ。
豚鍋のほうは、これまた安くて簡単である。
材料は豚ロースをしゃぶしゃぶ用に切ってもらう。これは、薄ければ薄いほうがおいしい。
透かして新聞が読めるくらい薄く切ったのを一人二百グラムは用意する。食べ盛りの若い男の子だったら、三百グラムはいる。それにほうれん草を二人で一把。
まず大きな鍋に湯を沸かす。
沸いてきたら、湯の量の三割ほどの酒を入れる。これは日本酒の辛口がいい。できたら特級酒のほうがおいしい。
そこへ、皮をむいたにんにくを一かけ。その倍量の皮をむいたしょうがを、丸のままほうりこむ。
二、三分たつと、いい匂いがしてくる。
そこへ豚肉を各自が一枚ずつ入れ、箸で泳がすようにして(ただし牛肉のしゃぶしゃぶより多少火のとおりを丁寧に)、レモン醤油で食べる。それだけである。
レモン醤油なんぞと書くと、これまた大げさだが、ただの醤油にレモンをしぼりこんだだけのこと。はじめのうちは少し辛めなので、レンゲで鍋の中の汁をとり、すこし薄めてつけるとおいしい。
ひとわたり肉を食べ、アクをすくってから、ほうれん草を入れる。
このほうれん草も、包丁で細かく切ったりせず、ひげ根だけをとったら、あとは手で二つに千切り、そのままほうりこむ。これも、さっと煮上がったところでやはりレモン醤油でいただく。
豆腐を入れてもおいしいことはおいしいが、私は、豚肉とほうれん草。これだけのほうが好きだ。
あとにのこった肉のだしの出たつゆに小鉢に残ったレモン醤油をたらし、スープにして飲むと、体があたたまっておいしい。
これは、不思議なほどたくさん食べられる。豚肉は苦手という人にご馳走したら、誰よりもたくさん食べ、以来そのうちのレパートリーに加わったと聞いて、私もうれしくなった。何よりも値段が安いのがいい。スキヤキの三分の一の値段でおなかいっぱいになる。
向田邦子著「食わらんか」より
向田さんが言う通り、調理するというほどのこともないレシピで、初心者の私にも簡単に作れそうな鍋料理だと思った。

図書館に行ったついでに、西友に立ち寄って、紙パックの日本酒「黄桜辛口一献」(485円)を買ってきた。
値段の安さと辛口というワードで選んでしまったが、後で向田さんが「特級酒のほうがおいしい」と書いているのに気がついた。
しかし、時すでに遅しである。

妻が土鍋とほうれん草を用意してくれた。
私はまず、ほうれん草のひげ根を切ることから料理を始めた。

ニンニクと生姜を用意する。
ニンニクは小ぶりだったので2かけ入れることにした。

レモンがなかったので、岡山から持ち帰った柚子を切ってポン酢に加え、風味をつけること。
カレンダーには「たっぷりすりおろした大根に、すりごまをこれもたっぷりと」と書いてあったが、私はあくまで向田流(レモン醤油ではないが)のシンプルなつけダレで食べることを選んだ。

台所のコンロでお湯を沸かし、ニンニクと生姜を丸のまま放り込む。
水の量は適当だ。

さらに日本酒をドブドブと加える。
お湯の量の三割を目安に、こちらも目分量である。

そして湯が温まったところで、卓上コンロに移した。
テーブルには、豚ロースの薄切りとほうれん草、そして柚子を加えたポン酢を用意する。
もうこれで、「常夜鍋」の準備完了である。

豚肉は、妻が買ってきてくれたもので、200〜300グラムほどあるだろうか。
トレイからお皿に移しただけで、ほぐしてさえいない。
もし人様にご馳走するなら、少し伸ばしたりしてきれいに盛り付けると印象がいいように思うが、所詮は自分一人で食べるので、手をかける必要もないだろう。

ほうれん草は、ひげ根を切ってお皿にのせただけ。
こういうシンプルさは、私に合っている気がする。

さあ、食うぞ。
豚肉を一切れつまみあげ、鍋に投入する。
さっとくぐらせて食おうとすると、「まだ赤いところが残っている」と妻から待ったがかかった。

豚肉を生で食べると寄生虫が危ないと子供の頃から刷り込まれている。
仕方がないので、時差をつけてもう一切れ投入して、先に入れた肉の赤味が消えたら食べるという方法で、どんどん肉を食っていくことにした。
ポン酢につけて口に運ぶと、確かに美味い。
普通の豚しゃぶとは何かが違うのだ。
これが日本酒の力なのだろうか。

肉を10枚ほど立て続けに食べた後、今度はほうれん草を鍋に投入する。
鍋の表面には豚の脂が浮かんで、最初より旨そうになってきた。
ただ向田さんが書いていたアク取りのことはすっかり忘れていた。

こうして、豚肉とほうれん草を交互に鍋に入れながら、ポン酢に浸して食べ続ける。
シンプル、でも美味い。
向田さんお気に入りの理由が理解できた気がした。
お酒がまったく飲めない妻は、お湯の三割も日本酒を入れると聞いただけで怖気付き、一切食べようとしないため、結局一人で肉とほうれん草を全部食べてしまった。
最近少食なので、200グラム以上の肉を食べたのはずいぶん久しぶりな気がする。

向田さんが書いていた通り、「不思議なほど食べられる」鍋である。
肉を全て平らげた後、まだ食べられそうなので、最後にご飯を鍋に投入し雑炊で仕上げをすることにする。

妻が食べていたサツマイモも適当にちぎって放り込み、お椀に残っていたポン酢を加えて味付けをした。
グツグツと煮えた鍋の中で、ご飯は少しずつ雑炊らしく姿を変えていく。

最後にこれまた妻が食べていたシラスを少し上に乗せて、常夜鍋の雑炊が完成。
見た目は美味そうだったのだが、サツマイモの甘さがどうもしっくり来ず、期待したほど美味くはなかった。
芋は入れずに辛口で味を整えた方が良さそうだ。

とはいえ、かつて経験したことがないほど簡単な料理で、しかも美味しい。
「常夜鍋」、ぜひ覚えておきたい男のレシピである。
ただ、妻が食べないので、我が家では頻繁に登場することはなさそうだが・・・。
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