先日図書館に行った時に、何気なく目に止まった一冊の本。
倉方俊輔著『吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方』。
タイトルを見ればわかる通り、吉祥寺駅の北口にある戦後のヤミ市から続く「ハモニカ横丁」について書かれた本だ。
このハモニカ横丁に12の店舗を構える手塚一郎さんを中心に、彼の店を設計した建築家たちに取材してまとめたもので、現代的な街とは一線を画すこの横丁を主に建築や街づくりという観点から分析している。
著者の倉方俊輔さんは大阪市立大学大学院の准教授で建築史家、幼い頃からハモニカ横丁に通っていたという。

小学校低学年の自分にとって、ハモニカ横丁は印象に刻まれる空間であると同時に、日常的に訪れる場所だった。狭い暗がりを入った先に寝転んだ魚の鱗は、電球に照らされて光っていた。物が新鮮で、普通の店には置いていないアラなども並んでいるからと言って、母はハモニカ横丁の鮮魚店を贔屓にしていた。当時、駅前通りにあった、大小の卵が一個単位で買える鶏卵専門店や色とりどりの飴がガラスケースに収まった駄菓子店、時折見かけた傷痍軍人などと同程度の、日々の暮らしの中にある違和感だった。やがてそれらが消え失せても、ここだけは健在で、駅からの帰り道にその中を通っては、閉塞感にホッとしていた。
この狭さや暗さが、戦後のヤミ市に由来することも有名である。ヤミ市とは1945年の敗戦後、空き地に並んだ不法占拠の露店に始まり、次第に建物の体裁と社会的位置付けを整えた市場のこと。ハモニカ横丁は新宿の思い出横丁と共に、当時と同じ場所で残存する全国でも珍しい例だ。ヤミ市の学術的な研究は2000年以降に大きく進展し、ヤミ市のほとんどが1949年のGHQの指令によって消滅し、残った建物も1960年代に集中してビルなどに整理されていったこと、そんな中で吉祥寺の一等地に3000平方メートルもの横丁が残存した理由として、江戸時代の開墾以来の大地主である月窓寺が土地所有者だったことなどが指摘されている。
引用:倉方俊輔「吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方」より

倉方さんが指摘する通り、駅前のまさに一等地に防災上大いに問題のありそうな昭和な空間が残されているというのは奇跡と言ってもいい。
吉祥寺の繁華街の大部分が「月窓寺」の所有する土地であるという特殊性がその理由だと聞くと、妙に納得してしまう。
もしも吉祥寺に「ハモニカ横丁」がなければ、大きな個性の一つが確実に失われていただろう。
しかし、倉方さんが育った頃のハモニカ横丁はもっと庶民的でダサい場所だったようだ。
吉祥寺に大型商業施設が進出し、若者に人気の店が増えるに従って、ハモニカ横丁の賑わいは消え、一時は人通りも少ない捨て去られたような場所になっていたという。
それを復活させたのが手塚一郎さんだった。

今日の飲食店街のイメージへの大きな転換点となったのが、1998年の「ハモニカキッチン」の開業であることは、この変化に肯定的な人にも否定的な人にも共有されている。駒沢の人気カフェ「バワリーキッチン」の内装を手がけた形見一郎を起用して同店を生み出した手塚一郎は現在、ハモニカ横丁に13店舗を展開している。その中のおでん屋「エプロン」はアトリエ・ワンの塚本由晴によるデザイン、焼鳥屋「てっちゃん」は隈研吾のインテリアだ。
これは商業主義が古き良き昭和を食い尽くす最終段階なのだろうか。あの懐かしく変わらない横丁はどこに行ってしまうのか。
理性はそう嘆こうとする。でも、現在のハモニカ横丁を訪れると、変わり続けるものにワクワクして成長してきた心は騒ぐ。光と闇、ぞんざいと繊細、古びと新味のあまり見かけない塩梅に身体は反応する。例えば大阪で、札幌で、那覇で、ブルックリンで、リスボンで、メルボルンで、似たような印象を受けた記憶が蘇る。
引用:倉方俊輔「吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方」より
今もハモニカ横丁には「ハモニカキッチン」という店があるが、1998年にオープンした当時の「ハモニカキッチン」は白いおしゃれなカフェだったという。

この本の中には、東京オリンピックのメイン会場となった国立競技場を設計し、今や時代の寵児となった建築家の隈研吾さんも登場する。
ハモニカ横丁にある人気の焼鳥屋「てっちゃん」のインテリアを隈さんが担当しているからだ。
なぜ多忙な隈研吾さんがハモニカ横丁の小さな仕事を引き受けたのか?
それは隈研吾さんにとってこの横丁が特別な場所であり、彼がこだわる「木」の文化が凝縮している空間だからだという。
隈さんが書いた文章を読んで、ハモニカ横丁の魅力、居心地の良さの理由が少し理解できたように感じたので、ここに引用させてもらおうと思う。

まず、ハモニカ横丁が基本的には木造建築であったということが、決定的に重要であったと僕は感じた。木造のインティメート(親密)なスケール感が、あの空間を特別なものにしている。
歴史的に見れば、日本の都市はすべて木造であった。しかも、小材と呼ばれる、10センチメートル角内外の断面寸法、2間(3.6メートル)内外の長さしかない、細く短い材をだましだまし組み立てながら、イレギュラーな柱スパンの、フレキシブルな空間を作ってきた。だから、日本の都市は、石も煉瓦もコンクリートも必要としなかったのである。そして、小材だけで構成するということで、山の環境保全システムと建築システムが、シームレスにつながった。小材ならば、特別な森林からでなくても容易に手に入れることができたし、自動車や鉄道のような輸送手段が登場する以前にも、山から切り出して、近くの都市へと運搬することは簡単だった。すなわち、「小さな木=小材」を媒介として、山は日常生活の一部となり、山と都市とが一体となって、持続可能な環境システムを作り上げていたのである。
この「小さな木」のシステムは、第二次世界大戦後、ほとんど完全に都市から消えてなくなった。関東大震災(1923年)と第二次世界大戦によって、東京が壊滅的に破壊されたことが原因であった。木はあまりに燃えやすく、都市には不適切な材料であると結論づけられた。建築の法規、消防法もすべて、都市から木を排除する方向へと改められた。日本建築学会ですら、木を建築から排除すべきだという、驚くべき決断を行ったのである。
この劇的な「木からコンクリートへ」という転換の背後には、アメリカ、西欧に敗北した日本のトラウマ、コンプレックスが存在したことも間違いない。欧米にいかにキャッチアップするかに日本人は血眼となり、まず手っ取り早い方策は、都市から木を排除してコンクリート化することであった。
それによって、いかに大きなもの、大切なものを失ったかを知りたければ、肌で感じたければ、ハモニカ横丁を訪れるのが一番いいと、僕は考える。なぜならハモニカ横丁は、「小さな木」のシステムが、人間の生活という、多様で予測不可能なものを、見事に飲み込み、見事に消化し、コンクリートでは絶対に達成することのできない、温かくて心地良い空間を、保持し続けているからである。
引用:倉方俊輔「吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方」より
なるほど、「小さな木=小材」で成り立っていた日本文化がハモニカ横丁には残っていると。
言われてみれば、確かにちゃぶ台を置けばダイニング、テーブルをどけると寝室、変幻自在に用途を変えられる日本の住宅は裏山から切り出してきた小材で作られていたのだ。
わざわざ外国から立派な針葉樹の柱を輸入しなくても、裏山の雑木林から切り出した材木で十分に用が足りる。
そうすることで山の管理も定期的に行われ、日本の国土が豊かに保たれるのだ。
「SDGs」が合言葉となる21世紀、ひょっとすると「小材」の時代が再びやってくるのかもしれない。

路地を歩いていると、ハモニカ横丁がどんな構造になっているのかよくわからないのだが、テラスにあがって上から見渡してみると、小さな木造家屋の集合体であることがわかる。
まさに戦後のバラックが少しだけ進化しただけだ。
隈研吾さんのハモニカ横丁論はさらに続く。
普通は、木造の良さを見たければ、神社や寺に行けとか、いい茶室を見ろとかいわれる。ハモニカ横丁に行けなどとは誰もいわない。しかし、神社仏閣、茶室の類は一種の骨董品であって、木造の技術レベルの高さを学習するにはいい教材かもしれないが、現代人のすべてを飲み込むことのできる、計り知れないほどのキャパシティ、柔軟性を「小さな木」が持つ美しさを見たければ、神社や仏閣、茶室では事足りない。コンクリートの都市の中にあるそのような死んだ骨董を見て、あれこそが木の精髄であるとか、木をわかったとかいっては欲しくないのである。では木のキャパシティ、フレキシビリティはどこから来るか。
ひとつには、小材独特のスケールの小ささである。木だから自動的にスケールが小さくなるわけではなく、日本が育んできた小材システムだから、スケールが人体のスケール(大きさ、長さ、重さ)に近づいてきて、身体に心地良いのである。ハモニカ横丁は、小材を単位寸法として、空間のすべてが構成されているので、身体がそれに自然に反応し、喜んでしまうのである。
そして、さらに重要なことは、木は抽象的な冷たい物質ではなく、固有な表情、テクスチャー、温度を持った生き物そのものであるということである。いわば木自身が生き物という雑音なのであり、その雑音をだましだまし組み立てて作った建築は、さらにどうしようもなく複雑な雑音なのである。神社・仏閣・茶室からは、その雑音が見えにくい。特に教材に使われるものは、完成度、純粋性を基準として選定されているので、雑音が見えにくい。木を誤解させ、木をわれわれから遠い存在だと思わせる「優等生」達なのである。
だからハモニカ横丁に行かなくてはいけない。そこは木の雑音が空間のベースになっているから、そこにどんな雑音が加わっても、見事に飲み込んでしまって、邪魔にならない。雑音があればあるほど、生き生きしているから、誰もが雑音に対して好意的になり、目くじらをたてない。よくあるコンクリートの再開発ビルの中のショッピングモールと対照的である。そこでは雑音はそもそも歓迎されていない。そこでは店の人がやむにやまれず持ち込んだ雑音は、全く「お呼びでない」といった風情で、いたたまれない表情を浮かべて、さみしく震えている。
だから、僕はハモニカ横丁の中にてっちゃんをデザインする時、思い切って雑音側に振ってみた。LANケーブルのリサイクル材という、ゴテゴテカラーの電線クズのようなものを見つけてきて、それで空間全体を覆ってみた。普段だったら、勇気がなくて使えないようなアクの強い雑音だが、ハモニカならば、楽々飲み込んでくれるという自信があった。
アクリルだんごと呼ばれる、プラスティックを融かして作ったリサイクル材も持ち込んだ。唯一気をつけたのはスケールである。小材特有の小ささを脅かさないような可愛らしさで、すべてのデザインを構成したのである。小材スケールを超えないということは、人間の身体という、ちっぽけで弱いものを脅かしたり、おびやかしたりしないということである。そこにさえ気配りがあれば、どんな雑音も、どんなゴミもウェルカムとなる。
このハモニカ的なるものを、骨董としてではなく、日常の当たり前として、都市の中に回復することが、僕の夢である。ハモニカは、行政の柔軟で志の高い判断によって、奇跡的な形で都市の中に残された。
しかしこれからは、奇跡や好意にばかり頼ってはいられない。できれば、燃えなくて、地震にも強い「小さな木」の建築を増やしていきたい。幸い、木の不燃化技術、木と異素材のハイブリッド技術は、ここ20年で驚くべき進化を見せている。都市に木を戻すこと、世界をハモニカ横丁化するのは、夢ではない。
引用:倉方俊輔「吉祥寺ハモニカ横丁のつくり方」より

ハモニカ横丁は多様な顔を持つ。
ダイヤ街の方から見れば、吉祥寺を代表する有名店「肉のさとう」や和菓子の「小ざさ」も実はハモニカ横丁の端っこに位置するお店だ。

平和通りの方から見れば、いつもオヤジさんの威勢の良い声が響く「フルーツの一実屋」もハモニカ横丁の角っこにある。
水タバコのカフェやら、トルコ風のケバブ屋やらどんなお店でもこの横丁は飲み込み、違和感なく吸収してしまうのだ。

ハモニカ横丁の路地に立ち、上を見上げてみる。
この猥雑さはアジアそのものだ。
人々のさまざまな想いが交差するように、さまざまな建材、さまざまなケーブルが交差する。
整然と仕切られた再開発ビルには真似のできない無秩序な空間。
それは演劇のセットのようでもあり、不思議な温もりと居心地の良さを感じさせる。
願わくは、この横丁が火事で焼け落ちることなく、隈研吾さんらの努力によって都市で復権していくことを祈りたい。