<吉祥寺残日録>定年後を考える😄 養老孟司著「養老訓」①〜「感覚的思考」と「概念的思考」について #220423

4月に入ってからずっと、妻の不眠症が続いている。

かかりつけの整体に頻繁に通ったり、漢方の医者に診てもらったり・・・いろいろ試みているがなかなか改善しない。

妻が元気でないと、私の生活にも当然のことながら大きな影響が出る。

旅行に出かけたいと思っても、弱り切った妻を一人残しては出かけられない。

定年後やりたいことは次から次へと思い浮かぶのだが、それもこれも家族が平穏で暮らしていてこそ成り立つのだということをつくづく思い知らされる今日この頃である。

人生とは、ままならぬもの。

そんな考えに取り憑かれていると、図書館に行ってもついつい「人生論」的な本に目が止まる。

昨日も図書館に本を返しに行ったついでに、その手の本をいくつか借りてきた。

その中の1冊が、解剖学者・養老孟司さんが書いた「養老訓」という本である。

2010年に出版されたこの本には、いろいろ興味深い言葉が書かれていた。

私よりも20歳ほど年上になる養老先生に、シニアとしての生き方を学びたいと思い、気になった部分を少し引用しておきたい。

訓の壱 不機嫌なじいさんにならない

「養老訓」の最初はこんなタイトルから始まる。

全国で行われる養老先生の講演会で、笑わないおじいさんをよく見かけるらしい。

日本中を講演して回っていると、こういうことは珍しくない。不機嫌そうで笑わないおじいさんが多いのです。おばあさんはよく笑います。不機嫌なのはたいていが老人、それも男です。

なぜ男のほうが不機嫌かについてはこれまでも話したことがあります。男の人は仕事を定年で辞めるとやることがなくなりますが、女の人の仕事、家事は死ぬまでついてきます。自然と身体を使う。これがいいのです。

養老孟司「養老訓」より

確かに、不機嫌そうな顔をしたおじいさんはどこにでもいる。

自分が映った家族写真を見て、私も自分がとても不機嫌そうに見えてショックを受けることがある。

全く不機嫌ではないのに、不機嫌そうな顔に見える、これは気をつけなければならない。

では、どうするか?

養老先生はこんなことを書いていた。

不機嫌な老人に会うたびに、私は「老人文化」が必要だとつくづく感じます。

老人文化とは何か。年をとって暇だからといってカルチャー・スクールに通いまくる。それはここでいう老人文化ではありません。

昔の日本人は老人に向いた時間の過ごし方、生き方の知恵を持っていたと思います。趣味でいえば盆栽やお茶などはその代表例でしょう。また生き方の知恵としては、隠居という制度もありました。これも老人文化です。

ところがいつの間にかそういう文化は消えつつあります。

マスコミなどでは、しきりに「年をとっても若々しく」と言います。(中略)老人になることを悪いことだと見る空気があるから、趣味も若々しく、となるのです。でも、みんな年相応に老人化していいのではないのでしょうか。

団塊の世代に土に帰りたい、百姓をやりたいと言う人が増えているそうで、結構なことです。盆栽に近いし、あまり迷惑にならないでしょう。土に親しむかたちの年のとり方は、もっと日本で流行してもいいと思います。

養老孟司「養老訓」より

「隠居」や「百姓」という言葉が出てきて、まるで私が書いているのではないかと思えるような文章だった。

養老先生は、私が目指しているような生き方を「老人文化」と呼んでいるように感じる。

私自身、若い頃や中年の頃にはわからなかったけれど、だんだん良さがわかってきたものがいくらでもあります。そもそも30代、40代の頃は価値観が違いました。やはり世の中に出て何とかしなくてはいけないといった欲がありました。

こんな私でもそういうことを思っていた。まわりがそういう考えだから、どうしてもつられます。社会的評価だってそれなりに気にしていました。そういう考え方にお付き合いしないと、ちょっと欠陥のある人間だと思われたのです。

ところが年取ると、無理をして付き合わなくてもいいということになる。老人になると社会的評価やそれにまつわる競争から真っ先に外されます。世間から「あいつは別」という扱いになる。それを楽と思えるか、さびしいと思うかでその後の人生は変わってきます。

「別」とされたときにもともと自分でやることを持っていれば、それが、できるようになる。そのときにやることこそが老人文化です。

老人文化を知ったほうが、人として高級になれるくらいに思えればいいわけです。でも、世の中には、引退後に地方に行って、土いじりをするよりも、企業で延々と働けたほうが勝ちだと思うような人もいるのではないでしょうかね。

私はそういう価値観そのものが間違っていると感じています。だから、言わなきゃいけないことがあると思っているのです。

養老孟司「養老訓」より

実によくわかる。

私も50代半ばまでは会社で成功するために努力し、したくもない付き合いに時間を無駄遣いしていたので、60代になった自分は以前よりも「高級」になったと感じている。

いずれにせよ、「不機嫌なおじいさんにならない」というアドバイスは、ぜひ心に刻んでおきたいと思う。

訓の弍 感覚的に生きる

養老先生が2番目に置いたのが「感覚的に生きる」ということだった。

ものを見るとき、考えるときのベースに感覚を置くことこそが、“まっとう”だと私は思うのです。そして今の人たちはもっと「感覚的」になったほうがいいんじゃないか、とも。それは老人も若者も同じです。

養老孟司「養老訓」より

では、「感覚的に生きる」とはどういうことか?

この問いについて、養老先生は実に理系的な説明を用意していた。

私たちがものを考えるときには、二つの方法を使っています。「感覚的」に捉えるか、「概念的」に処理するか、その二つです。ここでは便宜上、前者を「感覚的思考」、後者を「概念的思考」と呼びます。

その違いを考えてみましょう。

本来「感覚的」であることは悪いことではありません。それはそもそも感覚とは何かを考えてみればおわかりになるはずです。感覚とは「視覚」「聴覚」「触覚」「味覚」「嗅覚」などです。

これらはすべて現実に何かがあることを前提としています。目の前にある花を「見る」「嗅ぐ」「触る」。すごくお腹が空いていれば、ちぎって「味わう」こともあるでしょう。また、その場で様々な音を「聴く」。このように具体的に何かを感じ取る能力が感覚です。

感覚的であるというのは、具体的であることだといってもいいでしょう。

具体的にいうことは、別の言い方をすれば、「現場の視点」とも言えるでしょうし、世間では「現実的」というのかもしれません。ややこしいのは「現実」と世の中で使うときには「もっと現実を見て大人になれ」とか「現実は悲惨だけど、私には夢がある」とか、本来の「現実」とは別の意味が強くなってしまっていることです。

私がここでいう「現実」とは感覚で捉えることができるもの、「ちゃんと存在するもの」くらいに思っていただいてよいでしょう。

感覚的の反対が「概念的」です。これはその名の通り「概念」つまり、人間が頭の中でこしらえたものをベースとした考え方です。つまり「ちゃんと存在しないもの」と思っていただけばいいでしょう。

たとえば「愛」というものは見ることはできません。「憎悪」を触ることはできません。「私は彼の愛に触れた」なんて言い回しは文学的表現であって、実際には相手の顔や手に触れることしかできません。

人間が動物と大きく異なるのは、こういうふうに、概念的に情報を処理できるという点です。実はこれは人間の特権なのです。

感覚的思考と概念的思考の違いをいちばんわかりやすく示してくれるのが、A=Bという等式です。たいていの人は「A=B」という式をすんなりと受け止めます。「ああ、AとBは等しいのだな。同じなんだな」と理解して、その先の理屈に付き合います。それが出来ない人は中学校の段階でドロップアウトせざるをえません。

しかし、実はこの「A=B]というのは極めて概念的な考え方です。よく考えてみてください。

単純に視覚で判断した場合に、「A」と「B」はまったく異なる文字です。ぜんぜん似ていません。同じだと言い張る人は相当に目が悪い。

聴覚ではどうでしょう。「エー」と「ビー」ですから、これまたまったく異なるものです。

そんなに違うのにどうしてイコールなのでしょうか。猫はこんな理屈を許さない。感覚的に考えれば「AとBは違う」ことは明らかです。

目で見ても、音として聴いても異なるものを「イコールだ」と無理やり決めてしまう、「同じ」にしてしまう、それが人間の脳みその特徴です。

養老孟司「養老訓」より

言われてみれば、「A=B」というのは奇妙である。

今の学校教育では数学もある種の暗記科目となっていて、この数式に根源的な疑問を抱くことを子供たちに求めない。

しかし60代になった私から見ると、「A=B」という数式に引っかかる子供の方が優秀に感じられる。

「同じ」にすること、概念的思考の産物の代表例が言葉です。

たとえば目の前にリンゴが2個あるとします。すると普通の人は「リンゴが2個ある」ということを理解できます。だから、目の前に何があるか聞かれれば「リンゴが2個」と答えることでしょう。

ここで「右のリンゴは左のリンゴよりも赤い。左のリンゴは右のリンゴよりも大きい。両者は別のモノである。したがって、これらを『リンゴ』などという大雑把なくくりで同じというのには無理がある」などと考える人は滅多にいません。

りんごとメロンが並んでいる場合でも、「目の前に果物があります」と答えて不思議はありません。

このように人間は概念的に考えることができるから、感覚では別のものを「同じ」と捉えて考えることができるのです。

つまり「同じ」にするということの性質がもっとも良く出ているのが「言葉」なのです。言葉というのは、別のものでも「同じ」だとして話を進めるのに便利な道具です。「そりゃ細かく見れば、どのリンゴも違うに決まっているさ。でも、そこは目をつぶって同じものだってことにしようよ」と皆で了解して「リンゴ」という言葉を使うわけです。

便利といえば便利ですが、感覚的に世界を捉えている動物からすれば乱暴な話だとなるかもしれません。

概念的に考えることが出来るおかげで、人間は複雑な言語を使えるようになり、それが現在の文明を築いたのは間違いありません。

しかし、それでも私は概念的な考えにのみ比重を置くことは健全ではないと思います。つまり「リンゴはどれも同じ」と簡単に丸めて考えない面を持つ人のほうがまっとうではないかと思うのです。

もちろん何もいちいち「『A=B』って何だ?」と疑問を持てというのではありません。それでは大人として問題があります。その調子で会話していたら、喧嘩になるか相手にされなくなるかのいずれかです。

しかし問題は最近の人は概念的な思考ばかりが優先して感覚的な思考ができなくなってきていることです。感覚が鈍くなっているのです。

平たく言えば、頭でっかちになって、目の前のことに鈍くなってしまっている人が増えているのです。

養老孟司「養老訓」より

私も長くテレビニュースの世界に身を置いてきたので、養老さんの言葉が理解できる気がする。

私が報道の世界に入った頃、現場で取材している記者の力は絶大で、内勤スタッフが迂闊に原稿を直すことを良しとしなかった。

同じ殺人事件でも、全て別物であり、現場を丹念に取材した記者が確認できた範囲で原稿を書くことが常識だった。

しかしテレビニュースがワイド化するに従い、社内にいる手練れのディレクターが原稿を書き、ネットで見た情報をもとに現場の記者に「こんなインタビューの音が欲しい」と指示するようになる。

確かにその方が物語としては面白くなるのだが、どのテレビ局を見ても金太郎飴のように同じようなニュースが並ぶようになった。

インターネットが登場したことで、現場の記者よりも本社にいるディレクターの方がたくさんの情報に接する逆転現象が起こり、さらには検索すればたいていの情報は手に入るので、一般の人たちがみんな「情報通」になってしまったのだ。

戦場を見たことのない人たちが戦争を語り、真偽の定かではないフェイクニュースが大手を振ってまかり通る。

現場で取材したことのある者なら、一つの正確な情報を掴むのがどんなに大変なことかを知っている。

しかし現場を知らないどこの誰かが創作した言葉が一人歩きしている現状は、養老先生風に言えば「概念的思考」の暴力と言えるかもしれない。

いい年こいてテレビを信用しない

そんなメディアの状況について養老先生は、「いい年こいてテレビを信用しない」という小見出しをつけて批判している。

このタイトルについては多少異論もあるが、その指摘していることはテレビを見る上でとても重要なことだと思う。

感覚的に捉えることが苦手な人が増えています。

その原因としては社会が感覚を消していく方向に進んでいることが挙げられます。いちばん大きな犯人は情報化が進んだことで、特にテレビの責任は大だと思っています。

テレビはとても強力な視覚メディアです。これを見ていると個人の視線が全部消えて、カメラの視線に代用されてしまっています。テレビの画面は全員が同じものを見ることになる。

しかしテレビの画面で伝えている「現実」は実は一台のカメラからの視点によるものに過ぎません。だから、カメラを替えたらたちまち画面上の「現実」は変わってしまう。

そんなことは当たり前だとおっしゃるでしょうか。でも、「カメラを替えたら画面が変わってしまう」ということを忘れてしまっている人が多いのです。

養老孟司「養老訓」より

テレビが流す情報は、一応テレビ局のスタッフが真偽を確かめルールに則って放送しているので、素性のわからないネット情報よりは信用に値するとは思うが、その情報が非常に画一化していることは否めない。

昔のテレビマンは天邪鬼が多く、他社が流した情報は伝えないというような意地の部分があり、同じニュースでも複数のテレビを見比べると複数の視点を得られたりした。

それは現場の記者が権限を持っていたからだ。

しかし今のテレビニュースは本社のディレクターが作り上げる。

どこかで聞いたような見出し、他局で見た映像のオンパレードだ。

これをダラダラ見続けても新たな視点は得られない。

重要なのはテレビ番組を自分で選んで、情報源の一つとして利用するという意識だと思う。

私がよく海外のドキュメンタリー番組を見るのは、日本のニュースでは得られない異なる視点が得られるからだ。

うまく番組を選べば、テレビは今でも私に多くの未知の世界を見せてくれる宝箱だと信じる。

テレビに限らず、メディアが伝える情報は、それを鵜呑みにするべきものではなく、複数の情報を突き合わせながら自分なりの理解を深めるためのものだ。

情報源やメディアの信頼性を自分なりに吟味して、取捨選択すればいい。

「いい年こいてテレビを信用しない」ではなく、「いい年こいたらテレビをうまく利用する」べきだと私は思う。

概念的思考だけが肥大してしまい、言葉の世界から始まってしまうと、そのありがたさがわからなくなります。話が逆になる。通じることが当然であると思い込んでしまう。すると実は通じない部分のほうが大量にあるということになかなか思い至らなくなります。

それがどうした、と思われるかもしれません。

しかし、感覚が落ちていることが、多くの問題を産んでいるのです。だからこの本ではしつこく感覚の大切さをお話します。

今の人は何でも明文化して、細かく決めなくてはいけないと思っています。そして、そうすればうまくいくとすら思っているようです。

簡単に言えば、まともな決まりを作れば、世の中もまともになるという思い込みがあるのです。しかし、実際にはどんなに細かい決まりを作ってもはみ出るものははみ出ます。

何でも明文化して決めていくということは、問題の解決ではなく、屋上屋を架しているだけだということが往々にしてあるのです。

私は虫を研究したり、人体の解剖をやったりしてきました。その過程で「言葉」というものの性質に気づいたのです。

たとえば、人間の体の中は図鑑に載っている解剖図のように、きれいに内蔵が分かれて見えるわけではありません。もっとグチャグチャでわかりにくいものです。

解剖とは、このグチャグチャを切り分けていく作業です。これは手、これは足、これは胴といって切る。腸と胃と食道とを切り分ける。そうやって切り分けていくのですが、実はもともとは全部くっついているということです。手と胴と足とに線が引かれているわけではありません。腸と胃と食道は全部一つながりです。

この作業をしているうちに、「どうして切るのか」「『切る』という作業は何だろう」と考えるようになりました。

この作業自体が、実は言葉をもとにした思考の産物だということに、解剖をやっているうちに気がついたのです。言葉は人間の体の様々な部分を分類する、つまり「手」「足」「胴」「腸」「胃」「食道」と区別する、言い換えれば言葉によって人体を「切る」という作業を行なっています。

メスで体を切ることで、今度はその概念を現実のほうに持ってくるという作業が解剖です。つまり頭の中で「切る」だけではなく、今度は概念的に体を切ってしまう。頭で考えたことを現実にしようとする。だから人体をバラしてしまう。それでなければ、人体をバラすなんてことは考えないはずです。

感覚的思考と概念的思考とどちらが正しいとか、正しくないとかではなくて、人間は両方できるわけです。そして今の日本では、概念的思考のみが肥大している人が多くなっているということです。

養老孟司「養老訓」より

「ルール作り」だったり「解剖」だったり、こうした概念的思考が現代社会では肥大し過ぎて様々な問題を引き起こしているというのが養老先生の見方なのだ。

現代と同様、概念的思考が幅を利かせた時代が、ヨーロッパの中世だったと養老先生は指摘する。

神を頂点とした階層構造の世界。

神様の下に天使がいて、その下に人間、さらにその下に様々な動物がいる。

これは現実の世界ではなく、人間が頭の中で考え出した世界なのだが、今でもその世界を信じようとする原理主義者が世界の各地に存在する。

養老先生が説く「感覚的に生きる」とは何か?

私の理解では、五感を使ってありのままの現実を自ら感覚的に捉え、それをしっかりと踏まえて概念的に考えろということなのかと思う。

本やネットやメディアから得た情報だけでなく、自分の足で歩き、目で見たものを大事にして生きろという教えなのだと私は理解した。

幸せの定義はできない

「感覚的に生きる」の章の最後、養老先生は「幸せの定義はできない」という小見出しをつけている。

「幸福」というのは人生の究極の目標だが、養老先生はこんなことを書いていた。

とても参考になったので、しっかりと引用させてもらおう。

ときおり「幸せとは何か」というようなことを聞かれることがあります。私はいつもこんなふうに答えます。

「考えたことありません」

またしても怒られそうですが、喧嘩を打っているわけではありません。

結局、「幸せとは○○である」というような言葉はすべて後知恵の類だとしか思えないのです。後講釈の典型です。何かが起きたあとに、思いがけなく感じるものが幸せなのです。あらかじめわかっているようなこと、「幸せとはこういうものだ」と定義できるようなものは幸せではないと思うのです。

私の例でいえば、採れるはずがないと思っていた虫が思いがけず採れたということが幸せです。思いがけないものです。「思いがけた」幸せなんてないような気がします。

10の努力をして10の見返りがあるのは当たり前のことです。でも時々、10の努力で2000くらいが返ってくることもある。これが幸せだと思うのです。

「幸せな老後」などといいますが、それは単にゆとりのある生活というようなことを指しているだけです。そもそも「幸せな老後」という言葉は少々おかしいのです。老人になるということは、人生が終わるということなのですから。体は駄目になってくるし、目は見えないし、みんなはバカにするし。何が「幸せな老後」だと思います。

あまり大きな期待はしないほうがいい。そうしたら思いがけないことですごく幸せを感じるかもしれない。

それには感受性が大事です。目が悪くては虫1匹見つけられません。

実はここでも大切なのは感覚だということです。

養老孟司「養老訓」より

幸せとは思いがけないこと。

狙って手にできるものではないのかもしれない。

私もせいぜい旅をして、自分の目と足で未知のものを知り、偶然訪れる「幸福」を待ちたいと思う。

<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館📕 下重暁子著「極上の孤独」(大活字本シリーズ/2021年/埼玉福祉会) #220318

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