去年の9月ごろ、私の中で一時ブームとなった「武蔵野」というキーワード。
このところすっかり忘れていたのだが、図書館で何気なく借りた雑誌を読んでいたら、再びその興味が蘇ってきた。
私が今暮らしているこの「武蔵野」と呼ばれる一帯は、太古の昔、どんな場所で、どんな人が暮らしていたのか?
私が借りてきた雑誌は、2018年の秋に創刊した角川文化振興財団の雑誌「武蔵野樹林」、その創刊号だ。
様々なジャンルの識者が武蔵野について書いているのだが、その中に、人類学者の中沢新一さんが書いた『武蔵野アースダイバー』という文章があった。
以前から私が疑問に思っていた点について、かなり明確に指摘してくれていたので、ぜひ書き残しておかねばと思った次第だ。

🔶 武蔵に移り住んだ海洋民族
まずは「ムサシ」の語源について、中沢さんの説を引用してみよう。
古代における「ムサシ」という言葉の意味にはよくわからないところがあります。古代の記録を見ても2種類から3種類ぐらいの書き分けがあります。その中でも私が注目しているのは「胸刺」という書き方です。
「胸刺」は、北部九州にいた宗像族などと関係しています。宗像神社を中心とした、いわゆる海人のアズミ族の中心になっている場所です。そこの人々がなぜ「ムナカタ」と言われたかといえば、伝承によると、胸に入れ墨があったからでした。
九州には、オガタという地名や名前もあります。これは背中の尾てい骨の上部に刺青があった人たちのことを言います。緒形拳なども、そういう部族の子孫だったのかもしれませんね。武蔵(胸刺)の「刺し」とは、金属製のもので刺すという意味で、刺青と関係していたのかもしれないという説はなかなか説得力があるように思います。
引用:中沢新一『武蔵野アースダイバー』
「ムサシ」の語源は、北部九州にいた胸に入れ墨のある海洋民族「海人族」「アズミ族」に由来しているというのだ。
彼らは何者か?
中沢さんは、こう説明している。
古代海人族、アズミ系の人々の原形は、倭人と呼ばれる人たちです。倭人は、中国の古い記録によく出てくる人々です。浙江省の海岸部に住んでいた部族で、稲作をやり、同時に海で漁をする人たちであり、特に潜水漁法が非常に巧みだったと言われています。
しかも入れ墨をしており、まるで海の中を水中動物みたいに潜っていたようです。この倭人と呼ばれる人たちが、日本に稲作を伝えた人たちであり、同時に海民でもありました。半農半漁で、海に潜る倭人たちが入れ墨をしていた。このことがとても重要です。
引用:中沢新一『武蔵野アースダイバー』
日本人の先祖として習う「倭人」は、もともと中国の浙江省にいた半農半漁の人たちであり、日本に移住して稲作を伝えた人たちだというのだ。
この説明は、学校で習った知識とはだいぶ違うが、私なりに勉強した最近の学説には符合する。
この弥生文化を持った「海人(あま)族」が関東平野にもやってきたと中沢さんは考えている。
- 南武蔵グループ 多摩川から東京方面へ
- 北武蔵グループ 荒川から埼玉方面へ
- 上毛グループ 利根川から群馬方面へ
内陸に定住した海人族の人たちは稲作を始め、海岸近くに残った海人族は漁業を生業としたという。
そして、人類学者の中沢さんは『もともとの武蔵野は海人族と非常に深いつながりがあった』と断言しているのだ。

🔶 南武蔵と北武蔵の抗争
武蔵にやってきた弥生人が最初にコロニーを作ったのが、田園調布のあたりだったらしい。多摩川を見下ろす多摩川台公園には、「田園調布古墳群」が残されている。
もう一つの大きなコロニーは、神田川を遡った現在の「和田堀公園」あたりにあったという。「和田」という名前は、アズミ族の祖神「ワタツミ」に由来していると考えられる。
和田堀公園の脇にある「大宮八幡宮」があるが、これまで何も知らずにお参りしていたが、全国にある「八幡宮」について調べてみると、これもどうやら海人族と大いに関係がありそうなのだ。
ヤマト王権が発足すると、武蔵や上毛に進出した3つのグループはあまり抵抗せずにその支配システムを受け入れた。中沢さんは、東国に定住した人々はヤマト王権と同じ祖先を持つ人々だったからだろうと考えている。
しかし、6世紀に事件が起きる。
武蔵には南武蔵と北武蔵に政庁が作られました。両方にヤマトの政治拠点が置かれたのです。初期には田園調布あたりの南武蔵が勢力が盛んだったのですけれども、古墳時代後期の安閑天皇元年(534年)ぐらいに、南武蔵と北武蔵の間で抗争が起きます。
田園調布の南武蔵の一族は、前橋、高崎の上毛の勢力と後ろから結んで埼玉勢力を迎撃しようと画策するクーデターを企てましたが、結果的には失敗しました。はじめの頃戦況不利だった埼玉の勢力は、命からがら使いを送ってヤマト王権に援助を求めました。それに対して、ヤマトが下した裁定は、南武蔵はけしからんということで、クーデターを起こした、小杵(おさ)という人は死刑になってしまうのです。
それ以降、田園調布勢力は主権をなくしてしまい、朝廷のミヤケ(屯倉)に編入されてしまいました。もうリーダーがいないので、没落が始まり、ただの農村に変わってしまったのです。代わりに勢力を得たのが、埼玉の北武蔵勢力および隠然たる力を持つ上毛です。高崎、前橋の群馬が近代に至るまで政治県であった歴史は、その頃からのことで、隠然たる影響力を持ち続けてついに中曽根首相や小渕首相に至るのです。
引用:中沢新一『武蔵野アースダイバー』
「武蔵国造の乱」と呼ばれるこの抗争事件により、南武蔵、つまり今の東京エリアは没落し、埼玉と群馬が東国の中心という時代が続いたようだ。
この事件後、和田堀公園周辺に暮らしていた人々は、ヤマト王権の政庁が置かれた府中に強制移住させられたが、お祭りの際には一族の神を祀る大宮八幡宮に戻ったらしく、府中と大宮八幡をつなぐために作られたのが「人見街道」だという。
私は吉祥寺に引っ越す前、人見街道近くに暮らしていただけに、そんな歴史があったとはちょっと驚きである。

🔶 縄文と出雲系が共存した古代の南武蔵
西から武蔵にやってきた海人族の弥生人は、もともとこの地に暮らしていた縄文人と共存した。
多摩川の近くにある府中、調布あたりは、アシやカヤの原野だったところで、そこへ水田を作る人たちが開拓へ入っていきました。善福寺川、神田川などの川の両側の谷地の広い部分も水田に耕作されています。
一方、洪積台地の上の方は、縄文時代から焼き畑をやっていました。当時は稲といっても陸稲と水稲を併用していますから、関東では陸稲を栽培しています。縄文時代から、畑作の農業は行われていまして、縄文村の周りは畑になっていました。
ですが、水田を作るためには、焼き畑だけでは不十分で、整地をしないといけません。土地を水平にならし、水を水平に貯めないといけないのですが、これは特別な技術がないとできないことでした。水田を作ったのは海人系の人々ですが、おおむね出雲系と捉えることができます。
ここで言う出雲系とは、出雲地方の人たちという意味ではありません。どういう人たちを出雲と言ったかというのは、なかなか難しいところですが、どうも私の考えではベースが縄文の人たちで、そこに稲作が乗って勢力を作っていった人たちが出雲と言われたのではないかと思っています。
引用:中沢新一『武蔵野アースダイバー』
このあたりで、私の頭は混乱してしまった。
「海人系」で「出雲系」?
中沢さんの言わんとしているのは、稲作の技術を持った弥生人だが、海を渡ってやってきた渡来人ではなくて、稲作を習得した元縄文人=「出雲系」という理解でいいのだろうか?
ここから中沢さんの話は関東地方を離れて、古代の日本列島を自由に飛び回る。
出雲はもともと縄文系の土地でしたが、宍道湖の周辺には大きなラグーンが形成され、水田を作るのに良い場所でしたから、出雲の稲作は大成功したのです。同時期に水田耕作に成功したのが大阪の河内にあったラグーンで、この二つがおそらく古代の出雲の大勢力であったと思います。大阪の部族の方は物部で割合早くからヤマトと結びますが、出雲は大勢力を保ち続けて、つつがなく出雲であり続けました。
関東は、そういう意味ではベースは出雲系の人たちですけど、比較的早い時期にヤマトと関係を持ったのだと思います。そこからさらに、東北へ近づいてくると今度は縄文プロパー地帯となり、縄文がそのまま近代化した世界が作られていきました。ですので、出雲というのは土台が縄文でその上に弥生が重なって稲作に成功したところです。他には、名古屋や伊勢湾の周りの人々も実は出雲系です。
また、奈良も実は出雲系です。奈良盆地の周りにもともといる住人は土グモとか言われましたがこの人たちも縄文系なのです。縄文の人たちが比較的早い時期から稲作を採り入れて、鍵遺跡などの大きい弥生の村を作っていました。そこに祀られていた神様が三輪山の神様で、神の本体はヘビです。そこへヤマトが乗り込んできたわけですから、いろいろ問題が起こり、ヤマトの祖先神の祀り所は伊勢へ出ていく必要があったのです。そういう意味では奈良という場所は、出雲地帯なのですね。
長いこと武蔵という場所はさえない場所でした。鎌倉時代に、いわば中小企業の江戸氏が、今の皇居の場所に砦を作っていた時期がありました。砦の周辺、あたり一面はカヤの野だったそうです。武蔵野といえば、そのカヤの方がイメージは強かったと思います。
引用:中沢新一『武蔵野アースダイバー』
古代史において、「出雲」をどう解釈するかは専門家でも大いに意見が分かれるところだ。
国譲りの神話があり、一年に一度神々が集まるとされる場所。
そこには間違いなく、理由があるはずなのだ。

私たちが暮らすこの「武蔵野」については、まだまだ知らないことばかりだ。
朝鮮や中国から渡来した人々の足跡が各所に残るだけではなく、私たちの体内を流れる血の中にもその痕跡は確実に残っている。
ヤマトを中心に語られてきた日本の歴史から、こぼれ落ちて忘れられてしまった武蔵野の歴史についても、折に触れて学んでいければと思う。