私の妻の父親はインテリの人で、いつもたくさんの書物に囲まれて暮らしていた。
そんな義父も、90歳を過ぎてから、あまり本を読まなくなったらしいと妻が言った。
その一言を聞いて、私の脳裏に浮かんだのは、オーディオブックだった。本を誰かが朗読してくれて、本を音声で聞くことができる。これなら義父も好きな本が楽しめるのではないかと閃いたのだ。
アマゾンでそんなサービスがあったと思って調べてみると、確かに「Audible」というサービスがあった。「最初の一冊は無料」と書いてあるが、実はとても高い。無料期間が終わると、一冊3千円から4千円ほどするようである。
でも、誰かがわざわざ読んでくださるのだから、普通の本よりも高くて当たり前だ。
そこで、YouTubeを調べてみた。確かに、いくつか無料で聞ける朗読があった。でも同時に、著作権の問題もあるとの指摘も出ていた。
そこで、音声のみのpodcastも調べてみると、青空文庫を朗読する「青空朗読」というサイトを見つけた。
インターネット上の図書館「青空文庫」の作品を朗読する「青空朗読」は、プロのアナウンサーによる社会貢献活動としてスタートし、最近は、朗読を学ぶ一般の方々からも作品を提供していただいています。2016年5月に一般社団法人となりました。
出典:青空朗読とは
著作権が消滅した作品を無料で公開する青空文庫を活用したサービスなので、朗読しても問題ないのかなと判断して、いくつかの作品を聴いてみた。
夏目漱石、菊池寛、北大路魯山人などなど。
やはり明治、大正の作品が中心だ。私は基本的に小説を読んでこなかった人間なので、読んだことのない本ばかりなので、ちょっと新鮮だった。
読むのは面倒だが、こうやって音声で流しておいて、聞き流している分には面白いものだ。
そんな感じで、適当に作品を選んで聴いていると、一つ惹きつけられた作品があった。小説ではない。論説というか、随筆というか、とにかく短編だ。
それは、桐生悠々の「言いたい事と言わねばならない事と」という作品である。
こちらに、青空朗読のリンクを貼っておくので、もしご興味があればどうぞ。
桐生悠々は、明治末から昭和初期にかけて活躍したジャーナリストで、軍部にもはっきりと物を言ったことから反骨の言論人だ。
彼は軍部を批判することで何度も職を失った。
そして晩年は、個人雑誌「他山の石」を通して細々と自らの主張を展開したが、太平洋戦争が始まる直前、病のためにこの世を去った。
彼が昭和11年に発表した「言いたい事と言わねばならない事と」を青空文庫から引用させていただく。
《やや》もすれば、私を以て、言いたいことを言うから、結局、幸福だとする。だが、私は、この場合、言いたい事と、言わねばならない事とを区別しなければならないと思う。
出典:青空文庫より
私は言いたいことを言っているのではない。徒に言いたいことを言って、快を貪っているのではない。言わねばならないことを、国民として、特に、この非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。
言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである。尤も義務を履行したという自意識は愉快であるに相違ないが、この愉快は消極的の愉快であって、普通の愉快さではない。
しかも、この義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う。少くとも、損害を招く。現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、軍部のために、私の生活権を奪われた。私はまた、往年新愛知新聞に拠って、いうところの檜山事件に関して、言わねばならないことを言ったために、司法当局から幾度となく起訴されて、体刑をまで論告された。これは決して愉快ではなくて、苦痛だ。少くとも不快だった。
私が防空演習について、言わねばならないことを言ったという証拠は、海軍軍人が、これを裏書している。海軍軍人は、その当時に於てすら、地方の講演会、現に長野県の或地方の講演会に於て私と同様の意見を発表している。何ぜなら、陸軍の防空演習は、海軍の飛行機を無視しているからだ。敵の飛行機をして帝都の上空に出現せしむるのは、海軍の飛行機が無力なることを示唆するものだからである。
防空演習を非議したために、私が軍部から生活権を奪われたのは、単に、この非議ばかりが原因ではなかったろう。私は信濃毎日に於て、度々軍人を恐れざる政治家出でよと言い、また、五・一五事件及び大阪のゴーストップ事件に関しても、立憲治下の国民として言わねばならないことを言ったために、重ねがさね彼等の怒を買ったためであろう。安全第一主義で暮らす現代人には、余計なことではあるけれども、立憲治下の国民としては、私の言ったことは、言いたいことではなくて、言わねばならないことであった。そして、これがために、私は終に、私の生活権を奪われたのであった。決して愉快なこと、幸福なことではない。
私は二・二六事件の如き不祥事件を見ざらんとするため、予め軍部に対して、また政府当局に対して国民として言わねばならないことを言って来た。私は、これがために大損害を被った。だが、結局二・二六事件を見るに至って、今や寺内陸相によって厳格なる粛軍が保障さるるに至ったのは、不幸中の幸福であった。と同時に、この私が、はかないながらも、淡いながらも、ここに消極的の愉快を感じ得るに至ったのも、私自身の一幸福である。私は決して言いたいことを言っているのではなくて、言わねばならない事を言っていたのだ。また言っているのである。
最後に、二・二六事件以来、国民の気分、少くとも議会の空気は、その反動として如何にも明朗になって来た。そして議員も今や安んじて——なお戒厳令下にありながら——その言わねばならないことを言い得るようになった。斎藤隆夫氏の質問演説はその言わねばならないことを言った好適例である。だが、貴族院に於ける津村氏の質問に至っては言わねばならないことの範囲を越えて、言いたいことを言ったこととなっている。相沢中佐が人を殺して任地に赴任するのを怪しからぬというまでは、言わねばならないことであるけれども、下士兵卒は忠誠だが、将校は忠誠でないというに至っては、言いたいことを言ったこととなる。
言いたい事と、言わねばならない事とは厳に区別すべきである。
戦後生まれの私のようなものには、二・二六事件直後の日本では、桐生悠々が少し希望を持つような兆候もあったのかと、ちょっと新鮮な気持ちで朗読を聴いた。
すべてを現代に生きる人間の視点から見るのではなく、異なる時代に生きた人のリアルタイムの気持ちを知ることは、大切なことだと改めて思った。
今後も、暇がある時には、時々「青空朗読」を利用させていただこうと思っている。
青空朗読ですか、社会貢献にも色々な形があるものですね。