ベルリンの壁

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35年に及ぶテレビマン生活で、いくつか忘れられない出来事がある。その一つが、東欧革命からソ連崩壊に至る数年間。東西冷戦の一方の主役であった社会主義陣営のあまりにあっけない終焉だった。

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1989年のベルリンの壁から始まる大激動期、西ドイツの首相として東西ドイツの再統一を成し遂げたコール元首相が亡くなった。87歳だった。

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ベルリンの壁崩壊の一ヶ月前、私は東西ベルリンの取材をした。

初めて足を踏み入れた東ドイツ。1989年10月に建国40周年の式典が開かれた。

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盛大な軍事パレードなども取材したが、私の関心は一般市民の本音だった。この頃、ハンガリーなどでは国境を越えて西側に逃げる市民が出始め、東ヨーロッパの動揺が伝えられていた。

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私はディスコやスケート場で若者たちを取材した。彼らは西側の文化に強い関心を持っていた。この当時普及し始めた衛星放送によって、西側のテレビ番組を見る市民も多かったのだ。東欧革命がテレビによって引き起こされた革命と呼ばれる所以が実際に現場にはあった。

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ベルリンの壁の東西には様々なドラマがあった。

ひっそりとした東ベルリンから一歩西ベルリンに入ると、近代ビルが立ち並び性風俗の店が軒を連ねる退廃の都がそこにはあった。

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そして私が一番記憶に残っているのが、年金支給日の光景だ。

西ドイツ政府は、東ドイツの高齢者にも年金を支給する制度を設けていた。月に一回、決められた日に東ベルリンに住む老人たちが電車に乗って壁を越え西ベルリンの役所に年金の受け取りに行く。厳しく通行が制限された東西ベルリンの間をつなぐ電車が存在し、老人たちだけは行き来することが認められていた。

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家族が付き添うことはできない。そして家族たちは老人が西側から戻ってくるのをじっと待っている。家族にとって、老人が受け取る年金は貴重な現金収入だった。日本では聞いたこともなかった不思議な相互依存関係が東西ベルリンには存在した。

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ベルリンのシンボルとも言える「ブランデンブルク門」は、当時東ベルリン側にあった。門の目の前にも壁が築かれていた。

1989年11月9日、東西冷戦の象徴だったそのベルリンの壁が崩壊した。その時私は東京にいて内勤のディレクターとしてそのニュースを伝えた。

そして半年後の1990年5月、私は再びベルリンを訪れた。わずか半年余りの間に、町の様相は一変していた。

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ブランデンブルク門の前の壁はすでに取り壊され、代わりに工事用のフェンスが門を覆っていた。そして通行する人もまばらだった門の周辺には大勢の観光客が自由に歩き回っている。壁のあったつい半年前のあの緊張感は、微塵もなくなっていた。

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観光客目当てに壁の破片とともに大量に売られていたのが、東ドイツ軍の制服だ。

この時のドイツ訪問の目的は、まさにその東ドイツ軍を取材することだった。それまで厚いベールに覆われていた東側の精鋭部隊を取材する許可が出たのだ。東ドイツ軍はソ連を盟主とするワルシャワ条約機構の最前線を受け持つ東ヨーロッパでも最強と言われた軍隊だった。

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しかし規律はすでに崩壊していた。

早朝、起床の号令がかかっても兵士たちが起きてこないのだ。「これが東欧最強と言われた東ドイツ軍なのか」衝撃的な光景だった。あの建国40周年の勇壮な軍事パレードからわずか半年余りで、組織はここまで緩んでしまうのか。

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訓練も行われていた。しかし訓練を終えた兵士たちは酒を飲みカードゲームに興じている。インタビューすると、白けた答えが返ってきた。彼らの部隊が今後どうなるのか上官に聞いても誰も答えられない。つい先日まで敵として対峙してきた西ドイツ軍の下で、自分の将来がまったく見えなくなってしまった兵士たち。誰のために戦うのか、その意義を失った軍隊は簡単に崩壊してしまうことを知った。

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戦車の解体工場も取材が許された。東ドイツ軍の主力であるT-72型戦車が屋外に並ぶ。

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この戦車をバーナーで焼き切りバラバラに分解しているのだ。

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冷戦時代、戦車、特にその装甲板の厚みは軍の最高機密だった。それがただのスクラップとして放置されている。

戦後の国際社会を支配してきた冷戦構造の終焉をこれほど象徴的に示す現場はなかなかないだろう。

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大きな歴史の変化の中で、個々の人間は無力だ。

「ペレストロイカ」を推進し、ソ連及び東欧諸国の近代化を進めようとしたゴルバチョフ大統領もやがてその歴史の渦に呑み込まれていった。

資本主義と社会主義の対立。世界を二分する「鉄のカーテン」。

戦後生まれの私の世代は、生まれた時から冷戦が厳然として目の前にあり、冷戦のない世界など想像できなかった。しかし、それはあっけなく実現したのだ。

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コール氏は16年にわたってドイツの首相を務めた。彼も冷戦終結の功労者の一人である。

しかし、当時のレーガン大統領、サッチャー首相、ミッテラン大統領、そしてゴルバチョフ大統領という強烈な個性の首脳たちの中で、コール氏はどちらかといえば凡庸な印象を与えた。

コール氏の死後、彼の偉大な指導力を讃えるコメントが世界中から寄せられている。確かに、ただ体が大きい凡庸な指導者なら16年も政権を維持することはできなかっただろう。

メルケル首相を見出したということだけでも、コール氏の功績は大きい。

フランスのミッテラン大統領と組んでヨーロッパの統合を推し進めた功績も忘れてはならない。ミッテラン=コールの仏独関係。あの頃のヨーロッパは高い志と理性を尊重する理想的な社会だったのかもしれない。

ポピュリズムが横行する今の世界で、あの時代を思い返すことは意味のある作業だろう。

コール元首相のご冥福をお祈りしたい。

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