韓国の歴史

水野俊平さんという北海商科大学の教授が書いた「韓国の歴史」という本を読んでいる。

なぜか?

このところ、日韓関係が気になっているからだ。

従軍慰安婦問題、徴用工裁判、そして自衛隊機に対するレーザー照射問題。昨年から悪材料が次から次へと出てきて両国関係は悪化の一途をたどっている。

なんだか両政府が意図的に問題を大きくしているという風に、私には見えて仕方がない。

日本国内では、政府もメディアも世論も「韓国側に全面的に非がある」という見方で一致している。確かに、どの問題も事の発端は韓国側だった。

しかし、居丈高に韓国の非を責める日本の世論を眺めていると、個人的には少し違和感がある。韓国の人たちの間にある「過去の屈辱」に対する反日感情を逆撫でするような言動は出来るだけ控えた方がいいと思うのだ。

もし立場が逆だったら、私たちは「もう過去の話だ」と忘れられていただろうか?

加害者はすぐに忘れるが、被害者は容易に忘れることができない。ユダヤ人は今でもホロコーストを絶対に許さない。だからドイツは今も、ナチスの犯罪を子供たちに教えている。それに対して、日本では過去の負の歴史をきちんと教えていない。そのため、私たちは日本軍が朝鮮半島や中国で何をしたのかを驚くほど知らないのだ。

いつまでたっても、歴史問題が噛み合わない一因は日本側にもある。少なくとも、私はそう思っている。

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御茶ノ水にある「在日本韓国YMCA」。

100年前の2月8日、日本に留学していた朝鮮留学生たちがここで日本からの「独立宣言文」を採択した。YMCAのサイトにはこの「2.8独立宣言」について、次のように記述されている。

『 4年にわたり戦われてきた第一次世界大戦が1918年に終了し、アメリカ大統領ウイルソンが講和原則の一つとして提唱した「民族自決主義」は、独立国家を持たない民族を大いに勇気づけました。在日朝鮮人留学生たちは、国内外の指導者たちとの情報交換と国際情勢分析を通して、民族独立運動に最適な時期であると判断し、監視の厳しい中、年末から年明けにかけて様々な名目をつけた会合や集会を行い、そのための具体的な準備を進めていきました。

東京が30年ぶりの大雪に見舞われた1919年2月8日、中心メンバーたちは朝から集合し、日本語と英語に訳された独立宣言文、決議文、民族大会召集請願書を日本の貴族院、衆議院の議員たち、政府要人、各国駐日大使、内外言論機関宛に郵送しました。この日は午後2時から、在日本東京朝鮮YMCA(現在の在日本韓国YMCA―以下YMCA)の講堂で「朝鮮留学生学友会総会」が開催されることになっていました。会場は始まる前から結集した数百名の留学生で熱気にあふれていました。総会の開会宣言、開会祈祷が終わると同時に「朝鮮青年独立団」を結成しようと「緊急動議」の声が挙がり、独立団代表11名の署名入り独立宣言文が満場一致で採択されました。警察官たちが乱入し、指導メンバーたちの一斉検挙が始まり、宣言署名者のうち、使命を帯びてすでに日本から脱出していた2名を除く9名が逮捕されてしまいました。その後も、東京、大阪などで第二、第三の運動が継続されました。この「事件」は、日本国内はもちろん、海外でも報道され大きな波紋を呼びました。また宣言文はソウルにも伝えられ、3.1独立運動を引き起こす導火線となりました。』

日本による韓国併合から9年、朝鮮留学生たちに希望を与えたウィルソン米大統領による「民族自決主義」。“敵地”日本に留学していた学生の間から独立運動が盛り上がり朝鮮半島に飛び火した事実を、どれだけの日本人が知っているだろう?

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YMCAの玄関前には、「朝鮮独立宣言」と書かれた記念碑が立てられていた。

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私が訪れた時、ちょうど地下のホールでは「百周年記念式」が開かれていた。

事前に申し込んだ人しか入れないそうで、中に入ることはできなかったが、ピリピリした雰囲気はない。ただ、YMCAを遠巻きにするように警察車両が何台か止まっていた。

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水野俊平著「韓国の歴史」の話に戻る。

正直な話、韓国の通史を読むのはこれが初めてだ。我ながら、知らないことが多い。昔から、朝鮮では派閥抗争が絶えない。東人派、西人派、北人派、南人派・・・。実にいろんな党派に別れていつも争っている。まるで近代まで平安時代が続いているような国である。

現代になっても、政権交代するたびに大統領経験者が罪に問われる復讐の社会、これは朝鮮半島では昔からずっと続く伝統だということを知った。

まさに「恨」の文化なのだ。

一方で、「武」よりも「文」を重んじる国でもあった。だから、朝鮮が他国を侵略した歴史はほとんどない。日本に対しても、せいぜい倭寇対策のために対馬を攻めたり、元に脅されて元寇の尖兵として駆り出された程度だ。

反対に、他国に蹂躙されることは何度も経験した。

中国に対しては冊封体制に組み込まれ従属する立場ではあったが、基本的には朝鮮民族の独立国として長い歴史を刻んできた。

その朝鮮を日本は何度か侵略した。

ここから日本が朝鮮半島で行ったことを本の中から引用するが、もし反対の立場だったらどう思うかという視点を持ちながら、読んでいきたい。

 

日本の朝鮮侵略として、代表的なのが秀吉だった。

『豊臣秀吉は1587年、明を征伐するため朝鮮国内の通過を求める使臣を派遣した。朝鮮では使臣の持ってきた文書の内容が傲慢であるとして回答を先延ばしにし、翌年には通信使を派遣できないと回答した。

2年後の1590年3月、朝鮮は黄允吉と金誠一を日本に派遣して朝鮮侵攻の可能性を探らせた。

朝鮮に帰国した後、朝鮮侵攻の可能性について西人派の黄允吉は「ある」と答えて日本への警戒を主張したが、東人派の金誠一はこれを非難して対日安心論を展開した。結局、結論の出ないまま豊臣秀吉の朝鮮侵略に対する策は立ち遅れてしまった。だが、これは事の真偽を推し量りかねて結論が出なかったというよりも、東人派と西人派の派閥対立があったためである。1591年には対馬からの使臣が1年後の侵攻を伝えたが、朝廷が防備を命じても成果ははかばかしくなかった。

この時、日本から伝えられたのは「明を征伐する道を貸せ」という要求であった。これは明と朝鮮に対する宣戦布告を意味していた。

豊臣秀吉は僧侶を探偵として送り込み、朝鮮半島の地形や政治状況を調べるなど着々と朝鮮侵攻の準備を進め、九州、四国、中国地方の大名を中心に軍隊を再編し、小西行長、加藤清正、黒田長政などの軍勢を先鋒として編成した。

1592年4月13日、小西行長の先鋒が釜山浦に侵攻、釜山城、東菜城を陥れた。続いて加藤清正の軍勢が釜山に、黒田長政の軍勢が金海に上陸し、5月までに20万人あまりの軍勢が朝鮮に上陸した。そして朝鮮側の応戦が少なかったこともあり、釜山上陸後2カ月足らずで朝鮮全土が日本軍に蹂躙される危機に陥ってしまった。万策尽きた朝鮮の王・宣祖は漢城を捨てて明に逃れ、明に援軍を求めた。明は李如松率いる援軍を派遣し、明軍は1593年には平壌で小西行長の軍勢を打ち破ったが、その後、小早川隆景の軍に大敗してしまった。そして危機に陥った祖国の救うために立ち上がったのは「義兵」と呼ばれる義勇兵の集団だった。義兵とは外敵の侵入に際し、国家の命令や徴発を待たずに自発的に立ち上がった民兵をいう。

彼らは李舜臣の水軍とともに日本軍を悩ます主要勢力として成長する。官軍が十分に戦うこともできず敗戦を繰り返していた反面、義兵はあちこちで日本軍の駐屯地を襲撃したり、移動中の日本軍を奇襲攻撃したりして打撃を与えた。

このような義兵の活躍により、戦線は膠着状態となって朝鮮と日本は休戦状態に入り、明国軍と日本軍との間で和議が進められ、戦乱は一旦終息を迎えた。

やがて明国との和議交渉が決裂すると、1597年に豊臣秀吉は、14万7000余りの兵を朝鮮に出兵させた。「丁酉再乱」、日本でいう慶長の役の勃発である。これは一次侵攻の際に成功しなかった朝鮮半島南部の全羅道、慶尚道、忠清道、京畿道の占領が目的であったとされる。

日本水軍の奇襲を受けて李舜臣の後任者である元均は惨敗していた。李舜臣が直ちに水軍の修復に乗り出し、彼は鳴梁海峡において日本軍と戦って大勝した。この大勝は閑山島大捷とともに李舜臣の二大戦功とされ、これらの海戦での勝利は日本軍敗退の決定的な要因となった。

開戦2カ月で平壌まで陥落させた日本軍は、義兵の抵抗によってそれ以上進撃することができずに押し戻され始めた。義兵たちのゲリラ活動で日本軍の後方の陣地が壊滅し、船による補給も李舜臣らの水軍によって絶たれた。穀倉地帯である全羅地方への陸路侵入も義兵の抵抗によってできなかったためである。

1598年8月、豊臣秀吉が死ぬと日本軍は一斉に撤兵を始めた。11月、李舜臣は逃走する日本軍を追って朝鮮半島南部の露梁に進撃したが、戦闘中に胸に弾丸を受けた。彼は自分の死を知らせるなと言い残して戦死したと伝えられている。

こうして7年にも及ぶ戦争は終結したが、朝鮮はおびただしい人命損失とともに、莫大な財産的被害を被った。土地台帳と戸籍が大部分消失して国家運営が麻痺状態に陥り、耕地面積も3分の1以下に減り、国家の租税収入も激減した。また、多くの貴重な文化財が奪われたり消失したりした。戦争を契機として朝鮮では身分秩序が動揺し始めた。

日本では豊臣秀吉に代わって徳川家康が全国を統一すると、朝鮮は徳川幕府の和議を受け入れて使節を派遣し、1609年には己酉約条を締結して貿易を再開した。日本は朝鮮から搬出した活字、会が、書籍と捕虜になった工匠や知識人を通じて性理学など多くの学問と技術を発展させた。明は戦争によって国力が消耗し、財政が逼迫して反乱が相次いで起こり、明の衰退に乗じて北方では女真族が「後金」を建てた。

このように「壬辰倭乱・丁酉再乱」は、それまで東アジアの儒教文化圏で後進国として認識されてきた日本と女真族が発展を遂げる契機となり、中華文化の正統を自認してきた明と朝鮮が衰退するなど、東アジアの国際秩序を大きく変化させた。』

長々と引用させていただいたが、秀吉の野望の犠牲になった朝鮮では、『戦争によって深い傷を受け、日本を不倶戴天の敵国と見なすようになり、豊臣秀吉を「万世忘れることのできない敵」「この賊、すなわち我が国、百年の敵」とまでいうようになっていた』と、韓国人の心の中では忘れがたい屈辱の歴史となっているのだ。

秀吉の朝鮮出兵については、私も学校で教わったが、どちらかと言えば英雄伝という側面が強く、加藤清正などはこの時の戦功によって歴史に名を残している。日本軍が朝鮮半島のどこでどのような損害を与えたかについてはまったく習った記憶はない。

その一方で、韓国では李舜臣や義兵の活躍が史実以上に大きく教えられているようで、自ずと日本人と韓国人の間で、歴史観の大きな齟齬を生んでいる。

 

次に日本が登場するのは「江華島条約」である。

『1868年の明治維新によって幕藩体制から天皇親政体制へと変わった日本は、翌年、対馬宗氏を介して朝鮮へ日本で新しい政府が誕生して王政が復古したことを知らせた。だが朝鮮は国書の書式や印が異なり、とりわけ従来の外交慣例では中国の皇帝しか使うことが許されない「皇」や「勅」などの文字が使われていたため、国書の受け取りを拒否した。

日本政府側では解決の糸口が見つからぬまま、一部で「征韓論」が台頭し、1873年には朝鮮使節派遣問題を巡って政府内が分裂した。同年に起こった大院君失脚によって1875年には国交交渉が再開されるものの、結局交渉は暗礁に乗り上げてしまった。このため交渉にあたっていた外務省の森山茂らは軍艦の派遣を要請し、武力によって朝鮮に開国を迫ることにした。

1875年5月、軍艦雲揚号と第二丁卯号が釜山港に入港し、朝鮮側の抗議を無視して沿岸を探測、「艦砲射撃演習」を名目にして武力示威を行った。雲揚号は一旦帰国したが、9月には再び「航路測定」を名目にして江華島の東南に接近して停泊した。朝鮮側が砲撃を加えると雲揚号は応戦し、永宗島に上陸して官衙と民家を焼き払って人々を殺戮した。江華島事件である。

1876年2月、日本はこの事件を口実にして朝鮮側に開国を強要するため、全権大使・黒田清隆、副全権大使・井上馨を6隻の軍艦とともに派遣して談判に臨んだ。朝鮮側は議論の末、開国を選択して接見大官・申ほんと全権大使・黒田清隆の間で「江華島条約(日朝修好条約)」が締結された。清国の宗主権を否定し、朝鮮を独立国として認める内容ではあったが、言うまでもなく武力を背景にして強要した不平等条約である。この条約締結によって釜山港・元山港・仁川港の開港、開港場における日本側の治外法権と輸出入税不課および日本紙幣の使用が決められた。』

 

そして、朝鮮半島を舞台に日清戦争が起きる。

このきっかけを作ったのは、「東学」と呼ばれた「世直し信仰」出会った。

『19世紀に入って以来、朝鮮では人々の生活を顧みない暴政が続き、外国勢力の侵攻によって朝鮮の社会には不安が広がっていた。1876年の開港以来、日本をはじめとした外国の勢力の進出によって米価高騰や廉価な綿製品の流入が起こっており、特に朝鮮半島南部の人々は私服を肥やす官吏の暴政も相まって生活苦に喘いでいた。

このような不安に脅え、拠り所を失った人々の中に「世直し信仰」として広まったのが「東学」である。

東学は、崔済愚が1860年に創始した宗教で、その宗旨は人間を天と同じものと考えて万人平等を主張した「人乃天」思想と地上の天国を実現する「後天開闢」の思想である。これは天主教のような来世を信じるものではなく、現世において万民平等を成し遂げ、暴政や外国勢力の侵攻から人々の暮らしを守る世直し改革的なものだった。この東学の信者を中心として結集した農民が、地方郡守の悪政に反対して行った蜂起を「甲午農民戦争」という。

蜂起した農民は4000人を超え、民乱は次第に農民戦争へと変わっていった。農民軍は官庁を襲って監獄に捕らえられていた農民を釈放して両班・地主・富豪から奪った財産を貧しい人々に分け与えた。

農民軍は鎮圧に来た全州監営の兵士や中央の官軍をも撃破、5月31日には全羅道の道都・全州へ入って官軍と激戦となった。ここで多くの犠牲を出した農民軍は、清国や日本の派兵を知ると、農繁期が近づいたこともあって政府に改革案の受け入れと生命の安全を条件に6月10日、「全州和約」が締結された。

一方、全州城が占領された当時、高宗は清国に派兵を要請していた。朝鮮への支配を強めていた清は軍艦を派遣して舞台を牙山に上陸させた。日本もやはり清を牽制するために仁川に部隊を上陸させた。ところが両国の軍隊が朝鮮に到着した頃には、農民軍と政府との間で「全州和約」が結ばれ、農民軍は既に撤退していた。軍隊の撤収を要求する朝鮮に対し、日本は1894年7月23日、景福宮を突如占拠して閔氏政権を崩壊させ、その二日後、牙山湾に停泊していた清の艦隊に砲撃を加えた。日清戦争の勃発である。(8月1日 宣戦布告)。

そして日本は閔氏一族を牽制するために27日には大院君を担ぎ出して金弘集を首班とする親日開化派政権を樹立させた。これには朝鮮から清と親清勢力を排除する狙いがあった。

一方、牙山湾で清の艦隊に攻撃を加えた日本軍は、9月16日には平壌での戦闘でも清軍を退け、やがて戦線は中国大陸へと移動、遼東半島の大連、旅順を占領する。

このようにして朝鮮半島内での日本軍の侵略と開化派の親日姿勢が強まると、東学農民軍の指導部は、「斥倭斥化(日本と開化を斥ける)」を掲げて、再び立ち上がった。蜂起した農民軍は延べ20万であった。1894年9月下旬、忠清南道論山に集まった農民軍は公州に向けて北上を開始した。当時、公州は農民軍鎮圧に動員された日本軍と官軍の拠点だった。これに対して日本軍は、官軍とともに鎮圧にあたり、11月下旬から12月上旬にかけて公州郊外の牛金峙で、農民軍と日本軍・官軍との激しい戦闘が行われた。農民軍は日本軍の優勢な火力に耐えられずに敗退し、全羅北道の泰仁と金溝の戦闘で全琫準が率いる部隊も敗れ、彼をはじめとする東学の指導者らはすべて捕らえられて処刑された。』

こうして日清戦争に勝利し、東学農民戦争も鎮圧した日本だったが、三国干渉により朝鮮半島内での勢力を後退させる。

この頃実権を握っていたのは高宗の妻、閔妃だった。閔妃はロシアに接近して日本を牽制しようとした。

そして1895年9月、陸軍中将の三浦梧楼が公使として赴任した。

『三浦梧楼はロシアと朝鮮王室とを引き離すために、閔妃暗殺を計画する。三浦梧楼は日本守備隊と公使館警察、日本人の経営する「漢城新報」の関係者、大陸浪人などを糾合して実行部隊とし、10月8日未明に王宮に侵入して王妃を惨殺し、遺体を焼くという蛮行を行なった。閔妃暗殺事件である。(韓国では乙未事変ともいう)。

日本側はこの蛮行を大院君派のクーデターに見せかけようとした。しかし、事件の一部始終はアメリカ人軍事教官やロシア人技師らに目撃されていた。アメリカやロシアは自体の究明を日本に求め、金弘集政権が日本と事件との関連を否定しても国際問題化は避けることができなくなった。事件に進展に慌てた日本側は、やむなく事件の関連者を逮捕し、広島において裁判を行なったが、三浦梧楼をはじめ事件関係者らは、翌年1月には証拠不十分ということで全員釈放されている。

王妃の虐殺によって国民の反日感情が極限に達した状況で、親日派内閣が推進する改革は全国的な抗日義兵活動を引き起こす契機となった。』

王妃が暗殺されたことで極度の不安を感じた高宗は、親露派に勧めに応じ、ロシア公使館に避難した。これに伴い、朝鮮政府内では日本の影響力が弱まり、ロシアの影響力が強まった。

こうした中で1897年10月12日、高宗は皇帝即位式を挙行し、大韓帝国を誕生させた。

そして日本とロシアの対立は、やはり朝鮮半島を舞台として日露戦争へと突き進んでいく。

『朝鮮半島におけるロシアと日本の対立は、ロシア側が優勢となった。さらに1900年、中国で起こった義和団の乱をきっかけに、ロシアは中国東北地方を占領していた。こうしたロシアの南下を懸念した日本は、ロシアと対立していたイギリスと日英同盟を結んでロシアを牽制し、中国東北地方から撤退することを要求した。日露交渉の過程では武力衝突を避けるために「韓満交換論」という案も議論された。ロシアは日本が朝鮮を自由にすることを認め、日本はロシアが満州を自由にすることを認めるという現実的な選択だったが、これは実現しなかった。そして1903年夏からの日露交渉は難航し、ついに1904年2月8日、日本は仁川・旅順のロシア艦隊を奇襲して日露戦争が勃発した。

大韓帝国は局外中立を宣言したが、日本は開戦前から朝鮮に軍隊を増派し、軍事力を背景に2月23日には韓国との間で「日韓議定書」を結んだ。3月には韓国駐留軍を編成して、韓国を軍事占領下におき、さらに8月には「第一次日韓協約」を締結して韓国の財政と外交を監督するために日本政府が派遣した顧問を置くことを定めた。このほか宮内府・軍部・学部・警務などに日本人が顧問として入り、内政干渉を行うようになり、韓国政府による自主的な政治は行えなくなっていった。

そして日露戦争の局面は1905年1月の旅順での戦いと3月の奉天会戦、そして5月の日本海海戦での勝利で日本に有利となった。これを契機に日本は、韓国に対する支配を列強各国に認めさせるために画策した。各国の植民地支配を認める代わりに朝鮮に対する「保護権」を承認させたのである。その上で日本は、1905年9月、アメリカの仲介でロシアと日露講和条約(ポーツマス条約)を結び、ロシアに対して「韓国における政治・軍事及び経済上の卓絶なる利益」を認めさせた。保護権とは韓国の外交権を日本が奪い、政治は日本の駐在官が監督するというものだ。

こうして日本は韓国を保護するという名目で、1905年11月17日、第二次日韓協約を韓国政府と結び、外交権を奪って独立国から植民地へと没落させた。条約締結に際して伊藤博文は朝鮮駐留軍司令官長谷川好道らを引き連れて出席し、閣僚会議場は日本の憲兵隊が取り囲んでいた。そうして閣僚らに対する脅しと個人審問という方法で強制的に条約を結ばせた。1906年、日本は韓国の日本大使館を統監府に改め、同年3月、伊藤博文を初代統監に任命した。統監は天皇直属の官吏で、韓国の外交権を行使して韓国における日本の官憲を監督し、韓国に駐留する日本軍を統率指揮する権限を持っていた。

1907年6月、高宗は、この第二次日韓協約を無効としてオランダのハーグで開催される万国平和会議に密使を派遣し、条約の不当性を訴えようとした。しかし、会議では韓国には外交権がないという理由で参加を拒否され、当初の目的を果たすことができなかった。

密使を送ったことに対して、伊藤博文統監は韓国政府に抗議し、反日意識の高かった高宗皇帝を退位させ、代わりに皇太子・純宗を即位させた。

さらに日本は7月、第三次日韓協約を締結させ、統監の推薦する日本人を官吏として登用することを強要し、外交権に続き、内政に関する権力まで掌握した。8月には軍隊も解散させられるが、これに反発した軍人たちが義兵に合流するなどしたため、日本は1909年9月から「南韓大討伐作戦」を行ってこれを鎮圧している。

1909年10月には日韓併合への動きに反対した安重根が枢密院議長に就任した伊藤博文を中国ハルビン駅で射殺するという事件が起きた。

そして日韓保護条約締結に賛成した官僚の一人である李完用が総理大臣に就任して親日的な内閣を組織し、1910年8月22日、大韓帝国の総理大臣・李完用と韓国統監府・寺内正毅統監との間で「日韓併合条約」が調印された。これによって519年の歴史を誇る朝鮮王朝は終焉を迎えた。朝鮮民衆の反発を恐れた日本は一週間後の8月29日になってようやく条約の調印を公布した。この日を韓国では「庚戌国恥日」という。』

日露戦争後の日本のやり口は、帝国主義の時代とは言ってもちょっと悪どい。

朝鮮が弱かったと言ってしまえばそれまでだが、日本がこんな目にあっていたら歴史書を読むたびに嫌な気分になるだろう。

『1910年に「韓国併合ニ関スル条約」を大韓帝国政府と結んだ日本は。大韓帝国を日本に併合し、その領土を植民地とした。さらにその領域を「朝鮮」、王都の漢城を「京城」と改称し、統治機構「朝鮮総督府」を設置して本格的な植民地支配に取りかかった。

朝鮮総督府の最高責任者である朝鮮総督は、陸海軍の大将の中から任命され、天皇にのみに従えばよい存在だった。そのため憲法に直接束縛されず、朝鮮における行政権、立法権、司法権を持ち、朝鮮に駐留する陸海軍の統率権を掌握していた。つまり総督は首相も及ばない大きな権限を持った絶対的な存在だったのである。そして歴代の総督が陸海軍の現役大将であったことは、日本の植民地統治が軍事力を背景にした「武断統治」であったことを象徴している。

そして民衆の抵抗を抑えて支配していくために、本来は軍事警察を職務とする憲兵が、警察官とともに民間人に対して普通警察業務までも行う憲兵警察制度を採用していた。憲兵警察の業務は義兵の討伐などの民族運動の鎮圧のほか、抗日勢力の情報収集、戸籍業務、日本語の普及、道路改修、農事改良、副業奨励など一般行政に及ぶ広範囲なものだった。警察署長や憲兵隊長は罰金・笞刑・交流などの刑罰を科すことのできる即決審判権も持っていた。また、学校では日本人教師が帯剣した制服姿で授業を行った。

さらに総督府は「同化主義」を掲げて朝鮮人の日本人化を図るために、1910年には集会取締令を公布し、言論、出版、集会、結社の自由を奪った。そのため併合以前から国権回復運動の一つとして愛国啓蒙運動を展開していた大韓協会などの政治結社は解散させられた。翌年には「第一次朝鮮教育令」が出されて「忠良な国民」を育成することを目的として、教育勅語に則り、天皇崇拝と日本語の普及が行われた。こうした武断政治は1919年の3.1独立運動まで続くことになる。

1910年代、朝鮮総督府は同化政策を進めるとともに「朝鮮土地調査事業」を行った。この調査事業によって全国の土地測量が行われて土地所有者を確定し、地価を根拠として税金を徴収する制度が整備された。

従来通りの土地所有権を認めてもらうためには、その土地に対する縁故関係を申告する必要があったが、多くの農民が法的知識を持たなかったことと広報不足とが相まって、農民たちは先祖伝来の田畑を何の抵抗もできずに奪われることとなった。この調査は開港以来、行われていた日本人地主による土地収奪を追認する結果ともなり、広大な土地が日本人の所有となった。

また、当時、自作農の多くが悪徳官吏からの収奪を避けるために、田畑の多くを便宜上、政府機関や皇室に寄進した形にしていたことも災いした。本来民有地とすべき土地を総督府は強引に国有地としてしまったのである。土地は東洋拓殖株式会社をはじめとする日本人地主に払い下げられて日本人農民の朝鮮浸透をもたらす結果となった。

さらにそれまで慣習的に認められていた農民たちの共同利用林「無主公山」が否定されて国有林化されたことも彼らの生活を苦しめる要因となった。生きるための田畑を失った農民たちは自作農から小作人へと転落したり、流民となって日本や満州へ移住したりした。

土地調査事業の一方で総督府は「会社令」を出し、朝鮮人・日本人を問わず会社を設立しようとする時には、総督の許可を得るようにした。これは、表向きは「朝鮮人は法律や経済上の知識、経験不足から、日本人は朝鮮の実情に対する理解不足から、もたらされる損害をあらかじめ防止する」ためとなっていた。しかし1910年から19年までの実施状況を見ると日本人が出願した会社設立申請がほとんど認められている一方、朝鮮人が出願した会社設立申請は一割ほどしか許可されていない。』

1918年には日本全国で米騒動が起こり、日本政府は「産米増殖計画」を立案した。

『この産米増殖計画によって農業生産力が向上し、農業経営における稲作の割合は高くなった。しかし、日本市場への米穀移出を中心とした商品化が進んだ結果、日本への米の移出量は生産量の増加量よりも何倍も増えている。

1921年の米の生産高が1488万石だったのに比べて、1928年には1729万石と1.16倍の増加に留まったのに比べ、日本への米の移出は、1921年に308万石だったものが1928年には740万石と2.4倍以上も増加している。朝鮮人1人当たりの年間米消費量も21年に0.67石だったものが28年には0.54石に減少してしまっており、米不足を補うために中国からの粟の輸入が急増している。そして米の販売で利益を得た日本人地主や商人が、朝鮮半島の穀倉地帯の中心部を掌握し、朝鮮人中小地主を追い出したため、農民の流民や海外移住に拍車をかける結果を招いた。』

『こうした中、1917年のロシア革命によって帝政ロシアが倒れ、社会主義国家が誕生し、翌年1月には、アメリカのウィルソン大統領がパリ講和会議において第一次世界大戦敗戦国の植民地処理に民族自決主義を適用しようと主張した。これは朝鮮の独立運動にも刺激を与え、アメリカで独立運動を行っていた安昌浩や上海の新韓青年党が1919年1月にパリ・ベルサイユで行われる講和会議に、朝鮮の独立を訴えるための代表団を派遣しようと模索した。さらに1919年2月8日、東京では朝鮮人留学生会が中心となって民族大会召集誓願書と独立宣言書を発表する2.8独立宣言が行われた。

海外でのこうした独立運動の高まりを受けて国内でも天道教・キリスト教・仏教の三つの宗教団体の代表者らが中心となって独立運動の計画が進められた。

天道教の孫秉熙、キリスト教の李昇薫、仏教の韓龍雲ら各宗教界から民族代表33人が選ばれ、崔南善が起草した独立宣言書に署名し、極秘に2万部あまりを印刷して全国に発送した。そして同年1月に崩御した高宗の国葬を控えた3月1日、ソウル・鍾路のタプコル公園で独立宣言を発表する予定だった。しかし、当日になって、デモに集まった学生や市民らが非暴力の原則を破るかもしれないと憂慮した彼らは、仁寺洞にある泰和館に集まって独立宣言書を読み上げた後に、警察に出頭してしまった。

しかし、既にタプコル公園には多くの市民が集まっており、学生らが独立宣言書を朗読すると、群衆は街頭に出て「独立万歳」を叫び、太極旗を手にしてデモを行った。高宗の葬儀に際してソウルに集まっていた人々がこれに合流し、数万人のデモとなった。「3.1独立運動」である。

朝鮮総督府は警察・憲兵や軍隊を動員して主謀者を逮捕し、群衆を解散させた。万歳運動は3月1日のうちに平壌・鎮南浦・安州・義州・宣川・元山などの各地方にも広まり、次第に全国に広まっていった。

地方の都市や農村に広まった万歳デモには、農民、労働者が加わった。特に農村部では駐在所や警察機関、郡庁、面事務所などに人々が押しかけて、投石や破壊活動を行ったりした。また軍隊が鎮圧に動員されたことで鎌や鋤を手にして日本の憲兵隊と戦う武力闘争も行われ、3月下旬から4月上旬にかけては同時多発的に激しい闘争が発生し、5月まで持続した。

このように3.1独立運動は3月1日以降全国に拡大し、国内のほとんどの府郡でデモが起こった。5月末までの集会数は1542回、参加者総数は202万3089人に上った。この運動に対して朝鮮総督府は過酷な弾圧を加えた。死者7509人、負傷者1万5961人、逮捕者4万6948人を数えた。この運動は朝鮮総督府の弾圧によって挫折したが、独立運動家らに独立運動をリードしていく組織の必要性を認識させ、大韓民国臨時政府樹立へと結びついていった。』

この3.1運動の後、日本は「武断政治」を改め、「文化政治」へと統治方法を転換した。

その後も個々の抗日運動は続いたが、臨時政府も内部対立のため目立った成果を上げられず、日本の支配は続いた。

そして1931年、日本は満州事変を引き起こし、やがて日中戦争へと踏み込んでいく。

『1938年4月、日本本土では総力戦遂行のために国家のすべての人的・物的資源を政府の統制・運用の下に置く国家総動員法が公布され、翌年には徴用令が公布されている。

しかし、朝鮮半島における徴用令適用による強制動員は、国民感情を考慮して見送られ、労務動員計画に基づいて「自由募集」による九州や北海道の炭坑への朝鮮人労働者の集団的移入が行われるようになった。このようにして戦争遂行のための後方の拡充を図る一方、朝鮮人を忠良な日本人(皇国臣民)に育て上げ、戦場に送り込むための「皇民化政策」を推し進めていった。』

この「自由募集」について、水野氏は欄外の注釈で『各事業者が労働者を募集する形だが、実際には地方ごとに動員数が割り当てられ、事業主の代理人が、地方の官庁と共同で農村から労働力として朝鮮人を日本へ連れていった』と書いている。

『1937年、朝鮮総督・南次郎は「内鮮一体」を唱えて神社参拝を義務づけ、学校では教育勅語の奉読や日の丸の掲揚、「皇国臣民ノ誓詞」を唱えるよう強制して、日本人としての意識を植え付けるようにした。

1938年3月には朝鮮教育令を改正して、それまで正課だった朝鮮語を随意科目とし、実質上、教育現場での朝鮮語教育を廃止して日本語の常用を強要した。同年7月には国民精神総動員朝鮮連盟を発足させて皇民化政策を徹底させるとともに、人々の生活を統制している。

さらに朝鮮総督府は皇民化政策の一環として翌年11月、朝鮮民事令を改正し、朝鮮式の姓名を廃止して氏を設けて日本式の氏名を名乗ることを定めた。これが創氏改名である。

しかし、4月時点の届出数は全戸数の3.9%ほどだった。このため総督府は法の修正や有名人の利用、公権力による強制などを通じて締め切りの8月10日までに届出率を80.3%までに引き上げた。』

1941年、日本は真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争へと突入した。

『日本国内の労働力不足を補うために1942年からは、朝鮮人労働者の募集方法が朝鮮総督府と各地方庁による官斡旋へと変わり、1944年2月には朝鮮半島においても日本本土と同様に徴用令が適用された。

また、1943年12月、兵力を確保するために学徒出陣が行われ、学生が強制的に軍隊に編入させられるようになると、同じように朝鮮内や日本に留学していた朝鮮人大学生・専門学校生、高校生らも学徒出陣を強制され、それまで志願制度だった朝鮮人の軍入隊が、1944年には徴兵制度へと強化されて多くの人々が戦場に送られた。』

結局、日本の敗戦までこうした状況は続く。

こうした植民地支配の理不尽さは、戦後の日本でも多くの書籍や番組でも取り上げられているので、私たちの年代の日本人は知っている。ただ若い日本人がどれほど知っているかは甚だ疑問だ。また近年では、こうした史実を都合の良いように改ざんしようという輩も横行していて、何が真実なのか見分けることが難しい事態に陥っているのは、残念な限りである。

一方韓国サイドから見れば、朝鮮民族としての輝かしい軍事的な成果がないまま、日本の植民地支配は終わった。だから、戦後民族の誇りとして語り継ぐ物語として選ばれたのが、100年前に起きた3.1独立運動だったのだろう。その闘争の中で命を落とした女子学生・柳寛順さんを独立烈士として英雄に祭り上げるなど、運動そのものの実態以上に韓国の人たちにとって賛美すべき対象に仕立てられたように見える。

己の非を認めず、いつも相手を責める韓国と日本の関係。

もう少し、何とかならないものだろうか?

少しでも相手のことを理解したいと思って、独立運動から100周年に当たる今年の3月1日、私はソウルで過ごしてみようと思っている。

 

 

 

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