今日は3月11日、私にも忘れることのできない東日本大震災から11年が経った。

福島第一原発が立地する地元双葉町でも復興の拠点となる「特定復興再生拠点区域」が整備され、このエリアでは避難指示が解除される。
駅の周辺では新たな街づくりが行われ、街の様相は一変したようだ。

しかし、震災前には原発城下町として賑わった双葉町、大熊町の旧住民への調査を見ると、6割の人たちはすでに街に戻らないと決断し、新たな場所で新生活をスタートしている。
なんと言っても11年だ。
あの時の小学生がもう成人を迎え、若い人たちが福島に戻る理由はすでに失われているのだ。
震災がなくても若者たちが田舎を捨てる時代に、巨額の費用をかけて自治体ごとに復興プランを立ててハードの整備を進める現状には強い違和感を感じてしまう。
当然、先祖代々の土地を奪われた被災者たちに「別の土地に移ってください」とは言えない事情はよくわかる。
高齢者になればなるほど、今更新たな土地で生活をスタートさせる気にはなれないだろう。

とはいえ、もう少しやり方はなかったのだろうか。
原発マネーのおかげで小規模な市町村が存続できた福島のような場所では、自治体を再編して全体として日本の先進地域を作り、新しい仕事を創出して他所から人を呼び込むような工夫が欲しかった。
小規模な自治体が同じような復興計画をやっても、移住希望者を奪い合うだけで、投下された予算に比べて地域全体にとって発展するビジョンが私には見えない。

もしも中国で同じような震災が起きたならば、間違いなく別の場所に新しく安全な都市を作り、住民全員を強制移住させるだろう。
住みなれた場所に残りたいという高齢者の希望など無視されて用意されたバスに全員が乗せられるのだ。
それがいいとは言わないが、長い目で見れば、中国式の良い点も学んだ方がいいと思う。
一人一人の気持ちを大切にするという建前の元に、政治家や自治体が本来やるべき仕事をサボっているように私は感じてしまうのだ。
関東大震災の後、後藤新平が新しい東京を作り上げたような大胆な地方創生事業が一つも生まれなかった。
真新しい建物ができても、被災地が震災前以上に繁栄することはないだろう。
そこに人を惹きつけるような「未来」がないからだ。

震災は嫌だが、戦争はもっと嫌だ。
ウクライナの戦闘は全く止む気配はなく、ロシア軍は徐々に首都キエフに迫っていて、アメリカの発表では攻撃部隊はキエフから15キロの地点まで前進したという。

戦争に反対する国際世論に押され、グローバル企業が次々にロシアでの事業中止を発表する中、プーチン大統領は、ロシアでの事業を中止した外資系企業の資産を差し押さえる検討に入ったという。
まあ、政府による経済制裁と同じくロシア国民にも人気がある有名民間企業の撤退はプーチン政権の足元を揺さぶっているということだろう。

日本経済新聞に掲載されていた表は、事業中止を決めた企業のほんの一例である。
ディズニーやネットフリックス、アマゾンなどもロシアでのサービスを停止していて、西側文化を当たり前のように楽しんできた若者たちには生まれて初めて経験する異常事態だろう。
世界経済から切り離されたロシアは、1990年代のような混乱に陥るとも予想される。

しかし、どんなに苦境に陥ろうが、一度始めた戦争を途中で止めるようなことはプーチンさんの場合、絶対にないだろう。
ウクライナを占領するか、それとも政権が崩壊するか。
救いのない不条理の中で、戦火に怯えるウクライナの人々を想う。

そんな震災と戦争に思いを馳せる3.11。
私は畑で炎を見つめながら、日常を奪われた人たちのために祈る。
実は、1月に刈った雑草がいい感じに乾燥していて、地元の人たちを真似て初めて野焼きに挑戦したのだ。

素人が焚き火をしていて火事になるかもしれないから草を燃やすのは嫌だと妻が反対するため、念の為バケツに水を用意した。
畑にスコップで穴を掘り、その中に少しずつ枯れ草を入れて火を付ける。

乾燥した草は気持ちがいいほどに燃えて灰になっていく。
もしも火が予想以上に燃え広がるようならすぐに土をかけて消すつもりだ。
水はあくまで妻を説得するためのカムフラージュ。
心配性の妻を満足させるためには、いろいろ準備をしなければならない。

刈った草を集めるために金属製の熊手を持って行ったのだが、これがとても役に立った。
刈った草を火に投入するにも、不完全燃焼している下の方の草に火を回すのも、熊手でちょっと触るだけ。
でも、「もうこの位にしよう」という妻の一声で野焼きは30分ほどで終わることになった。

最後は燃え残った灰の上に土をかけておく。
こうすれば火が燃え広がる心配はない。
初めての野焼きとしては、まあまあいい感じで終えることができたと思う。

野焼きの要領は一応わかったので、これからは風のない朝に少しずつ刈草を焼いていこうと思う。
ダイオキシンが問題となってから、田舎でも野焼きをせずに刈った草は燃えるゴミで出すのが原則となっているようだが、さすがに畑の雑草は大量なので近所の農家はみんな冬場に草や剪定した枝を焼いている。
野焼きをしていると、自分が縄文人にでもなった気がする。
世の中の雑事から離れて、炎を見つめながら亡くなった人や親しい人のことを想う。
炎には不思議な力があると感じた今年の3月11日だった。