<吉祥寺残日録>ウクライナ危機🇺🇦 私が「昭和」と同じ年になった64歳の誕生日、世界は80年前に逆戻りしてしまうのか? #220302

私は今日、64歳の誕生日を迎えた。

64年間続いた「昭和」と同じ年になったのだ。

春の日差しが差し込む窓辺に立って、ウクライナを想う。

私が生まれてから30年あまり、すなわち昭和が終わる頃までは世界は「東西冷戦」によって二分されていた。

ウクライナはソ連の一部であり、ロシアと同じ東側陣営の中核。

ソ連海軍の中核をなす黒海艦隊の本拠地であり、ウクライナ領内に置かれた核ミサイルが常に西ヨーロッパを狙っていた。

私が今のウクライナを訪れたのは、昭和が終わったばかりの1990年の3月だった。

上の写真は私が撮影したものだ。

最近よく見る青と黄色のウクライナの国旗に、何やら左上に紋章のようなものが施されている。

ちょうど今から28年前、当時はまだソ連の一部だった。

しかしすでに連邦の崩壊が始まっていて、ウクライナでも人々の民族意識が高まりつつ時期であった。

当時のメモを引っ張り出して調べてみると、ウクライナで最初に訪れたのは西部の中心都市リボフだった。

3月26日のことだが、私の記憶からリボフという地名は完全に消えていた。

リボフでは、カトリック教徒たちが自分たちの教会を取り戻そうとする運動を取材した。

取材メモには「聖ユリ教会」と書いてあるが、正式には「聖ユーラ大聖堂」というウクライナ東方カトリック教会の本山とされる由緒ある教会だった。

ソ連政府は1946年カトリックを禁止し、教会をロシア正教に渡してしまった。

この教会の返還を求めて、カトリック教徒たちが教会の前に集まり毎晩ミサを行っていた。

ゴルバチョフ大統領が進めた「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」と呼ばれた情報公開政策によって、それまで押し殺されていた人々の不満が一斉に吹き出し、ウクライナ西部では宗教問題がきっかけとなって民族運動が徐々に表面化し始めていた。

ウクライナはロシアに支配される前、ポーランドやリトアニアの支配下にあり、その影響が特に西部に色濃く残っているのだ。

このリボフは現在ウクライナ国内では最も安全な場所になっていて、ポーランドに脱出する人たちのルートとなり、日本政府もキエフにある大使館を一時閉鎖してその業務をリボフに移すことを決めた。

リボフでの取材を終え、今度はマイクロバスをチャーターして陸路キエフに向かった。

キエフを拠点としてチェルノブイリ原発の取材をするのが目的だった。

原発事故から4年目、キエフ市内の市場ではまだ食肉の放射能測定作業が行われていた。

サンプル調査で安全と判定された肉や野菜には合格のスタンプが押される。

チェルノブイリ原発もまだしっかりとした「石棺」ができる前で、仮設の覆いでなんとか放射能の放出を防いでいる状態だった。

私は防護服に着替えてコントロールルームなどの取材し、残留放射能を調べるために原発近くで栽培されている野菜を食べた。

正直、気持ちのいい取材ではない。

福島とは違い、チェルノブイリ原発の周辺30キロは完全な立ち入り禁止ゾーンであり、除染も一切行われていなかった。

さすが広大な国土を持ち国は、わざわざお金をかけて周辺地域の再生など行うつもりもなく、ただただ打ち捨てられた無人の荒地が続く光景は異様としか言いようがなかった。

これが、私が28年前に見たウクライナの姿。

巨大国家の一部として、個人の感情を押し殺した国づくりが行われた末路がそこにはあった。

それでも、モスクワに比べれば気候も穏やかで田園風景が美しいウクライナは、私に好印象を抱かせたのは事実だ。

きっと多くのロシア人にとっても、ウクライナとは温暖で美しい土地というイメージがあるに違いない。

そんなウクライナで、ロシア軍による攻撃が一段エスカレートしてきたようだ。

私が予想した通り、停戦交渉はロシアによる単なる時間稼ぎに過ぎず、その間に待機していたロシアの大軍がウクライナ領内に入り、都市封鎖さらには市街地への侵攻の準備を整えつつある。

第二の都市ハリコフでは1日、州政府の庁舎にロケット弾が着弾、住宅街にも無差別と思える砲撃が加えられている。

一般市民にも犠牲者が増え続けていて、ロシアに対して比較的宥和的な立場を取っているインドの留学生にも死者が出たようだ。

これまで事態を静観していた中国もついに自国民の国外避難に乗り出した。

一方、60キロを超えるロシア軍の隊列が迫っている首都キエフでは、市街地に立つテレビ塔が攻撃され5人が死亡した。

ウクライナが巧みな情報戦で国民の士気を高めるとともに、反ロシアの国際世論を燃え上がらせることに成功したため、「ロシアに対する情報攻撃を防ぐ」との名目のもと今後情報インフラに対する攻撃を激化させる可能性が高い。

これまで電力やネット環境が維持されてきたことがウクライナ人を比較的冷静に保っていたが、食糧や医薬品の不足が表面化し始めており、今後電気やインターネットが遮断されると一気に市民生活は厳しいものとなる。

とはいえ、ウクライナが徹底抗戦の姿勢を変えない限り、ロシアによる攻撃はまだほんの序の口である。

ロシア国内で起きたチェチェン紛争やシリア内戦に軍事介入した時のロシア軍は、跡形もなく街を破壊し、そのうえで戦車部隊を突入させた。

戦争はどこまでも無慈悲であり、平和な国に生きている私たちの想像を遥かに越える残酷さを持っている。

私たちは映像を通してリアルな戦争を目の当たりにし衝撃を受けているが、それはSNSが浸透したデジタル社会で初めて実現した画期的なことである。

従来の戦争は、大本営発表によってバイアスのかかった情報だけが公表されるのが常識だった。

私が戦争を取材している頃にも、本当に何が起きているのかを知るためには、自ら最前線に行くしかなかった。

それでも最前線での取材は軍の管理のもとでしか行えず、さまざまなルートからもたらされる断片的な情報をつなぎ合わせて想像する以外、戦争の真実に迫る方法はなかったのだ。

だから、実際に戦争を目撃した人間とそれ以外の人たちの認識には常に大きなギャップが存在し、大義のない戦争でも、発表の仕方によって世論を騙すことは容易であったろう。

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たとえば今世紀に入り2003年に起こったイラク戦争ですら、私たちが見る映像は攻撃する側であるアメリカからもたらされるものばかりだった。

「イラクが大量破壊兵器を隠し持っている」

そう言ってアメリカは「テロとの戦い」という名目でイラクに軍事侵攻し、フセイン政権を転覆したのだが、攻撃される側のイラクの人たちからあの戦争がどう見えていたのかはほとんど伝わってこなかった。

結果的には大量破壊兵器は見つからず、石油利権の確保を狙ったアメリカのチェイニー副大統領による陰謀だったとの見方が戦争の後で判明する。

今から思えば、今回のプーチンとイラク戦争のチェイニーのやっていることは大差がなかったようにも見えてしまう。

ウクライナで起きている戦争は、誰もが映像を発信できるSNS時代になってから初めての本格的な軍事大国が行う戦争である。

これまで戦争には全く関心がなかった世界中の人たちが、映像を通じて戦争の現実をリアルタイムで目撃しているのだ。

しかし、そこで行われている戦術や兵器の多くは、1940年代とあまり変わっていない印象を受ける。

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バイデン大統領は1日に行った一般教書演説の中で、このように述べた。

「民主主義と専制主義の闘いで民主主義国家は今まさに立ち上がりつつあり、世界は明らかに平和と安全の側を選んでいる。プーチン大統領は自由主義社会の決意を弱めることは決してできない」

「民主主義VS専制主義」というバイデン大統領が就任当初から使ってきた対立構図が、今回のウクライナ危機によってより一層鮮明になっていくだろう。

だが、演説の中で今この瞬間にも命の危機にさらされているウクライナの人たちを救い出す具体的な方法が語られることはない。

戦争は権力者が始め、多くの一般市民が死ぬ。

昔から変わらぬ戦争の真実である。

80年の時を経て、世界がグローバル化し、デジタルによって情報が瞬時に伝わる時代になっても、一人の暴君の決断によって戦争が簡単に始まり、それを止める絶対的な方法がないという事実は、第二次世界大戦当時から何も変わらない。

昭和と同じ64歳を迎えた日に、私はまるで昭和の時代に逆戻りしてしまったような不思議な感覚を味わっている。

人間は愚かであり、無力であり、正義感だけでは戦争は止められないという見たくもない真実を突きつけられているのだ。

<吉祥寺残日録>「映像の世紀」と見ながら、独裁者について考える #200827

1件のコメント 追加

  1. wildsum より:

    誕生日、おめでとうございます。いつも読ませていただいています。無慈悲な戦争、早くやめてほしいですね。

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