<吉祥寺残日録>オリンピックの聖火リレーがスタートした日、市川崑監督の映画「東京オリンピック」を観る #210326

新型コロナウィルスのパンデミックで1年延長した挙句、いまだにご難続きの東京オリンピック。

中止や延期を求める世論も多い中で、25日福島から聖火リレーがスタートした。

最初の聖火ランナーに選ばれたのは、ワールドカップで優勝した「なでしこジャパン」のメンバーたち。

エースの澤穂希さんは直前に体調不良で欠席したが、岩清水キャプテンがトーチを掲げて、スタート地点となった「Jヴィレッジ」をゆっくりと走った。

聖火が最初に走ったのは福島県楢葉町。

私の姪がボランティアとして通い、その町の男性と結婚して今も働いている町である。

コロナさえなければ、スタートに合わせて楢葉町を訪れて何かの手伝いでもしたいと思っていたが、とてもそれどころではなく、結局セレモニーも無観客の寂しいものとなった。

聖火リレーというのは本来オリンピックの気運を盛り上げるためのものであり、多くの住民が沿道に集まるのが普通なのだが、今回は沿道に密集することは禁止され、もし密な状態になったらその場所をスキップするルールも設けられている。

それでなくても、住民が戻らず人口密度の少ない福島の被災地でもなるべくオンラインで聖火リレーを見るよう呼びかけが行われ、無人の街を聖火が走る寂しいスタートとなった。

今回の聖火リレーは、一つの聖火がずっと受け継がれていくわけでなく、各市町村ごとにぶつぶつにコースを設定し、なるべく名所を走ることに主眼が置かれている。

仕切っているのは全部「電通」で、もともとインバウンド対策として日本全国の観光地を世界に発信することを狙ってコースづくりが計画されていたように見える。

そんな「お・も・て・な・し」時代に計画された聖火リレーのプランは、コロナ禍の今、ちょっと「あざとく、むなしい」印象を与える。

3月25日に福島を出発した聖火リレーは、今後栃木、群馬、長野、岐阜、愛知と西に進み、全国各地を点で結んで7月23日の開会式に東京千駄ヶ谷の国立競技場に到着する予定だ。

途中、1万人のランナーが聖火を運ぶ予定だが、「聖火ランナーは2週間前から会食や密集する場所を避ける」などの制約もあるため、有名人ランナーたちはスケジュールが厳しいことを理由に次々に辞退を申し出ている。

「有名人ランナーはなるべく人が集まらない場所を走る」という妙なルールもできたので、有名人側からしても走るメリットがほとんどなくなってしまったのだろう。

それでも聖火リレーは、わが武蔵野市にもやってくる。

図書館で見つけたボランティア募集のチラシによれば、武蔵野市の聖火リレーは開会式1週間前の7月16日。

コースは、吉祥寺駅から武蔵野市役所前の「武蔵野陸上競技場」までと決められているようだ。

せっかくだから、私もボランティアに応募しようかなと思ったが、妻が反対しそうなので今思案中である。

そんな盛り上がりに欠けた聖火リレーの初日。

私は以前録画してあった1964年の東京オリンピックの記録映画を観た。

市川崑が総監督を務めた映画『東京オリンピック』。

怪獣映画でも始まるのかという物々しいオープニング、選手たちの垢抜けないユニフォーム、なんとも時代を感じさせる面白い映画なのだが、その冒頭に聖火リレーのシーンが出てくる。

これが驚きで、なんと聖火はベイルートやテヘラン、ラホール、ニューデリー、ラングーン、香港、そして沖縄を走っているのだ。

ひょっとしてあの時代に陸路を走って日本まで運んだのかと思って調べてみると、そうではないが嘘でもないということがわかった。

国内コースだけでなく、1964年の大会ではアテネから日本へのルートにも意味を持たせていた。

日本航空が「聖火空輸特別機“シティ・オブ・トウキョウ”号」を用意して、8月22日にアテネを出発した聖火は、途中でトルコのイスタンブール、レバノンのベイルート、イランのテヘラン、パキスタンのラホール、インドのニューデリー、ビルマのラングーン、タイのバンコク、マレーシアのクアラルンプール、フィリピンのマニア、香港、台湾の台北を経由し、9月7日に当時まだアメリカの施政権下にあった沖縄に到着した。

そして、降り立った各都市で聖火が街を走ったのだ。

『アジアで初めて開かれるオリンピック』。

それが1964年の東京オリンピックの大きなテーマだったのだ。

この「海外聖火リレー」では、合わせて870人の走者732kmを走ったというから、各国では大きな話題になったようだ。

当時の日本人の発想の方が今よりはるかにスケールが大きかったのだろう。

沖縄での聖火リレーの写真を見ると、「琉球政府」の文字が見え、多くの人が沿道で聖火を見守っていることがわかる。

敗戦から19年、沖縄はまだアメリカの占領下にあったが、沖縄が日本体育協会に加盟していたことから、聖火リレー特別委員会では、「国内聖火リレーは沖縄から開始される」ということを決めた。

悲願の沖縄返還が実現されるのは、東京オリンピックから8年後の1972年である。

沖縄から「シティ・オブ・トウキョウ号」で運ばれた聖火は、鹿児島・宮崎・千歳空港に下ろされる。

この3都市を起点として、4つの国内コースを辿って聖火は東京に向けスタートした。

General view, 1964 : A torchbearer carries the Olympic Flame during the Tokyo 1964 Olympic Games torch relay in Japan. (Photo by AFLO)

聖火は行く先々で大群衆に迎えられた。

「敗戦から立ち直った日本を世界に見せる」

当時の日本人の熱気は今とは比較にならないだろう。

そして10月10日に行われた開会式。

国立競技場を埋め尽くした大群衆。

世界各国の選手と観客がそこにはいた。

古関裕而作曲の「オリンピックマーチ」に合わせて整然と行進する各国の選手団。

やはりオリンピックは何はなくても入場行進だということを再認識する。

アフリカ諸国はまだ参加する選手は数人で、民族衣装を纏っている。

そして、アメリカの大選手団の後ろには、ソ連の選手団が続く。

東西冷戦下で行われた前回の東京五輪では東欧諸国の活躍も目立ち、サッカーの決勝はハンガリーVSチェコスロヴァキアという組み合わせだった。

ドイツは当時、東ドイツと西ドイツに分かれベルリンの壁を挟んで対立している時代だったが、1964年の東京オリンピックには「東西統一ドイツ」として参加していたこともこの映画で知った。

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そして青空に飛行機によって描かれた伝説の五輪マーク。

近頃のような派手なショーはないが、風船と鳩と聖火点灯のセレモニーだけで十分感動的な開会式だった。

そして整然とした開会式とは打って変わって各国の選手が国籍を超えて入場した閉会式。

今では当たり前となったこの感動的な閉会式が初めて行われたのも東京オリンピックだったと言われる。

市川崑監督の演出は今の感覚でいえばシュールな部分も多々あるが、観ていてとても感動した。

やっぱりオリンピックは素晴らしい。

映画の中で、度々登場する裏方の日本人スタッフはみんなてきぱきと動き、とても素晴らしいマネージメントだったように見えた。

そして、「位置について、よーい」と日本語でスタートの合図をし、場内アナウンスも日本語だった。

オリンピックは英語とフランス語と思い込んでいたので、これもある意味堂々としていて新鮮に感じた。

果たして今回、あのようにうまくマネージメントできるのだろうか?

要らぬ問題ばかり起こして、肝心の「お・も・て・な・し」はちゃんと準備ができているのか?

外国人の観客は受け入れないと決めたものの、選手や関係者だけでも大変なオペレーションとなる。

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映画の最後はマラソンだった。

伝説のランナー、エチオピアのアベベは今見ても惚れ惚れするほど格好いい。

まさに「走る哲学者」のようだ。

この時アベベは靴を履いていたが、アフリカの選手の中には裸足で走った人もいた。

今とは違って、マラソン選手は集団を作らず、各自重い思いのペースで走り、給水所で止まって何杯も飲み物を飲んでいる選手もいる。

途中でリタイアし倒れる選手も続出した。

こうした不測の事態は必ず今回の大会でも起きるだろう。

しかも、コロナ禍での予測不能な仕事が間違いなく発生するのだ。

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日本人は60年前よりも劣化したのかもしれない。

映画を観ながら、そう思った。

「人類がコロナに打ち勝った証としてのオリンピック」を本気で実現するつもりなら、よほど頑張って知恵を絞らないと、後々思い出したくもない「悪夢のようなオリンピック」になってしまうかもしれない。

それほど、1964年の東京オリンピックは立派に見えた。

<吉祥寺残日録>コロナがなければ東京五輪が始まっていた日 #200724

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