<吉祥寺残日録>自転車に乗って🚲武蔵野エリアに集まる航空宇宙の「聖地」 #210527

昨夜は24年ぶりとなる「スーパームーンの皆既月食」が見られるというので、私も午後7時過ぎから夜空を見上げた。

しかし、残念ながら東京は曇り空。

肉眼で皆既月食を見ることはできなかった。

仕方なく、ネットで皆既月食を探す。

こちらはNHKのサイト。

小笠原や仙台で撮影した皆既日食の映像がライブ配信されていた。

「Yahoo! JAPAN」のサイト上ではウェザーニュース制作の特別番組を配信していたが、こちらは北海道での皆既月食の映像を中継していた。

まあ、月なんて日本のどこから見ても同じなんだろうが、やはり映像で見るのと自分の目で見るのではまったく感動が違うものだ。

天体観測の総本山といえば「国立天文台」。

国立天文台の公式サイトをチェックすると、3カ所からのライブ配信を行っていた。

ハワイにある「すばる天文台」、石垣島の「石垣島天文台」、そして東京三鷹市にある「国立天文台」。

この3カ所から月が欠けていく様子を観測し、YouTubeを使ってライブで解説を行ったのだ。

「国立天文台」は私が住む吉祥寺からも近いので楽しみにしていたのだが、結果は我が家から見上げる夜空と三鷹の夜空は同じだった。

結局、国立天文台の中継はほとんどこのハワイからの映像に終始した。

こちらも月が小さくしか映らない画角の広いガッカリ映像で、サイト上には日本各地の天文ファンたちが発信したガッカリコメントがあふれかえっていた。

そんな不発に終わった皆既月食だったが、おかげで私もちょっと”宇宙モード”になってしまい、運動不足解消も兼ねて三鷹まで自転車を走らせることにした。

このあたりには、宇宙や航空に関連する「聖地」が集まっているのだ。

国立天文台

まずは、天体観測の聖地「国立天文台」。

私はかつて、この近くに住んでいたこともあり、時々敷地内を散歩したり、子どもたちを遊ばせにきたことがある。

特に桜の季節は見事で、超穴場のお花見スポットとして毎年のように勝手にお邪魔していた。

井の頭公園の桜もいいが、国立天文台にも立派な桜の木がたくさん植えられていて、しかもうるさい花見客がいない。

草の上にシートを敷き、寝転びながら静かに花吹雪を眺めるのは至福の時間であった。

ただコロナ禍の今は、やはり様子が違う。

「当面、全ての一般公開事業を中止させていただきます。一般の方は、ご入場いただけません」

天文に関する啓蒙活動を行うことも天文台の役目なので、通常なら施設の一般公開や定期的な観測会などを行っているのだが、今はすべて中止だという。

残念ながら、敷地内には立ち入ることはできない。

国立天文台の歴史を調べてみると、明治時代の1874年、海軍が麻布に観象台を設置したことに始まるらしい。

この観象台はその後「東京天文台」と呼ばれるようになるのだが、都心の人口が増え夜空が明るくなったため、人里離れた三鷹に移転してきた。

関東大震災後の1924年のことだ。

1988年に天文関係の組織が統合され「国立天文台」が発足、その本部がここ「三鷹キャンパス」に置かれ、文字通り天体観測の「聖地」となった。

「国立天文台 三鷹キャンパス」
住所:東京都三鷹市大沢2-21-1
電話:0422-34-3600
https://www.nao.ac.jp/

JAXA調布航空宇宙センター

宇宙関連ということで言えば、国立天文台から少し東へ自転車を走らせると、「JAXA 宇宙航空研究開発機構」の本部である「調布航空宇宙センター」がある。

言うまでもなく、日本の宇宙開発の中核を担う組織であり、現在国際宇宙ステーションの船長を務めている星出彰彦さんや野口聡一さん、若田光一さんら日本人宇宙飛行士たちはみんなこのJAXAに所属している。

こちらもコロナの影響で、展示室が臨時休館中。

ただここでどんな研究が行われているのかについては、JAXAの充実したYouTubeチャンネルで見ることができる。

日本の宇宙航空関連の重要組織が武蔵野エリアに集まっているのだが、単なる偶然ではないようだ。

現在JAXAの本部が置かれている調布の広大な敷地は、戦前の「国立中央航空研究所」の跡地である。

1939年に開設された「国立中央航空研究所」は軍用機の開発研究をするための国家機関だが、1937年に日中戦争が勃発し翌年には「国家総動員法」が制定する中で、武蔵野エリアは軍需産業の一大拠点となる。

「国立中央航空研究所」についてはまだ詳しい情報にはたどり着けていないが、その跡地にはJAXAだけでなく、「海上技術安全研究所」「消防研究センター」「消防大学校」「交通安全環境研究所」「杏林大学病院」など様々な施設が集まっていて、いかに巨大な研究所だったかがうかがえる。

戦後は平和利用に徹しているJAXAだが、軍事予算を投入して進められる米中の宇宙競争が激化する中で、日本の宇宙開発もいずれ岐路に立たされるのだろうか?

「JAXA本社 調布航空宇宙センター」
住所:東京都調布市深大寺東町7-44-1
https://www.jaxa.jp/index_j.html

ちなみに、JAXAは調布飛行場のすぐ近くにも「調布航空宇宙センター飛行場分室」という大きな施設を持っている。

調布飛行場

国立天文台から調布方面に坂を下ると「調布飛行場」がある。

小型機専用の飛行場で、周囲に子どもを遊ばすことができる空き地があったので、昔はよく来ていた場所だが、その入り口にこんな石の門柱が残っていることは昨日初めて知った。

門柱の近くに案内板が立っていて、それにはこう書かれていた。

調布飛行場は、昭和14年(1939年)、当時の東京府が三鷹村・調布町・多磨村にまたがる広大な畑や山林を半ば強制的に買い上げ、多くの農家を移転させて建設に着手した。

この門柱は、東京調布飛行場竣工時、正門として左右に設置され、戦時中は、「東部第百八部隊」等と厚い大きな板に墨書きされた表札が掛けられていた。

昭和16年(1941年)4月30日に竣工式が行われ、公共用飛行場として「東京調布飛行場」として開設された。

同年12月の海戦とその後の戦争の激化により、陸軍による拡張が繰り返され、関連施設を含めると六十万坪を上回る規模となった。

本土爆撃に飛来する米国機の迎撃や特別攻撃隊の訓練施設として、帝都防空の最重要拠点となった。

「調布飛行場 門柱」説明文より

さらに調布飛行場の周辺には「掩体壕(えんたいごう)」がいくつか残されている。

こちらは「大沢1号」と名付けられた掩体壕。

戦闘機がちょうど入る大きさで造られていたことがわかる。

「大沢2号」と呼ばれる掩体壕は、フェンス越しに内部の様子を見ることができる。

「掩体壕」とは、軍用機を敵の空襲から守るための格納庫で、目的は「本土決戦」に備えて、残り少なく貴重な飛行機を温存するためでした。

太平洋戦争における戦況が悪化する昭和19年(1944年)頃から、コンクリート製掩体壕約30基(有蓋)と土塁で造ったコの字型の掩体壕(無蓋)約30基の約60基が短期間に造られました。建設は主に陸軍と建設会社があたり、地元の植木組合や中学生も大勢動員されました。

掩体壕と飛行場は誘導路で結ばれ、飛行機にロープを結びつけて人力で運びました。調布飛行場周辺には、武蔵野の森公園内の2基と府中市に2基の掩体壕が残っています。

「掩体壕 大沢2号」説明文より

掩体壕に収められたのは「飛燕」という名の戦闘機だった。

「飛燕」は川崎航空機製で、ドイツのダイムラーベンツの技術をもとに、国産化した液冷エンジンを搭載した戦闘機です。

エンジン出力は1100馬力で、最高時速590km/hで飛行でき、高空能力に優れ昭和18年(1943年)に陸軍の主力戦闘機として正式採用されました。

調布飛行場には、首都防衛のため「飛行第244部隊」に「飛燕」が配備されました。昭和20年(1945年)、B29爆撃機による本土空襲が激しくなるなか果敢に迎撃しましたが、物量に勝る圧倒的なB29爆撃機の攻撃で戦死者が出て、あまり戦果を挙げることができませんでした。最後は、「体当たり」戦術で抵抗しました。戦況がますます悪化するなか、「本土決戦」のため貴重な飛行機を温存するため「掩体壕」に格納されるようになりました。

「掩体壕 大沢2号」説明文より

この調布飛行場の開設は、武蔵野市にできた「中島飛行機武蔵製作所」や調布の「国立中央航空研究所」とともに、多くの下請け企業を生み出し、武蔵野エリアを一大軍事産業地帯へと変貌させていく。

そんな歴史が嘘のように、現在の調布飛行場はのんびりしたものだ。

この新しいターミナルビルは2013年に完成した。

戦後、調布飛行場は米軍に接収され、日本に返還されたのは終戦から28年後の1973年のことだった。

その後東京都に管理運営の権限が委譲され、2001年に都営のコミューター空港として正式開港する。

新中央航空が、伊豆大島・新島・神津島・三宅島に毎日小型機を飛ばしているが本数は多くなく、出発時間以外はがらんとしている。

私も昔、子どもが小さかった頃に新島まで家族で飛んだことがあったが、ジェット機とは違うプロペラの小型機はフワフワした不思議な乗り心地で、ちょっと面白い経験だった。

ちなみに、調布から伊豆諸島への料金は、伊豆大島往復が2万2400円、新島往復2万6100円、神津島往復2万8200円、三宅島往復が3万1900円である。

荷物が5kgを超えると超過料金を取られるので注意が必要だ。

調布飛行場の全景を眺めたければ、大沢掩体壕の近く、滑走路の北端に位置する「展望の丘」がオススメだ。

丘の上にはベンチが置かれ、お年寄りたちが小型機の離発着をのんびり見物している。

丘の上に上がると、滑走路が見渡せる。

羽田や成田のような巨大空港と違い、アフリカや南太平洋にありそうな素朴な飛行場。

私は昔からこの素朴な空港が好きだった。

離陸準備に向かう小型機の向こうには、「味の素スタジアム」が見える。

「FC東京」のホームグラウンドで、東京オリンピックが開かれれば、サッカーや7人制ラグビーの会場となる予定だ。

この「味スタ」も調布飛行場の跡地利用の一環として2001年に建設された。

ターミナルビルや格納庫を見たければ、滑走路西側の「ふるさとの丘」がベストポジションだろう。

この辺りは「武蔵野の森公園」として整備され、たくさんのサッカー場や野球場が並んでいる。

伊豆諸島を往復している新中央航空のプロペラ機もよく見える。

私も最近「島旅」にハマっているので、久しぶりに調布から伊豆諸島に飛ぶのも楽しいかもしれないなと飛行機を眺めながら夢は膨らむ。

調布飛行場をぐるりと一周する。

滑走路の西側には広々とした「プロムナード」が設けられていて、午前9時から午後4時半まで誰でも自由に通行することができるようだ。

私が子どもを遊ばせていた頃とはすっかり変わってしまった。

プロムナード沿いには、赤いケシの花が咲いている。

飛行場だというのに、動くものはほとんどない。

実にのどかで素敵な場所だ。

ジェットエンジンの騒音もなく、時折小型機が静かに降りてくる。

やっぱり「平和」っていいなと思う。

「調布飛行場」
住所:東京都調布市西町290−3
電話:0422-34-4840
https://www.kouwan.metro.tokyo.lg.jp/rito/tmg-airport/chofu/

「新中央航空」
https://www.central-air.co.jp/

旧・中島飛行機三鷹研究所

国立天文台の北側にある「SUBARU 東京事業所」。

現在は自動車のエンジンなどの研究開発を行い、直接「宇宙航空」とは関係ないが、ここもかつて空と関係した重要な施設だった。

太平洋戦争が始まった1941年、三鷹のこの場所に「中島飛行機三鷹研究所」が突貫工事で造られたのだ。

中島飛行機は、戦前陸海軍の軍用機製造で急成長した日本最大の航空機メーカーであり、「SUBARU」の前身でもある。

中島飛行機の創業者・中島知久平は、ここ三鷹研究所でアメリカを直接攻撃できる重爆撃機「富嶽」の製造を目指す。

「SUBARU」の社史である「富士重工業三十年史」には、「三鷹研究所」で進められた「Z機(富嶽)計画」について次のように書かれている。

緒戦の戦果に酔い、国内は楽観的ムードが漂っていたが、昭和17年の半ばを過ぎると、戦局は、しだいに攻勢から守勢に傾斜していった。

開戦時からすでに、彼我の資源、工業力の大差を危惧していた中島知久平は、特にアメリカの航空戦略の動向に鋭い目を向け、アメリカが着手していた日本本土攻撃用のB-29、B-36の開発進行情報を基に、B-29の来攻を昭和19年秋と予測した。しだいに戦局が悪化するに及び、国運の前途を憂慮した知久平は、この2年前に戦策を転換し、日本が先手を打って戦勢を一気に挽回する必要があるとして、6発超重爆撃機の開発を関係方面に強く訴えた。しかし、戦勝気分の抜け切れぬ軍部をはじめ、これに耳を貸すものはいなかった。

そこで知久平は、中島飛行機単独でも生産しようと決意した。18年1月、全社首脳陣を集めて、6発超重爆撃機(Z機)構想を説明し、全社を挙げてこの計画の推進を図るべく必勝防空研究会を発足させた。この「Z機」が、その後公式に検討された「富嶽」の原点である。

こうして知久平は、世界一の巨人爆撃機の設計試作に向け作業を進める一方、18年8月、この計画を根幹とする「必勝戦策」と題した大論文をまとめ、軍部、政財界首脳部に配布して賛同を求めた。「必勝戦策」の概要は、次の通りである。

1. 日米の軍需生産力の差は著しく、生産力で勝敗を決するような現在の戦策では、到底、日本に勝ち目はない。

2. 米軍の第一線戦力を無力化するには、米本土の生産力の根源を覆滅する以外に有効な手段はない。これにより、アメリカ国民に精神的・物質的打撃を与え、戦争意欲を消滅させることもできる。

3. 戦勝への道は、戦闘機の追跡を許さぬ優速をもって、米本土攻撃可能な大型の6発重爆撃機の開発とその大量投入以外にはない。

4. 最も重要なことは、この「必勝戦策」の即時断行である。本機とアメリカのB-29、B-36の実戦配備のいずれが早いかによって、両国の運命は決まる。

その頃、戦局は悪化の一途をたどり、ついに軍も19年はじめ、陸・海軍省、軍需省の3省共同計画としてこの「必勝戦策」の採用に踏み切り、試製富嶽委員会を発足させた。

この「富嶽」は、全幅65m、全長45m、主翼面積350平米、全備重量160t、搭載発動機5000馬力6基、最高時速680kmで、爆弾20tを積載して1万6000kmの航続力を持つ世界に類のない巨人機であった。

ところが、委員会は発足したものの、事態は遅々として前進しなかった。日ごとに戦局は不利となりつつあったにもかかわらず、陸海軍の意見対立に加え、軍需省までが協調を乱して、結論を得ぬまま時間が経過し、性能的に後退した形で3省の妥協案がまとまった頃には、すでにB-29による本土空襲が始まっていた。

この間、中島飛行機では、様々な困難を克服しつつ、陸海部門の総力を上げて昼夜兼行で「富嶽」の設計に全力を傾注していた。しかし、19年7月のサイパン陥落後の戦局は最終段階に突入し、激化する空襲下で、軍もそのひぐらしの戦力保持に汲々たるありさまであった。

やがて、本土決戦への戦術転換が検討される情勢となり、超大型機に資材、労働力を供給するのは不可能であるとの結論が出され、19年8月、ついに作業中止が決定し、試製富嶽委員会も解散した。

こうして、憂国の至情と敗戦の惨禍を未然に防ごうとした中島知久平の大構想は、実現されることなく幻に終わった。現在、この「必勝戦策」の原本が太田市立中島記念図書館に保存され、「富嶽」の見果てぬ夢を伝えている。

引用:富士重工業三十年史

「SUBARU 東京事業所」の敷地内には、中島飛行機が来客をもてなすために使った「森山荘」が今も残る。

さらに、旧三鷹研究所跡地の大半を受け継いだ「ICU 国際基督教大学」の奥には、創業者の中島知久平が晩年を過ごした「泰山荘」も残され、今も中島飛行機の記憶を留める。

中島知久平は、故郷の群馬で飛行機の夢を追いかけた面白い人物で、三菱などの財閥と対抗し中島飛行機を一代で東洋最大の航空機メーカーに育て上げた。

「SUBARU」の塀には、新建屋の計画が張り出されていた。

ひょっとすると「森山荘」も取り壊されるのかもしれない。

「SUBARU」といえば自動車メーカーというイメージしかないが、実は航空宇宙産業の分野でも活躍しているということを知った。

中島飛行機の伝統は今も「SUBARU」の中で生きているようだ。

このブログでもいつか、中島知久平と中島飛行機のことを詳しく調べて、記録してみたいと思っている。

「SUBARU 東京事業所」
住所:東京都三鷹市大沢3丁目9−6
https://www.subaru.co.jp/

最後に再び、月の話。

皆既月食が終わった午後9時過ぎごろ、妻が突然「月が出てる」と言った。

慌ててカメラを片手にベランダに出ると、確かに雲の切れ間から月が顔を出していたのだ。

「今ごろ出てきても遅いんだよ」と言いながら撮影したのが上の写真。

まだ半分隠れていたいたが、ありがたさは少しも感じない。

でも考えてみれば、この皆既月食のおかげで宇宙の気分に浸れたのだから、これはこれで一つのきっかけにはなってくれたようだ。

やっぱり宇宙や空は、いつの時代もロマンをかき立てるものなのだろう。

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