<吉祥寺残日録>首相在任16年!アンゲラ・メルケルのいなくなった世界が本当に心配だ #211209

世界の主要国で唯一、尊敬すべきリーダーがついに権力の座から降りた。

16年間にわたってドイツを率いてきたメルケル首相である。

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他のリーダーのように、自分の力を誇示するようなパフォーマンスは一切しない。

それでも彼女の周りには常に「信頼」があった。

いつも穏やかで冷静なこの人は、決して国を破滅に導くようなおかしなことはしないだろう。

外国人の私でさえ、彼女を見ると安心感を覚えた。

一体メルケルさんの何が他のリーダーたちと違っているのだろう?

BS世界のドキュメンタリー「メルケルが残したもの -16年間の足跡-」。

一人の女性ジャーナリストが彼女の足跡を取材したこのドキュメンタリーは、日本人があまり知らないメルケルさんの素顔を教えてくれる。

4期16年ドイツの首相を務めたアンゲラ・メルケル。その歩みは、ガラスの天井を突き破り続ける一人の女性の挑戦でもあった。35歳で政界入りして以来、痛烈な批判と差別にさられ、東ドイツ出身ということも相まって、容姿や髪型・服装などで嘲笑を浴びることもしばしばだった。メルケルを長年取材してきたジャーナリストがメルケルの強さとレガシーに迫る。

引用:NHK

この番組から、私が面白いと感じた部分を引用させていただこう。

アンゲラ・メルケルに関する私的な情報はほとんど明らかにされない。

それは側近にも徹底されていて、報道官は彼女の好きな色さえも機密情報と見なしていた。

「常に政治的な解釈がついて回る」というのがその理由だ。

メルケルは周囲の人間にも慎み深くあることを求めたという。

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メルケルの父ホルスト・カスナーは牧師だったが、共産主義に共鳴して戦後すぐに家族を連れて東ドイツのテンプリンに移住した。

東ドイツでの子供時代はとても幸せなものだったという。

田舎だったため共産主義の締めつけもさほど強くなく、彼女は勉強に打ち込み、極めて成績優秀な生徒だった。

一方で、彼女は内気な女の子で、男子からは「CDU(キス未経験クラブ)」と呼ばれていたという。

そんな彼女がどうして「CDU(キリスト教民主同盟)」のリーダーとなり、ドイツのトップに君臨することになったのか?

ライプチヒの大学に通うようになり、彼女は初めて東ドイツの現実を知った。

秘密警察シュタージが監視しているため、何事にも用心しなければならなかった。

大学で物理と化学を専攻したのも、国がプロパガンダを押し付けることができない科目だったからだ。

ここでウルリヒ・メルケルと出会い結婚、その後4年で離婚したが旧姓には戻らなかった。

1978年東ベルリンに移り、科学アカデミーで理論物理学の研究を行う。

西側への脱出を考えることなく東ドイツ社会に適応しようとしていたメルケルに大きな転機となったのは1989年のベルリンの壁崩壊だった。

「政治に興味を駆り立てられた」と科学アカデミーの同僚たちに告げてメルケルは量子化学の研究生活から退く決断をする。

直感的なひらめきだったという。

プロテスタントの信者や牧師が運営する「民主主義の出発」という名の東ドイツの政党に入党、党の創設者である牧師のライナー・エッペルマンに「ただ夢を見るのではなく実際に何かを考えて行動できると初めて感じた」と彼女は語ったそうだ。

東ドイツで行われた最初で最後の民主的な選挙の際、「民主主義の出発」は「キリスト教民主同盟(CDU)」に統合され、メルケルはエッペルマンの推薦で新しい首相となったデメジエールの副報道官に就任する。

36歳のメルケルは東西ドイツの再統一という激動の時代を首相の側近として経験することになったのだ。

1990年12月に行われた統一後初の総選挙。

メルケルはバルト海に浮かぶリューゲン島の選挙区から出馬、初当選を果たす。

リューゲン島の漁師たちはメルケルの印象をこう話した。

「彼女は普通の人でした。大人同士の本当の話し合いができました。彼女は事実に基づいて話をしていたし傲慢ではありませんでした。彼女はわかりましたと言いましたが、何も約束はしなかった。そこが賢いですよね。実際に対処したかどうかわかりません。何も約束しなかったんですから」

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選挙後、組閣に臨んだヘルムート・コールはデメジエールに「東出身の女性を内閣に入れたいが誰がいいと思うか」と尋ねると、メルケルを推薦された。

コールはこの助言に従い、メルケルを連邦女性・青少年大臣に任命する。

男女平等の面では東ドイツの方が進んでいて、メルケルはそのいい点を取り入れたが、世間は彼女の仕事ぶりではなくその容姿に関心を向け酷い扱いを受けたという。

フェミニズム雑誌「エマ」のシュヴァルツァー編集長は当時のことを証言する。

「1991年当時、彼女はひどい扱いを受けました。いつものように世間が話題にしたのは、彼女の髪型や服装でした。女性に関して世間が話題にするのは外見です。彼女が適任かどうかは誰も論じません。外見、見た目に基づいて差別をするんです。メルケルは世間が考える女性の必要条件とは無縁なところにいます。彼女にとって女性とはどうあるべきかってどうでもいいことです。」

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1999年コール政権の闇献金問題が発覚すると、幹事長だったメルケルはいち早く有力紙に寄稿し政界の恩人であるコールを批判した。

メルケルにとっては倫理観が問われる問題だったのだ。

「罪を犯した人間が中央にいることを容認する党と言われてはなりません」

こうした行動は、ドイツ国民がメルケルを信頼するきっかけとなった。

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党首となったメルケルは2人の女性を側近に据える。

「首相とこの2人の側近はドイツのメディアから“ガールズキャンプ”と呼ばれました。当時はまだ政治の重要なポストに就く女性が少なかったので、特別なことだったんです。」

「ドイツに限らずどこでも言えることですが、世の中は男性社会です。この女性に権力を握られたくないんです。彼女もそれをわかっています。だからその答えが“ガールズキャンプ”なんです。女性であり、東ドイツ出身であるがゆえに様々な問題に直面しました。彼女は私はフェミニストだと正面切って言えないのはわかります。しかしメルケルは男女同権の政策を押し進めました。」

野党党首時代のメルケルの行動で注目すべきは、当時のシュレーダー首相が労働市場改革を打ち出した時の対応である。

国民に不人気だったこの政策に対しCDUの連邦議員たちは阻止しようとしたが、メルケルはそれを押し留めた。

「正しい方向へ進んでいるのだから、私たちは支持する。近いうちに我々が選挙で勝利する。その時には改革はすでに実施されているので、私たちは継続すればいいとメルケルは言いました。」

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その言葉通り、2005年の総選挙でメルケル率いるCDUは第一党となり、シュレーダー首相との間で激しい多数派工作を繰り広げた。

父親に言われてよく読んだ聖書の一説、「静かにすれば救われ、信頼すれば力を得る」。

メルケルはこの静かな力で男性たちからの攻撃に対処し、ついに51歳にしてドイツ初の女性首相に就任した。

国のトップとなってからもメルケルはずっと控えめだったが、その背景には父親の影響があるという。

牧師だった父親は守るべき価値観を身をもって示した。

「勤勉・道徳・質素」

そして道徳心が強く慎重で忍耐強いのが彼女の政治スタイルであり、ギリシャの通貨危機の際にはEUとしての支援を拒み対応が遅いと凄まじい批判にさらされた。

一方で、原発廃止や移民受け入れなどでも、彼女の決断は他のリーダーたちとは違っていた。

移民反対の世論に対して、メルケルははっきりと宣言した。

「緊急時に人に優しくしたことで謝らなければならないのなら、ここは私の国ではありません」

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16年間にわたりドイツを率いたメルケル首相とはどんな人物だったのか?

フランスのサルコジ元首相は・・・

「素晴らしい演説をしたり、大衆を熱狂させるような人ではありませんが、実直で信頼できます。ヨーロッパを体現している偉大なヨーロッパ人です。

イギリスのブレア元首相は・・・

「彼女は私がそれまでに会ったドイツのどの首相とも違いました。非常に穏やかであまり自己主張をしません。攻めの姿勢も控えめですが静かな威厳を感じさせました。非常に強い価値観の持ち主であることは明らかです。(メルケル後について)確かに不安は感じます。ヨーロッパの精神を体現する人物がいなくなるわけですからね。」

ブレア元首相が心配するように、メルケルのいなくなったヨーロッパや世界がどうなってしまうのか、私も心配でならないのだ。

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メルケル退任のニュースは日本ではあまり大きくは報じられていない。

それでも私のようなメルケル信者は思想信条の違いによらずあちらこちらにいるらしい。

産経新聞パリ支局の三井美奈記者の書いた「メルケル首相が残した言葉の重み 8日退任」という記事を引用しておきたいと思う。

メルケル氏には、必要と思ったとき、方針を修正する決断力がある。

欧州連合(EU)で新型コロナウイルスが大流行すると、「他国の債務には責任を持たない」とする長年の方針を引っ込め、共同債務による7500億ユーロ(約96兆円)の復興基金を実現させた。コロナ規制では今年3月、1日で政策撤回を迫られ、「私の失敗だ。混乱を招いたことを国民におわびする」と謝罪した。11年の福島第1原発事故後には原発支持の立場を大転換し、脱原発を決めている。

政治家が「ブレる」ことは通常、信念の欠如とみなされる。だが、メルケル氏は常に「なぜ方針を変えたか」を説明した。ほぼ毎週、3分前後のインターネット動画を発信し、国民に政策を語った。06年の開始から600回以上続いた。各国首脳がツイッターで発信を競う中、あえて短文投稿は避け、自分の肉声で伝えることにこだわった。メルケル氏の真の強さは「言葉の重み」にある。

2005年からのメルケル政権の間、日本では9人の首相、米国では4人の大統領が在任した。異例の長期政権が欧州安定の要だった。メルケル氏は国民に「ムッター(お母さん)」と呼ばれ、退任直前まで70%近い支持率を保った。

引用:産経新聞

メルケルはまだ67歳だが、首相退任と同時に政界を引退するという。

往生際の悪い日本の政治家には、ぜひ見習ってもらいたいものである。

今月2日に行われたメルケル首相の退任式では、彼女が別れの曲に選んだのは東ドイツ出身の人気パンクロック歌手ニナ・ハーゲンの歌だった。

ニナ・ハーゲンの曲は1974年の「カラーフィルムを忘れたのね」。恋人がカメラにカラーフィルムを入れるのを忘れたため、旅行の記念写真が白黒になってしまったと怒る若い女性の、アップテンポの曲は、当時の東ドイツの物不足の状況を描いたとされる。多くの東独出身者には、「この国がどれほど美しかったか誰も信じてくれない」という歌詞が、特に印象に深く残っているという。

式典前の記者会見でこの曲を選んだ理由を質問されたメルケル氏は、「この曲は青春時代のハイライトだった」と答えた。さらに、「自分の選挙区だった地域が曲の舞台になっている」ため、「すべてがぴったりはまる」のだと説明した。

引用:BBC

彼女の原点は、やはり東ドイツにあるのだ。

社会主義国の良かった点と悪かった点、そして父親から植え付けられたプロテスタント的な道徳心を心に持ち続けてメルケルは長い政治人生を泳ぎ切った。

EU委員長のフォン・デア・ライエンは、ギリシャ危機の際に激しい批判にさらされた時のメルケルの言葉を覚えている。

「ヒトラーに似せて風刺されるなど、本当に凄まじい批判を受けたんです。それでも彼女は毅然として言いました。私は東ドイツの出身だから、身に染みてわかっている。報道の自由、言論の自由、デモを行う権利を持つ、民主主義の価値をよく理解していると。」

強権的な政治が世界にはびこる今、メルケルのように自らの経験に基づいて民主主義の価値を守ろうとするリーダーはどのくらいいるのだろう?

政治家の口から発せられる言葉が聞くものの心に響くかどうかは、その人物の信念、全人的な価値観にかかっているように感じる。

<吉祥寺残日録>信頼される言葉 #200410

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