<吉祥寺残日録>自転車に乗って🚲 スペイン風邪にも物申した歌人・与謝野晶子の旧居跡は荻窪、お墓は多摩霊園にあった #210529

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もはや緊急事態宣言が延長されても、何も感じなくなった。

吉祥寺の人流を見ていれば、急速に感染者が減ることはありえないと前々から予測していた。

これは政府だけでなく日本人一人一人の責任であり、ただただ、真面目に休業要請に応じている居酒屋さんが気の毒で仕方がない。

さて、今日は、明治・大正・昭和を生きた歌人で作家の与謝野晶子の命日である。

日露戦争に出征する弟の無事を祈る歌『君死にたまふことなかれ』は有名だが、これまで彼女に強い興味を持ったことはなかった。

トイレの歳時記カレンダーに書いてあったので、何気なく調べてみると、晶子は夫の与謝野鉄幹と晩年荻窪で暮らし、2人の墓が多摩墓地にあることを知った。

そして晶子が100年前の「スペイン風邪」に遭遇し、いくつかの作品を残していることも・・・。

与謝野晶子終焉の地となった荻窪も彼女の墓がある多摩霊園も吉祥寺から近い。

思い立ったらすぐ自転車を走らせ、与謝野晶子を求めてサイクリングに出ることにした。

与謝野晶子旧居跡「与謝野公園」

吉祥寺から自転車を東に走らせると、その公園は、JR中央線荻窪駅の南、環状8号線から少し入った住宅街の中にあった。

「杉並区立与謝野公園」

ここが与謝野晶子と鉄幹が晩年を過ごした旧居跡である。

公園の入り口に立てられた案内板には、こんなことが書いてある。

かつて、この地には与謝野寛(鉄幹)晶子夫妻が、晩年を過ごした家がありました。二人は明治から昭和初期にかけて、短歌、評論、古典文学研究、詩などの分野で活躍しました。

敷地に向かって左方にある門を入るとサクラ、アカシアなどがあり、砂利の通路が玄関へと続きました。玄関には、アケビの棚があり、庭には、センダンやイイギリの大木、タイサンボク、カエデ、紅白のウメ、ロウバイ、カキ、クリなどだくさんの樹木があり、青葉の季節には、外から家が見えないほどでした。ブドウ棚の下には池があり、その少し北よりには、大きな藤棚もあり、夏になると、二階の窓からは、地面は見えないほどでした。晶子は、自然のままに育てた庭木の姿を好ましく思っていたからです。秋には、ドウダンツツジの垣根が美しく紅葉し、冬には、椿の一種、ワビスケの花が咲きました。敷地内には、遥青書屋(ようせいしょおく)、采花荘(さいかそう)、冬柏亭(とうはくてい)の三つの建物があり、昭和十年に寛、昭和十七年に晶子が死去した後も敷地内には遥青書屋が、昭和五十五年頃まで残っていました。その後、昭和五十七年に、土地の一部を除き、杉並区立「南荻窪中央公園」として開園しました。

与謝野公園「与謝野寛(鉄幹)晶子旧居跡」(杉並区)より

鉄幹との間に11人もの子供を育て上げ、その間に多くの作品を世に送った与謝野晶子は、太平洋戦争最中の昭和17年5月29日にこの場所で亡くなった。

公園の名称が「与謝野公園」に改められたのは、晶子没後70年の節目の年だったという。

公園は一見すると、住宅街の中によくある普通の児童公園である。

しかしよく見ると、ここが与謝野寛・晶子夫妻ゆかりの場所であることを示すプレートがいくつも置かれていた。

たとえば・・・

杉並区教育委員会が立てたこちらの案内板には、こんなことが書いてある。

関東大震災の体験から、夫婦は郊外に移ることにし、当時井荻といわれたここに土地を得て、昭和二年、麹町区富士見町より引越してきました。甲州や足柄連山を眺める遥青書屋と采花荘と名づけられた二棟のこの家に、夫妻は友人から贈られた庭木のほか、さまざまな花や雑木を植え、四季折々の武蔵野の風情を愛でました。当時の荻窪を夫妻は次のように描いています。

私は独りで家から二町はなれた田圃の畔道に立ちながら、木屑と稲と水との香が交り合った空気を全身に感じて、武蔵野の風景画に無くてはならぬ黒い杉の森を後にしてゐた。私の心を銀箔の冷たさを持つ霧が通り過ぎた。  『街頭に送る』昭和六年 晶子

寛亡きあと、晶子は十一人の子女の成長を見守りながらも各地を旅し、また念願の『新々訳 源氏物語』の完成(昭和十四年)に心血を注ぎました。

昭和十七年五月二十九日、脳溢血で療養していた晶子は余病を併発して、この地に六十四年の生涯を終えました。

与謝野公園「与謝野寛(号・鉄幹)・晶子旧居跡」(杉並区教育委員会)より

こちらの碑は、地元商店街によって立てられたもので、与謝野晶子の詩が刻まれている。

歌はどうして作る

じっと観

じっと愛し

じっと抱きしめて作る

何を

「真実を」

与謝野晶子「歌はどうして作る」より

奥に進むと、この場所に3つの建物が建っていたことを示すプレートがあった。

下は、3つの建物の配置図。

かなりの豪邸だが、かなり詳細が書かれていた。

大正十二年の関東大震災を機に、大正十三年に与謝野夫妻はこの地(東京府豊多摩郡井荻村字下荻窪)を借り、まもなく、その一部に洋風の家「采花荘」を建て、長男と次男を住まわせました。

昭和二年には、与謝野一家は、晶子が自ら図面を書き、西村伊作設計による洋館に転居します。寛が、晴れた日には二階から秩父連山、富士山、箱根山脈までが遠望できるということで、「遥青書屋」と名づけました。この家は、クリーム色の壁に赤い屋根、窓のよろい戸が緑色の鮮やかな二階建ての大きな洋館でした。一階は、広々とした廊下、応接間、書斎、客間用のベランダと夫妻の部屋、二階には、日本座敷が二間、階上階下に子供たちがそれぞれの好みで和風洋風の部屋を持っていたようです。そして、屋上には「鶯峴台(おうけんだい)」と呼ばれる物見台がありました。四男アウギュストと五男の健、二人の名前に因んで寛が名づけました。鶯のさえずりを聞いたり、遠くの山々を眺めみるという意味もありました。

与謝野公園「三つの家」(杉並区)より

上が「遥青書屋」の写真だという。

ご丁寧に「遥青書屋」の平面図まで掲示されていた。

さらに・・・

昭和四年には、晶子五十歳の賀のお祝いに弟子たちから五坪ほどの一棟が贈られ、夫妻は「冬柏亭」と名づけました。冬柏亭は六畳と三畳の二間からなり書斎や茶室として使用されました。「冬柏」とは、夫妻が好きだった「椿」を意味しています。現在、この「冬柏亭」は、京都の鞍馬寺に移築され、唯一現存している建物です。

与謝野公園「三つの家」(杉並区)より

こちらが鞍馬寺に移築された「冬柏亭」の写真。

隠居さんにはもってこいの純和風の建物のようだ。

私もこんな庵が欲しいなあ・・・。

3つの建物があったあたりは更地になっているが、庭木に沿って二人の歌碑が点々と置かれていた。

その中から晶子の歌を年代順に追ってみる。

やわ肌のあつき血汐にふれも見で

さびしからずや

道を説く君

      晶子

『みだれ髪』(明治34年)

夏のかぜ山よりきたり

三百の牧の若馬

耳ふかれけり

      晶子

『舞姫』(明治39年)

子らの衣

皆新らしく美くしき皐月一日

花あやめ咲く

      晶子

『佐保姫』(明治42年)

男をば罵る

彼等子を生まず命を賭けず

暇(いとま)あるかな

       晶子

『青海波』(明治45年)

身の負はん苦も

五十路して尽きぬべし

かくおのれこそ許したりけれ

       晶子

『心の遠景』(昭和3年)

木の間なる

染井吉野の白ほどの

はかなき命抱く春かな

      晶子

『白桜集』(昭和17年)

これまで与謝野晶子に興味を持ったことはないので、知っている歌は最初の「みだれ髪」の有名な歌だけだが、素人から見ても歳をとるごとに母としての重みを増していくのがわかる気がする。

昭和17年に出版された「白桜集」は晶子の遺詠集となり、ここから与謝野晶子の忌日は「白桜忌」と呼ばれている。

公園の片隅に桜の苗木が植えられていた。

説明のプレートが添えられている。

『堺ブランド桜 与謝野晶子』

なんと、「与謝野晶子」という名の桜だそうだ。

「晶子生誕の地、堺で育てた苗木を、与謝野晶子生誕140年を記念し、晶子が晩年を過ごした屋敷跡である与謝野公園に植樹したものです。」

一見ただの公園だが、妄想を広げれば与謝野夫妻の晩年の暮らしが見えてくるような気がする。

「与謝野公園」
住所:東京都杉並区南荻窪4丁目3−22

与謝野晶子が眠る「東京都多摩霊園」

荻窪を後にして、今度は自転車を西に走らせて府中市と小金井市にまたがる広大な「東京都多摩霊園」に向かった。

ここに与謝野晶子のお墓があると知ったからだ。

関東大震災があった大正12年(1923年)に開園した日本初の公園墓地である。

その広さは都立霊園としては最大、なんと東京ドーム27個分に相当するという。

有名人のお墓もたくさんあり、こちらの鳥居付きのお墓には元老・西園寺公望が眠っている。

そのお隣は、二・二六事件で暗殺された「ダルマさん」こと高橋是清のお墓。

昭和初期、軍部の暴走を止められなかった政治家たちの立派な墓が並ぶ。

とにかく広大な多摩霊園の中で、与謝野夫妻の墓を探すのは大変だろうと思ったのだが、ありがたいことに「Google マップ」を使うと、一発でその近くまで案内してくれる。

与謝野夫妻のお墓は、「11区1種10側」と呼ばれる区画にあることはわかっているので、ここから一つ一つお墓をチェックして回る。

多摩墓地の中を歩き回るのは大変なので、自転車で来たのは正解だった。

与謝野夫妻の墓は霊園の中央を走る「バス通り」から一筋西側に入った所にあった。

この辺りは一区画の大きいお墓が並んでいる。

左が与謝野寛、右側が与謝野晶子のお墓だ。

周辺にはもっとバブリーなお墓も多いため、この大きなお墓でも比較的質素に見えてくる。

今日は「白桜忌」ということもあり、新しい花が活けてあったが、ファンが集まるような感じではなかった。

「白桜忌」の法要は生まれ故郷の堺で行われているらしい。

与謝野晶子が亡くなって今年で79年。

もはや国語で教わる歴史上の人物と言ってもいい。

2つの歌碑が残されていて、どちらも晶子の歌だという。

文字はほとんど読めなかったが、帰宅してから調べると、鉄幹のお墓の前に立てられた碑には・・・

『なには津に咲く木の花の道なれどむぐら茂りき君か行くまで』

和歌の道を再興した鉄幹を讃える歌だそうだ。

そして、晶子の墓の前には・・・

『今日もまたすぎし昔となりたらば並びて寝ねん西のむさし野』

多摩墓地に夫と眠る満足感を詠んだ歌のようだ。

観念的な女性運動とは一線を画し、子供を産み育てながら精力的に活動した人生の凄み。

晶子は享年63、今の私と同じ年齢だったのだ。

「東京都多摩霊園」
住所:府中市多磨町4-628
電話:042-365-2079
https://www.tokyo-park.or.jp/reien/park/access077.html

与謝野晶子とスペイン風邪

与謝野晶子が生きた時代、コロナ禍に似たパンデミックが発生した。

1918年から日本でも大流行した「スペイン風邪=流行感冒」だ。

子育ても真っ最中だった晶子の一家もこの「流行感冒」に苦しめられた。

当時彼女が書いた作品「感冒の床から」(1918年)から引用させていただく。

この風邪の伝染性の急劇なのには実に驚かれます。私の宅などでも一人の子どもが小学から伝染して来ると、家内全体が順々に伝染してしまいました。ただこの夏備前の海岸へ行っていた二人の男の子だけがまだ今日まで煩わずにいるのは、海水浴の効き目がこんなに著しいものかと感心されます。(中略)

政府はなぜいち早くこの危険を防止する為に、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか。そのくせ警視庁の衛生係は新聞を介して、なるべくこの際多人数の集まる場所へ行かぬがよいと警告し、学校医もまた同様の事を子どもたちに注意しているのです。社会的施設に統一と徹底との欠けているために、国民はどんなに多くの避らるべき、禍を避けずにいるかしれません。

今度の風邪は高度の熱を起しやすく、熱を放任しておくと肺炎をも誘発しますから、解熱剤を服して熱の進行を頓挫させる必要があるといいます。然るに大抵の町医師は薬価の関係から、最上の解熱剤であるミグレニンをはじめピラミドンをも飲ませません。胃を害しやすい和製のアスピリンを投薬するのが関の山です。一般の下層階級にあっては売薬の解熱剤をもって間に合わせております。こういう状態ですから患者も早く治らず、風邪の流行も一層烈しいのではないでしょうか。(中略)平等はルッソーに始まったとは限らず、孔子も「貧しきを憂いず、均しからざるを憂う」といい、列子も「均しきは天下の至理なり」といいました。同じ時に団体生活を共にしている人間でありながら、貧民であるという物質的の理由だけで、最も有効な第一位の解熱剤を服すことができず他の人よりも余計に苦しみ、余計に危険を感じるという事は、今日の新しい倫理意識に考えて確かに不合理であると思います。

引用:与謝野晶子「感冒の床から」(さかい利晶の杜のサイトより)

感染が始まった当初、晶子は政府の対応や不平等な社会に不満を募らせる。

去年の初め私が感じていた怒りと同じだと思った。

いつの世も、人間が最初に感じることは似たり寄ったりだ。

この2年後、感染の末期に書かれた「死の恐怖」(1920年)ではかなり落ち着きを取り戻していた。

私は家族と共に幾回も予防注射を実行し、そのほか常に含嗽薬(がんそうやく)を用い、また子どもたちのある者には学校を休ませる等、私たちの境遇で出来るだけの方法を試みています。こうした上で病気に罹って死ぬならば、幾分それまでの運命と諦めることができるでしょう。幸いに私の宅では、まだ今日まで一人も患者も出していませんが、明日にも私自身をはじめ誰がどうなるかも解りません。死に対する人間の弱さが今更のごとく思われます。人間の威張り得るのは「生」の世界においてだけの事です。

私は近年の産褥において死を怖れた時も、今日の流行感冒についても、自分一個のためというよりは、子どもたちの扶養のために余計に生の欲望が深まっていることを実感して、人間は親となると否とで生の愛執の密度または色合いに相異のある事を思わずにいられません。人間の愛が自己という個体の愛に止まっている間は、単純で且つ幾分か無責任を免れませんが、子孫の愛より引いて全人類の愛に及ぶので、愛が複雑になると共に社会連帯の責任を生じて来るのだと思います。感冒の流行期が早く過ぎて、各人が昨今のような肉体の不安無しに思想し労働し得ることを祈ります。

引用:与謝野晶子「死の恐怖」(さかい利晶の杜のサイトより)

子育てを経験すると、自分のためよりも子どもたちのため、さらには全人類のために自らの行動に責任を持つようになる。

「人間の愛が自己という個体の愛に止まっている間は、単純で且つ幾分か無責任を免れませんが、子孫の愛より引いて全人類の愛に及ぶので、愛が複雑になると共に社会連帯の責任を生じて来るのだと思います。」

わかるなあ、この感覚。

若い人たちは、どうしても「個体の愛」に止まってしまう。

それはいつの世も仕方がない。

若者たちを責めるのではなく、誰かのせいにするのでもなく、自らの行動に責任を持って社会的な役割を果たすのだ。

一人一人がそう心がければ、東京五輪が開催されようがパンデミックはきっと乗り切ることができる。

緊急事態宣言の延長が発表されても、今日も吉祥寺の街には多くの人が行き交っている。

大切なのは一人一人の責任ある行動。

どんな政府ができても、国民が好き勝手に行動していたのではパンデミックとは戦えない。

「コロナ疲れ」などと言って自分を甘やかすのではなく、「絶対に自分は患者や感染源にならない」と全員が責任ある行動を取れば、自ずと感染は収まっていく。

結局は、それしかないのだ。

政府や自治体の判断はツッコミどころ満載だが、無責任な行動をしている国民も多い。

まずは地に足をつけて、自分のできることから始める。

子育てと作家活動を両立させた与謝野晶子から学ぶことは今でもとても多いと感じる。

自転車に乗って 🚵‍♂️

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