<吉祥寺残日録>米露首脳会談と老いたゴルバチョフの遺言 #210617

日本では昨日通常国会が閉幕し、東京オリンピックとワクチン接種を横目で睨みながら政治的な駆け引きが活発化してきた。

政府は、20日で期限を迎える緊急事態宣言について、沖縄を除いて解除し、東京や大阪などはまん延防止措置に移行し、酒類の提供は午後7時までとする方針を固めた。

東京の昨日の感染者は500人を超え、すでに下げ止まりの傾向が見られる。

吉祥寺でも多くの人が街にあふれ、宣言が解除されるとリバウンドすることがほぼ確実だろう。

パラリンピック閉幕後の解散と10月初めの総選挙が有力視されているが、オリンピックに対する世論の批判は未だ収まる気配がなく、今後のコロナの状況によっては大きな波乱要素になるかもしれない。

とはいえ、残念ながら野党にまったく魅力がないので、どんなに感染状況が悪化したとしても与野党逆転といったハラハラする展開は望むべくもなく、所詮は器の中でのチンケな権力争いである。

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それよりも私の関心はもっぱら、米中対立を軸とした国際的なパワーバランスの変化にある。

G7サミットの後、NATOやEUの首脳会議に出席したバイデン大統領は、ジュネーブでロシアのプーチン大統領との直接会談に臨んだ。

両首脳は、核軍縮やサイバー犯罪について新たな対話の枠組みを設けることで合意し、相互に追放している大使の復帰でも一致したという。

ここでも影の主役は中国であり、バイデンさんとしてはロシアが中国と組んで対抗勢力となるよりも、ロシアを中国包囲網に取り込んだ方が有利だと考えているのだろう。

クリミア侵攻以来、ずっと経済制裁にさらされてきたロシアとしても、米中対立を利用して漁夫の利を得ようという狙いがある。

もしロシアが欧米寄りのスタンスに転換すると、中国にとっては大きな脅威となるだろう。

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ジュネーブを舞台にしたアメリカとロシアの首脳会談と言えば、1985年のレーガン大統領とゴルバチョフ書記長の米ソ首脳会談が想起される。

この年ソビエト連邦の書記長に就任したゴルバチョフは、大胆な人事によって権力を掌握し、颯爽とジュネーブに乗り込んだ。

ここでレーガンとの間で、核軍縮交渉の加速や相互訪問などで合意し、これを足場に「ペレストロイカ」を掲げた国内改革に乗り出していく。

そういう意味で1985年の米ソ首脳会談は、長く続いた東西冷戦に新たな光が差し込んだ歴史的な出来事だったと言えるだろう。

あの時キラキラと国際政治の舞台に登場したソビエトの若き指導者は、結果的に、第二次世界大戦後ずっと続いてきた「東西冷戦」という膠着状態を終わらせる役割を担った。

しかし皮肉にも、それは彼の祖国ソビエト連邦の崩壊によって達成された。

社会主義諸国の盟主であったソ連が崩壊した1991年12月26日、私はモスクワでその歴史的な1日を取材して回った。

歴史というものは、権力者にとってもままならないものである。

ソ連崩壊によってその名を歴史に刻むことになったゴルバチョフは今、どうしているのか?

先日テレビで年老いたゴルバチョフの映像を見た。

それは淡々とした静かな映像だったが、ショッキングな番組と言ってもいい。

「BS世界のドキュメンタリー」枠で放送された『ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”』。

2020年、ラトビアとチェコが共同制作したドキュメンタリー番組である。

西側からヒーロー視される一方で、国内ではソビエト崩壊を引き起こしたとして批判されてきたゴルバチョフ。「今のロシアは自由か」「プーチンとの関係は」など直球の質問に答え、最愛の妻ライザに先立たれた悲しみ、家族との今についても語る。希代の政治家が思索する「過去」と「現在」とは?世界最大のドキュメンタリー映画祭IDFAで最優秀監督賞。

引用:NHK

ゴルバチョフは1931年3月2日生まれで、今年90歳になった。

私と同じ誕生日、27歳私よりも年上になる。

このドキュメンタリーの中から、一人の大政治家の最後の言葉を書き残しておこうと思う。

年老いて見た目にもむくんだ印象を受けるゴルバチョフは、体調の不調を訴える。

「太陽嵐、磁気嵐は耐えがたい」と・・・。

自らの今を「自由」だと言う。

好きなことを言えるし、聞きたいと思えば誰でも聞けると。

だが新聞社からは寄稿文を拒否され、「ゴルバチョフの時代は崩壊した」と言われた。

90歳になるゴルバチョフが、はっきりとした口調で社会主義について語る。

私は自分を社会主義者だと考えている。率直に言えば、今でもレーニンは神だと思っている。

社会主義とは揺るぎない視点だ。人々が人生の新たな高みを見出し、自分自身を極めようとすればするほど社会主義の必要性は高まる。私が社会主義を破壊したと言う人もいるが・・・。

私は高校の卒業作文で最高の評価を得た。選んだのは文学的なテーマではない。テーマは自由に選んだ。

「スターリンは我らの闘いの栄光 青春と飛翔」

これが当時の私の考えだった。私は優れた教育を受け、責任感を備えていた。

だがその後、書記長になった時、私は秘密にされていた資料の内容を詳細に調べ上げた。ひどいものだった。

何十年にもわたる処刑のリスト、100人、200人単位のリストだ。ぞっとするような記録だった。人としても、党としても。

スターリンは社会主義者ではなく、むしろ独裁主義者だったのだろう。しかし今でも、非常に多くの人がスターリンを支持している。

『ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”』より

インタビュアーがこんな質問をする。

記者:「この国の社会主義者の指導者は?」

ゴルバチョフ:「私だ」

記者:「他には?」

ゴルバチョフは笑って自虐的にこう答えた。

こう言いたまえ「ゴルバチョフに尋ねたら“私だ”と答えた」「“他には?”と聞くと“いない”と言った」「あれは傑作だった」と。

『ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”』より

話は、プーチンに及んだ。

いちばん大事なのは命だ。さらに大事なのは、その命をどのように扱い、扱われるか。

あの日、「ロシアの日」の6月12日、赤の広場にはテントが設営され料理のテーブルが並んでいる。歩いてきた2つのグループが出会う。

プーチンと私だ。その時の会話を明かそう。

「こんにちは。ご無沙汰だね」と言うと、「そんなことはない」と彼は答える。

「いや、君は私を避けている」「なぜ、そんなことを?」「君は私との会合を3回セッティングしたが3回とも姿を現さなかった」

泣きはしないが、私の気持ちを想像してみたまえ。

するとプーチンは、人生は複雑なものだという説明を始めた。人生は人生だ。

そして、我々と彼らと別れクレムリンへと向かった。彼らはバーベキューを楽しむために広場の方へ行った。我々がすでにたもとをわかっていたことがわかるエピソードだ。

『ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”』より

頭も口も明晰なゴルバチョフだが、足は不自由で手押し車なしでは移動することができない。

ソビエト大統領を退いた時、ゴルバチョフが持っていた資産はモスクワの質素なアパートだけだったという。

1991年のソビエト連邦崩壊後、独立した共和国指導者たちがゴルバチョフに家をプレゼントし、彼は今もその家に暮らしている。

ゴルバチョフは引退後世界各地で講演を行い、その収入で親族を養ってきた。

孫娘たちが結婚する際に、50万ドルのアパートを買い与えた。

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しかしゴルバチョフにとって人生で最も大きな出来事は、最愛の妻ライサに先立たれたことだったようだ。

妻の死後、ゴルバチョフは「生きる意味を失った」と語っていた。

番組のインタビューでも妻との思い出を懐かしそうに話した。

一人の女性を愛すること、愛されていると感じること、それより高尚なことがあるかね。

スタヴロポリにいた頃、私たちの家は党委員会事務所のある町の高台にあった。草原から風が吹いてきてうっとりするような香りがした。すばらしかった。

私はよくライサを車に乗せて、町の中心から50キロほど離れた場所へ行った。どこまでも広がる麦畑。そこでは、ウズラが求愛している。トウモロコシの実が熟してくるとウズラたちは狂ったように走り回る。そして死ぬまで愛し合う。そうやって生きているんだ。今は地獄だがね。

私たちは離れたことがなかった。いつも一緒だった。なぜ、そんなことができたんだろう。尻に敷かれているとも言われたが、否定したことは一度もない。むしろそうありたかった。彼女への褒め言葉だから。

ライサと一緒に暮らし始めた時、彼女のことを調べた。母親はおそらくロシア人だろう。父親のチタレンコはウクライナ人だった。私の家族は母がウクライナ人で父がロシア人。彼女の母方の祖父は処刑されている。一家は国のあちこちに離散していた。

「驚いたよ」と私が言うと、「何が?」と彼女は聞いた。

「君がロシア人ではなくウクライナ人だということ」

「あなたにとって何が違うの?」と言うので「君が時々いじわるになる理由がやっと分かった」と答えた。

『ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”』より

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そして自らの生い立ちについても・・・。

私の母方の祖父も裁判にかけられ銃殺刑を言い渡された。自分が創設したコルホーズの責任者だった。その後、祖父は地方検事補に呼び出されたのだが、罪状に該当する証拠は見当たらない」とのことだった。罪は犯していなかったのだ。1年2ヶ月の収監の後、祖父は釈放された。さまざまな拷問を受け両手の骨は折られていた。

原因は祖父のトロツキズムだろう。なぜあんなものを信じたのか。祖父が戻ってきた時、ごく近しい者だけが集まった。私はペチカに腰かけて全身を耳にしていたよ。「お前たちには分かってほしい」と祖父は言った。「だが誰にも話す必要はない。私も二度と話さない」と。いつも「スターリンは悪くない」と言っていた。

10年生で共産党に入った。

家族と相談して決めたことだ。私が共産党員になったことを皆とても喜んでいたよ。そして勉強を続けることも喜んでくれた。だが入学申請書を送ったのに2週間何の反応もない。返信料金を先払いして送ったのに。考え込んでいたらようやく返事が来た。

「入学を認める。学生寮入寮を許可する モスクワ大学法学部」

出発の時は、モスクワに行けることがとてもうれしかった。何しろモスクワだ。列車の窓から手を振ろうとして頭を上げ周囲を見回した時、祖父の姿が目に入った。処刑を宣告された祖父。祖父は私の車両の窓のそばに立って泣いていた。その姿を今も忘れることができない。

『ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”』より

大晦日。

友人の家に招かれたゴルバチョフの後ろでテレビに映ったプーチンが新年の挨拶をしている。

「新年が訪れるたびに、子供の頃のすばらしい思い出が蘇ります。愛する人や両親を抱きしめる時、子供や孫のためにこっそりプレゼントを用意する時、優しさと思いやりはすべての人をひとつにします。幸せが皆さんの家庭に永遠にとどまりますように。2020、新年あめでとうございます」

プーチンが話し終わると、赤の広場の大時計が深夜零時の鐘を鳴らし、ロシア国歌が流れる。

これがロシアの新年のテレビなのだ。

テレビから流れる国歌を聴きながら、ゴルバチョフは呟いた。

「“自由な祖国”か・・・。誰がその自由をもたらしたんだ」

ロシア国歌は、ゴルバチョフがかつて率いたソビエトの国歌をそのまま引き継いだものだ。

祖国に自由をもたらしたのは自分である。

そんなゴルバチョフの自負が少しだけ顔を覗かせた瞬間だった。

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私の同時代を生きた人物の中で、ゴルバチョフは間違いなく歴史にその名が残る一人だろう。

しかし一度権力を失うと、人間が考えることはあまり変わらない。

家族への愛情と多少の自負。

ゴルバチョフの不幸は、祖国の崩壊よりも愛妻を失ったダメージなのだ。

人生は複雑なように見えて、終わってみれば誰しもさほど大きな違いはないのかもしれない。

番組を見ながら、そんなことを感じた。

ロシア元スパイ

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