<吉祥寺残日録>米連邦最高裁に仕掛けられた「トランプの罠」!それでも分断国家アメリカには州単位の自治がある #220625

今日の東京は朝から雲ひとつない快晴。

どう見てもこれは真夏の気候と言っていい。

まだ6月だというのに、梅雨前線はさっさと北に抜けてしまい、この先日本各地から猛暑日のニュースが伝えられそうである。

暑いといえば、分断国家アメリカでまた、ホットな対立を生みそうな歴史的な判決を下された。

テーマは妊娠中絶。

米連邦最高裁は24日、人工妊娠中絶を憲法上の権利と認めた1973年の「ロー対ウェイド判決」を覆す判断を下し、半世紀続いた「中絶の権利」を否定したのだ。

トランプ政権時代、3人の保守派の裁判官が最高裁入りし懸念されていた事態が現実のものとなった。

まさに「トランプの罠」が炸裂したのだ。

判決文は「憲法は中絶の権利を与えていない」と明言。ロー対ウェイド判決は無効とし、中絶を規制する権限は「国民と国民に選ばれた代表に戻す」とした。州が中絶を規制することを認めた。

判断は、妊娠15週より後の中絶を原則禁じる南部ミシシッピ州の法律の合憲性を巡る訴訟に対するもの。保守派判事5人が支持、リベラル派判事3人が反対し、ロバーツ長官は判断を容認する立場を示した。最高裁はトランプ前大統領が保守派判事3人を指名したことで、保守派6人、リベラル派3人と、勢力が保守に大きく傾いている。

73年の判決は一般的に妊娠23週前後とされる胎児が子宮外で成育可能になるまでの中絶を認めており、下級審はこれを基に同州法の施行差し止めを命令。同州が最高裁に上訴し、州法の容認だけでなく73年判決自体の見直しも求めていた。

引用:日本経済新聞

この判決を受けてトランプさんは「今日の判断は生命のための最大の勝利」と評価し、保守派判事3人の指名など自分が公約を実現したからこそ可能になったとアピールした。

一方のバイデンさんは、「最高裁の極端なイデオロギーと悲惨な誤りの表れ」と最高裁を非難、議会が中絶の権利を守る連邦法案を可決する必要性を訴え、中間選挙で中絶の権利擁護派に投票するよう有権者に呼び掛けた。

連邦最高裁は23日にはニューヨーク州の銃規制を違憲とする判断も下していて、トランプさんの支持母体であるキリスト教原理主義者を中心とする保守派の主張が一気にまかり通る状況が生まれている。

しかし、これによって秋に予定されている中間選挙でトランプさんの共和党が有利になるかといえば、個人的には逆ではないかと思っている。

物価高騰や株価の下落もありこのところ支持率が低迷しているバイデン政権だが、連邦最高裁が立て続けに銃規制と妊娠中絶というアメリカ社会を分断しているテーマで保守的な判断を下した結果、こうしたテーマが大きな争点に浮上することになると私は予想する。

確かにアメリカでは、銃規制や妊娠中絶に強く反対する人も多い。

しかし、マジョリティーはどちらかといえば、銃犯罪の抑止や女性の権利擁護を重視する人の方が多いのではないかと考えているからだ。

ナショナル・ジオグラフィックのサイトに『人工妊娠中絶は再び違法になるのか、中絶をめぐる米国の歴史』という興味深い記事が掲載されていた。

妊娠中絶をめぐるアメリカの分断を理解するうえで、その歴史を知ることは欠かせない。

植民地時代から建国直後まで、中絶に関する法律は米国には一切存在していなかった。米オクラホマ大学法律大学院の法律史学者カーラ・スピバック氏は、2007年10月発行の学術誌「William & Mary Journal of Race, Gender, and Social Justice」のなかで、キリスト教会が中絶に関して快く思ってはいなかったものの、それはあくまで不道徳的な行為または婚前交渉の表れであるという見方をし、殺人とまではみなしていなかったと記述している。

この時代、妊娠の継続を望まない女性には様々な選択肢があった。自宅の菜園で普通に育てられている薬草を混ぜ合わせて摂取すると、当時の言葉で言う「障害物」を取り除き、生理を再開させることができたという。

「誰にも知られることなく、女性が自分で決定することだったんです」と、マカイバー・トンプソン氏は言う。

ただし、奴隷の妊娠中絶は厳しく制限されていた。生まれた子は所有物とみなされていたためだ。

19世紀半ばに医師の職業化が進むと、女性の生殖周期のケアは女性の助産師ではなく男性の医師に任せるべきであるとする声が、医師たちの間で高まった。それとともに、妊娠中絶への批判も始まった。

その先鋒に立ったのが、ホレシオ・ストラーという婦人科医だった。中絶は犯罪行為であると考えていたストラーは、1857年に米国医師会に加入して1年も経たないうちに、反中絶の立場をとるよう医師会に強く働きかけた。また、仲間の医師たちを集めて「中絶に反対する医師の会」を立ち上げた。医師たちが公に意見を述べるようになったことで、中絶を犯罪行為とする法律が次々に成立した。

反対者にとって、中絶は道徳に反するだけでなく、社会悪でもあった。移民の流入、都市の拡大、奴隷制度の廃止で、白人は自分たちにとって好ましくない集団が多数派になることを恐れていた。そして、白人女性が国の将来を守るためにもっと子どもを産むべきだと主張するようになった。

1967年には、母体の健康が危険にさらされている場合と、性暴力の被害者を例外として、中絶は全ての州で重罪とされていた。

しかし、流れが変わったのは1970年代に入ってからだった。多くの州が、中絶を違法とする法律の見直しを始めたり、規制を緩和し始めた。そして1973年、有名なロウ対ウェイド裁判と、知名度は低いものの同等に重要なドウ対ボルトン裁判の2つで、女性の中絶権を認める判決が下された。

それ以来、米国ではこれらの判決が与えた影響をめぐる論争が続いている。

引用:ナショナル・ジオグラフィック

この記事を読むと、必ずしもキリスト教会が主導して中絶反対の世論が形成されたわけではなく、白人優位の社会を保とうという思想とのつながりが濃いことが理解できる。

今も、中絶に反対する州は、白人の比率の多い中南部に多い。

しかし最近思うのだが、異なる価値観を持つ社会集団が生まれることは避けられないことであり、それを認めることこそが多様性なんだと思う。

妊娠中絶を悪だと考える人はしなければいいし、それを女性の権利だと思う人はその権利を行使すればいい。

ただ自分が属する国家や社会が自分の考えと異なる場合、それは苦痛となる。

でも民主主義を採用している以上、議論の末に多数派に従うのがルールだ。

その点、アメリカでは州の自治権が大きく認められているのは日本から見ると羨ましい気がする。

自分が引っ越しさえすれば、まったく別のルールの下で生きることが可能なのだ。

もちろん、慣れ親しんだ土地から動きたくないという人もいる。

だから自分の住む社会の方を変えたいと考え行動するのも一つの生き方だ。

しかし社会を変えるのは簡単ではなく、そもそも人と争うことは莫大なエネルギーを必要とする。

それならば、自分が生きやすい環境を求めて移住すればいいではないか。

それが同じ国の中で可能となる「地方分権」「強力な地方自治」という政治形態は、分断や多様性を前提とするこれからの社会ではもっともっと注目されていいと私は考えている。

日本では最近、安全保障に関する議論が活発化する中で、「地方分権」という言葉がほどんど聞かれなくなってしまった。

今回の参院選でも地方分権の実現を大きな争点として掲げる野党は一つもない。

辺野古への米軍基地移設で国と対立している沖縄県を例に考えてみよう。

沖縄はもともと独立国であり、独自の文化と歴史を持った地域である。

そんな沖縄が、日本という国に属しながら、沖縄県民の民意を反映して様々な独自ルールを決めることができれば、沖縄は今よりももっと魅力的なエリアとなるだろう。

近頃すっかり耳にしなくなった「道州制」も真剣に議論した方がいい。

一票の格差が問題とされ、衆議院の議席も「10増10減」の方向で動いているが、明治時代に形作られた都道府県という行政単位に縛られている限り、いびつな選挙制度を正すことはできないだろう。

いっそのこと道州制を導入して地方に大幅に権限を渡し、独自の内政を行わせる方が面白いのではないか。

大阪維新の会が大阪を根拠に独自の政治を行い、有権者から強い支持を得ているように、その地域地域のニーズに合った政治が実現するかもしれない。

東京への一極集中を食い止めようと本気で考えるならば、中央集権的な国家体制を改め、日本という国の中にいくつかの選択肢が用意されるべきだ。

リベラルな地域があってもいいし、保守的な地域があってもいい。

それを国家レベルで集計して多数決で決めようとするから、どうしても不満を抱く有権者が大量に発生してしまうのだ。

東京と岡山でもしも政策が違うという時代が来たら、自分が気持ちよく暮らせそうな方に住民票を移すだろう。

人口減少に悩むブロックが群馬県の大泉町のように外国人移民を積極的に受け入れる政策を採用するならば、私はそういうエリアに暮らしたいと考え移住するかもしれない。

去年、私が住む武蔵野市が外国人の参加を認める住民投票条例を制定しようとした時、わざわざ市外から保守派が押し寄せて抗議活動を繰り広げたことがあった。

私は特段この条例に賛成でもなかったが、外野から騒ぎを起こされてとても不愉快だった。

すべての人を自分の考えに従わそうという独善的な運動は、社会をより分断させ、日本をますます住みにくい国にするだけで迷惑千万である。

戦争が続くウクライナでも、ロシアによる軍事侵攻には断固反対する一方で、クリミア半島や東部で暮らす親ロシア派住民の自治も認めてあげたい気がしている。

国境をめぐる問題はすぐに愛国主義と結びつき、排外的な運動を煽ってしまうのだが、第二次大戦後のヨーロッパで進んだように、小規模で独立した民族国家がEUのような国家連合を形成する姿こそ21世紀にはふさわしい国家の形だと私は信じている。

中国の人権問題を批判する際、私たちはウイグルやチベットの問題をあげつらうが、程度の差こそあれ私たち日本人もずっと沖縄の世論を無視してきたという視点は持った方がいい。

一人でも多くの人が気持ちよく暮らせるために、複数の選択肢を持った日本になってほしいと、アメリカの分断を眺めながら考えた次第である。

<吉祥寺残日録>超大国アメリカとアイヌの世界 #201023

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