昨日、冷たい雨が降る中、5回目のコロナワクチン接種に行ってきた。

コロナ第8波は、全国で連日15万人ほどの感染者を出しているものの、もうみんな慣れてしまってコロナを怖れて外出を自粛する人もグッと少なくなっている。
私はといえば、妻が慎重派でしかも副作用のためにワクチン接種をもう受けないと決めたみたいなので、無用に出歩くことはせず、相変わらず家で過ごす時間が多いがコロナに対する心配はもうほとんどしなくなった。
コロナワクチンをめぐっては、当初から有効性を信じる人とむしろ有害だとして絶対に接種しない人とで意見が鋭く対立した。
既存メディアではなくSNSから情報を入手する人が増える世界で、信じたい情報しか受け入れない風潮が急速に広がっている。

会期末を迎える国会では、旧統一教会の被害者救済をめぐる新法案の審議が始まった。
悪質な寄付の勧誘を禁止するこの法案について、今国会で成立させることでは与野党が一致しているものの、「マインドコントロール下にある人の寄付を禁止する」よう法案に明記すべきだと主張する野党に対し、与党側が「マインドコントロールの定義は困難」と慎重だった。
創価学会と一体の公明党はもちろん、自民党も多くの宗教団体を支持母体としているため、他の宗教法人への影響を心配しているのだろう。
創価学会の広告塔として活動していたお笑い芸人の長井秀和さんが、旧統一教会の違法寄付行為に絡んで創価学会でももっと大規模に行われていると暴露するなど、週刊誌上ではすでに他の宗教団体にも波及する気配を見せているからだ。
こうした動きを見ながら、私は思う。
そもそも、宗教って本質的にマインドコントロールと同義語なのではないかと・・・。

ワクチン接種を終えて家に帰ってから、布団に寝っ転がって録画した番組を見始めた。
あまり興味が湧かず放送からかなり経ってしまった番組も多く、昨日はそうした番組を次々に見ていった。
その一つが、ほぼ1年前にテレビ東京で放送された映画『ノア 約束の舟』。
2014年公開の映画でタイトルの通り、聖書にある「ノアの方舟」をベースにした『ロード・オブ・ザ・リング』的なスペクタクル大作だが、その冒頭でこんなテロップが流れる。
『この世の初めは“無”だった・・・』
『誘惑が罪を生んだ・・・』
『エデンの園を追われ、アダムとイブはカインとアベル、セトの3人の息子を得た』
『カインはアベルを殺して逃亡、“見張りの天使”と呼ばれる堕天使たちに命を救われた』
『その地でカインの子孫は文明を築いた。だが同時に悪を撒き散らした』
『三男のセトの子孫のみが神が創造されたものを大切に思い守り抜いた』
旧約聖書に描かれる人類誕生の壮大なストーリーだが、私たち日本人はその物語を断片的にしか知らない。
私がこの映画を録画していたのも、世界中の多くの人がマインドコントロールされている宗教という名の壮大な作り話を知っておいた方がいいと考えたからだ。
この映画は、世界39カ国でNo.1ヒットとなったという。
それはまさに世界の多くの人が「ノアの方舟」のお話に慣れ親しんでいることを意味している。
ユダヤ教やキリスト教だけでなく、イスラム教でも旧約聖書の物語をベースにして世界観が作られ、この世の始まり、人間誕生の物語として語り伝えられてきたのだ。
文明とともに悪をも世界にばら撒いた人間に対し神は怒り、この世界を終わらせることを決めた。
それを夢の教えで知ったノアは巨大な箱舟を用意する。
そして神に祝福されたノアの家族だけが生き残り、ノアの息子であるセム、ハム、ヤペテの3人から今の人類が広がったとされる。
私が学校教育を受けていた頃には「セム=ハム語族」という中東から北アフリカの人々を指す言葉が教科書に載っていたが、これはノアの息子であるセムとハムから来ているという。
ヨーロッパの白色人種は自らをヤペテの子孫と考えられていたようだが、現在ではもうこうした非科学的な分類は行われなくなり、10年ほど前ようやく教科書からも消えたのだそうだ。

世の中にはびこる人種差別や女性差別などの多くが、宗教と結びついている。
アメリカを二分する中絶論争でも、人工妊娠中絶に強硬に反対している中心は聖書の教えを厳格に守るキリスト教保守派だ。
「ノア 約束の舟」のラストで、ノアは息子たちに言う。
『生めよ。ふえよ。地を満たせ』
戦前の日本でも国家総動員の一環として「産めよ殖やせよ」と出産が奨励されたが、宗教にもそうした側面があり、旧統一教会も中絶に強く反対していた。
宗教というのはもともと人間の心をコントロールするものであり、それによって心の平安が得られるメリットがあると同時に、多くの権力者や宗教指導者がマインドコントロールされた信者を意のままに操り自らの立場を強くするために利用してきた。

BSプレミアムで放送された「国宝へようこそ『高野山』」でも、宗教と寄付の関係について考えさせられた。
高野山といえば、言わずと知れた平安時代に空海が開いた宗教都市だが、そこには多くの国宝があり「山の正倉院」とも呼ばれる。
その中に、国宝「五大力菩薩像」という縦3メートルを超える掛け軸がある。
平安時代に描かれたこの国宝はもともと京都の東寺にあったが、豊臣秀吉によって高野山に移されたという。
わざわざこの絵を移した理由は、秀吉が高野山を豊臣家の菩提寺にしようと考えたからだ。
高野山に建てた母の菩提寺にはこれまた平安時代に描かれた国宝「阿弥陀聖衆来迎図」が納められた。
この掛け軸はかつて比叡山の秘宝だった。
自分の死後に取り憑かれた権力者が、他者の宝を奪ってでも寄進を続ける様は、まさにマインドコントロールそのもの。
こうして秀吉によって寄進された宝物は今も高野山から元の所有者には戻されていない。
高野山には秀吉以外にも多くの武将や権力者が自らの墓を建て、寺の建設や修理に多額の寄付を行ったことで世界的にも珍しい山上の宗教都市が出来上がった。
宗教とはもともと信者からの寄付によって成り立つものであり、寄付を集めるためには信者を増やし彼らの信仰=マインドコントロールを深める必要があるのだ。

権力と宗教は時に敵対し、時に結合する。
日本国憲法に定められた政教分離の原則は、権力による宗教への弾圧を防ぐ意味合いが強いものだが、宗教が過剰に政治に介入することも防がねばならない。
安倍総理銃撃事件によって俄に注目を集めた政治と宗教の問題、そして宗教2世の窮状はなんとしても解決しなければならない。
マインドコントロール下での過剰な寄付が新たな法律によって防げるならば、一歩前進と言えるだろう。
ただ個人的に思うのは、宗教と寄付とマインドコントロールという構造的な関係を断つことは不可能であり、むしろいかにして宗教団体が政治に過剰に介入することを法律によって防ぐかを永田町は考えるべきだということだ。
もちろん世界中を見渡しても、政治と宗教は切っても切り離せない関係である。
宗教を政治から完全に排除したのは共産主義国家だけだ。
でもこれらの国では共産主義が宗教となり、国家ぐるみでマインドコントロールが行われた。
所詮は政治とマインドコントロールは切り離せない関係にあるのかもしれない。
そう思うとなんだかとても虚しい気分になってくるが、コロナワクチンを接種した直後の頭で、そんなことをぼんやり考えたのだった。