<吉祥寺残日録>日中国交正常化50年🇨🇳 周恩来と鄧小平の長期戦略と目先ばかりの日本人 #220929

ちょうど50年前の今日、中国を訪問した田中角栄総理と中国の周恩来首相との間で日中共同声明の署名が行われ、15年に及ぶ日中戦争を戦った日本と中国が国交を正常化した。

当時はまだ戦争が終わって27年しか経っておらず、旧日本軍によって国土を破壊され多くの同胞を殺された中国人の間に日本に対する憎しみが生々しく残っている中での決断であった。

しかも、敗戦国日本に対する賠償まで放棄した。

中国政府の決断が、いかに困難で重いものだったかがわかる。

東西冷戦の真っ只中でなぜ敵対する日本と中国が歩み寄ったのか、今日は私なりの理解をもとに歴史を振り返ってみようと思う。

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きっかけは1972年2月のニクソン訪中だった。

それまでアメリカは、国共内戦に敗れ台湾に逃れた蒋介石の中華民国政府を支持しており、冷戦下、共産党が支配する中華人民共和国とは敵対関係にあった。

なぜニクソンは中国に接近したのか?

その背景にあったのは、1969年から激化した中国とソ連の対立だった。

アメリカにも中国にも最も警戒すべき敵はソビエト連邦であり、敵の敵は味方という思惑があった。

当然、両国の内部には、米中接近に強く反対する強硬派が存在した。

しかし大きなリスクをとって、米中の歴史的な和解への道を切り開いたのはキッシンジャーと周恩来という個人の存在だった。

キッシンジャーはハーバードの教授から政治の世界に入ったばかりの野心家で、世界をアッと言わせる偉業を狙ってニクソンの後ろ盾を頼りに単身中国に乗り込んだ。

大統領としての歴史的成果を求めるニクソンと己の能力を証明したいという野心に燃えるキッシンジャー。

こうした山っ気のある男たちが打った大きな博打は見事に世界中に衝撃を与えた。

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一方の周恩来は極めて大局的に世界情勢を判断する冷静な男だった。

彼は共産党のリーダーである毛沢東に忠実に仕えつつ、大躍進政策の失敗と文化大革命の狂気が中国経済を滅茶苦茶にしたことを強く憂慮していた。

失敗すれば失脚を免れない熾烈な権力闘争の中で、周恩来は秘密裏にアメリカにメッセージを送り、アメリカ側からの歩み寄りを待った。

キッシンジャーは回想録の中で次のように周恩来を評した。

「およそ60年間にわたる公人としての生活の中で、私は周恩来よりも人の心をつかんで離さない人物に会ったことはない」

「ニクソンショック」とも呼ばれた米中の電撃的な和解は、周恩来なしでは実現しなかっただろうと私は考えている。

それから半年ほどが経ち、今度は着任早々の田中角栄総理が中国を電撃訪問する。

長期政権となった佐藤栄作の後継争いで、本命だった福田赳夫に対し田中は日中国交回復の実現を総裁選の公約に掲げた。

裏で動いたのは田中とタッグを組んだ大平正芳だった。

後に「アーウー宰相」と揶揄された大平は今時の政治家とは一味違うバランスの取れた誠実な人柄で中国側の信頼を得ていく。

野党だった社会党や公明党が露払いをする形で中国側の反応を探りながら、田中と大平は1972年9月に北京に乗り込んだ。

ぶっつけ本番の交渉だった。

2人を迎えたのはやはり周恩来。

第1回の会談で、共同声明の形で国交正常化を行うこと、中国側が日米安保条約体制を是認すること、日本側が台湾との日華平和条約を終了させることが確認され、予想外の順調な滑り出しだった。

夜の晩餐会では周恩来が「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めることで中日国交正常化は必ず実現できる」と述べる一方で、田中は「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します」と挨拶した。

しかし周恩来は田中が使った「ご迷惑」という言葉などに厳しく反応、日本側が慌てて台湾の扱いで譲歩するといった駆け引きも見られたようだ。

さらに田中が尖閣諸島の問題を持ち出したのに対し、周恩来は「今、話し合っても相互に利益にはならない」と応じ、結局この問題は棚上げとなった。

周恩来にとっては絶対に成功させなければ自らの地位が危うくなる交渉だったが、攻めるところはしっかりと攻め、譲るところはしっかり譲り、合意が難しい問題は先送りする、実にタフで長期的視野に立ったネゴシエーターだったとつくづく感心してしまう。

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中国との国交回復に尽力したニクソンと田中が相次いでスキャンダルにより失脚した後も、日中関係は順調に受け継がれていく。

中国側では周恩来の後継者、鄧小平のイニシアティブが強かったと思う。

周恩来は病を患った後、失脚し地方に追いやられていた鄧小平を呼び戻し自らの後を託した。

その期待に応える形で、鄧小平は四人組との戦いを制し、中国の最高実力者へと昇り詰める。

そして日本やアメリカ訪問で自らの目で経済発展とは何かを悟り、中国を力技で改革開放へと軌道修正していく。

「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」

「窓を開けば、新鮮な空気とともにハエも入ってくる」

清濁合わせ飲む鄧小平の現実主義が、長い眠りについていた中国を一気に覚醒させることとなる。

鄧小平は日本の企業経営者たちも魅了し、バブル期を迎えつつあった日本企業は続々と中国に工場を建設し惜しみない技術移転に応じていく。

その背景には、戦争中の中国に対する贖罪の気持ちとともに将来有望な巨大市場にいち早く参入する思惑があった。

私が勤めていたテレビ局でも、毎年北京マラソンの中継をするために日本から中継車を運び込み、そのまま中国側に寄贈してくるという大盤振る舞いを続けていたのを思い出す。

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鄧小平体制の下、中国では民主化も大いに進んでいるように見えた。

これで中国も普通の国になる、世界がそう思い始めていた頃、事件は突然起きた。

1989年6月、民主化のシンボル的存在だった胡耀邦総書記の死去にともない天安門広場で始まった大規模な民主化運動は、軍による武力行使によって踏み潰された。

世界を震撼とさせたこの天安門事件は、鄧小平の指示によって実行された。

それまで改革開放の先頭に立ち中国社会を大きく変えた鄧小平だが、広大な国土に多様な民族が暮らす中国を率いていくためには過度な民主主義は受け入れられないと判断したのだろう。

欧米諸国は直ちに中国に対する制裁に踏み切ったが、日本政府は制裁の輪に加わらなかった。

なぜか?

天安門事件当時、誰が日本の総理だったのかと思い調べてみると、なんとあの宇野宗佑であった。

すっかり忘れていたが、よりによって天安門事件の前日に宇野が総理大臣に就任していたのだ。

前任の竹下登はリクルート事件の広がりと消費税導入によって支持を失い、有力な後継候補たちもみんなリクルート事件に関わっていて、すったもんだの末に宇野が総理に担ぎ出されたばかりだったのだ。

直後に開かれたG7サミットの席で宇野総理は「中国を孤立させてはならない」と欧米諸国と明確に一線を画した。

宇野は就任直後に女性スキャンダルがすっぱ抜かれてわずか2ヶ月あまりで退任、後任となった海部俊樹も事件翌年のサミットで早々に円借款の再開を打ち出した。

海部の背後では、竹下や中曽根から早期の制裁解除を強く求められていたとされる。

こうして日本は独自の判断により一貫して中国に対して宥和的な政策を取り続けた。

1992年には戦後初めて天皇皇后による中国訪問も実現し、天安門事件によって問題視された中国の人権問題から目を背けて、目先の利益を追うことを選択したのだ。

1997年に鄧小平が亡くなった後も中国経済のめざましい発展は続き、2010年にはついにGDPで日本を抜き、世界第2位の経済大国となる。

同時に、中国が軍事力の増強を秘密裏に進めているとの疑惑が日本を始め西側で囁かれるようになり、中国脅威論が俄に取り沙汰されるようになった。

それでも日本は中国への経済援助を続け、日本が中国向けのODAを最終的に終了したのはなんと今年の3月のことである。

この間、尖閣諸島をめぐる両国の対立が先鋭化し、習近平体制になってからのあからさまな強権ぶりにより日本人の間でも中国に対する拒否反応が急速に膨れ上がっていった。

しかし日本人が中国の脅威に気がついた頃には、経済規模だけではなく、先端技術分野や学術論文の数でも日本は中国に太刀打ちできなくなっていた。

一時は中国人による日本商品の爆買いが話題となったものの、今や中国の若者の間では中国製品を愛用する「国潮」というブームが広がっているという。

日本製品と言っても、その多くが中国で生産されているのだから無理もない。

世界中の一流企業が中国に工場を構え、長年「世界の工場」としてものづくりを支えてきた中国には、かつての日本のように世界トップクラスの製造ノウハウが蓄積し、膨大な数の熟練労働者が生み出されている。

中国なしにはもはや何も作れない構造を、日本を含む先進国自らが作り上げてしまったのだ。

おまけに、戦前の日本と違って、広大な国土を持つ中国には豊富な地下資源もある。

外国から制裁を課されても持ち堪えられるだけの自給力があり、逆にレアアースなどの輸出停止などで対抗することも可能なのだ。

もしも中国と戦争するとなれば、世界最強と言われるアメリカでさえきっと苦戦するだろう。

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鄧小平を超える絶対権力者となった習近平総書記は、来月15日から開かれる中国共産党大会で異例の三選を果たすことが確実視されている。

就任以来、「中国の夢」をキャッチフレーズにかつての中華帝国の復活を夢見る習近平の中国と私たちはどのように付き合っていけばいいのか?

プーチンが少数民族を次々に征服していったピョートル大帝のロシア帝国を手本とするように、習近平は周辺諸国から貢ぎ物を献上させるかつての冊封体制の復活を画策するのだろうか?

自らに平伏して付き従う国には寛大な心で施しを与える一方で、反抗する国は力でねじ伏せる。

中国の歴代皇帝が行ってきた力と徳による支配こそが広大な中国を一つにまとめる唯一の方法だと習近平は考えているように見えて仕方がない。

しかし絶頂の時にこそ、落とし穴が待っていることもある。

盤石に見える習近平体制だが、世界的な金融引き締めによってこの先新興国の経済が危機に瀕すれば、金看板だった一帯一路に足を掬われる可能性もある。

これまでに途上国に投資してきた巨額の債務が焦げつき、中国経済を圧迫することも考えられるだろう。

力によって反対派を抑え込んできているとはいえ、大躍進政策の失敗によって毛沢東でも一線を退かざるを得なかったように、習近平の号令で国をあげて取り組んできたゼロコロナ政策や一帯一路政策の失敗が習近平を窮地に追い込むことも考えられる。

プーチンが国内世論の関心を外に向けるためにウクライナに侵攻したように、習近平が今後ますます愛国心を煽り台湾統一を推し進めることは国内対策でもあるのだ。

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中国を繁栄に導いた鄧小平は中国が取るべき外交姿勢を、「韜光養晦(とうこうようかい)」という言葉で表したとされる。

「脳ある鷹は爪を隠す」というような意味だ。

特に天安門事件からソ連崩壊に至る危機にあたり、周囲に対して「冷静観察、穏住陣脚、沈着応付、有所作為(冷静に観察し、足場を固め、落ち着いて対処し、できることをやれ)」という決まり文句を繰り返したという。

アメリカとの関係についても死ぬまで「信頼を強め、面倒を減らし、協力を発展させ、対抗は行わない」という姿勢を貫いた。

そんな鄧小平が亡くなったのは香港返還を目前にした1997年2月。

あれから25年、中国は鄧小平が夢見たような世界の超大国となった。

もしも鄧小平が生きていたら、「もうそろそろ爪を隠さなくてもいいだろう」と言っただろうか?

それとも習近平のあからさまな野心を見て「馬鹿な奴だ」と嘆いているのだろうか?

周恩来と鄧小平という偉大なリーダーを失った中国がどんな国になっていくにせよ、日本のリーダーにはこれまでよりも冷静で懐の深い判断が求められる。

これまでは馬鹿なリーダーでもなんとかやってこれたが、これからは一手間違うと日本をとんでもないピンチに立たされることになるだろう。

国内世論に迎合して思慮なく威勢のいい言葉遊びをしている余裕はもはやないのだ。

今こそ、日本人は思慮深いリーダー、時には大きな視点に立って国内世論を抑えることのできるリーダーを見つけなければならない。

日中国交回復50年の日に、私はそんなことを考えている。

日中国交正常化

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