<吉祥寺残日録>後藤新平と東龍太郎、東京を生まれ変わらせた2人のリーダー #211214

冬になると、公園の緑は見られなくなるが、その代わりにきれいな朝焼けを拝むことが増えてくる。

今日は朝から雲が広がっていたが、それでも雲の切れ間から光の筋が伸びていた。

遠くの煙突から吐き出される白い湯気も、外気の冷え込みを感じさせる。

寒い冬は昔から嫌いだが、氷点下30度まで下がったシベリアの朝、空気まで白く凍ったように見えるあの光景はとても美しく、あれはあれで忘れがたいシーンとなっている。

明後日から岡山に帰省するので、クリニックでいつもの薬をもらってきた直後、雨が降り始めた。

予報通りの冷たい雨だ。

今日は最高気温が7度ぐらいまでしか上がらないらしい。

こんな寒い日はどこにも出かける気もなくなるもので、ビデオに撮り溜めた番組を片っ端から見る。

その中から、東京を作った2人のリーダーの話を書き残しておきたい。

映像の世紀プレミアム「東京 破壊と創造の150年」。

私の大好きなシリーズ番組だが、今回は明治以降の東京の映像を発掘して見せてくれた。

大河ドラマの主人公である渋沢栄一を軸にして東京の150年を辿っていく構成となっているが、やはり一番印象に残ったのは関東大震災で壊滅した東京を大改造した後藤新平。

今の東京を形作った最大の功労者である。

東北出身ながら「大風呂敷」とあだ名された後藤新平。

医師だった後藤は、実力者たちの目に止まり、台湾の民政長官、満鉄総裁など植民地政策で辣腕を振るったのち、明治末期から大正期の日本で様々な大臣や東京市長を歴任した。

要するに、仕事ができる人物だったのだ。

実務ができるという意味では、おそらく日本の歴史上、最も優秀なテクノクラートの一人だろうと私は考えている。

しかも後藤の前には常に大仕事が待っている、そういう運命の男でもあった。

番組の中から、後藤に関する部分を記録させていただく。

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1923年9月1日、関東大震災が発生した時、内務大臣だった後藤は震災からわずか5日目に帝都復興案を閣議に提出した。

私たちが知る危機管理能力の乏しい日本政府とは比較しようのないスピード感である。

今次の震災は、帝都を焦土となし、その惨害ゆうに忍びないものがあるといえども、理想的帝都建設のため真に絶好の機会である。この機に際しまさに一大英断をもって帝都建設の大策を確立し、その実現を期さなければならない。躊躇逡巡してこの好機を逸すれば国家永遠の悔いを遺すに至る。

後藤新平「帝都復興の議」より

後藤がこれほど素早く復興案をまとめられたのには理由がある。

震災の3年前東京市長だった後藤は、場当たり的に拡大してきた東京の大胆な都市計画に着手していた。

有能な人材を集めて各国の街づくりを研究し、大規模な測量を行って詳細な「都市計画東京地方委員会公認地図(大正10年」を作成した。

計画の事業費は当時の国家予算に匹敵する8億円。

しかし後藤の計画は「大風呂敷」と批判され着手されなかったのだが、この時の計画が震災復興の足がかりとなった。

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9月27日、後藤の案を元に帝都復興院が発足し、後藤がその総裁を兼務する。

強力なリーダーシップの下、「復旧ではなく復興」、すなわち100年後を睨んだ都市構想が練られたのだ。

柱となったのは大規模な幹線道路の整備で、当時ドイツで導入された最先端「区画整理」という手法を用いることにした。

個人の住宅を少しずつずらして土地を接収し道幅を広げるというものだが、銀座の大地主と呼ばれた伊東巳代治伯爵らの強い反対に遭う。

後藤は政府の縮小案を受け入れるとともに、事業を政府ではなく東京市が行うことで難局を乗り切った。

こうして焼失した地域の9割で区画整理が行われ、上下水道も整備された。

この時初めて、江戸時代のまま舗装もされていなかった東京の狭い道が、道幅22m以上の幹線道路52本を筆頭に、のべ720kmにわたって整備されたのだ。

火災に強いヤナギやイチョウの街路樹も植えられた。

さらに焼失した117の小学校を一気にコンクリートで再建し、隣接した場所に公園を設け子供たちが伸び伸びと育つ環境を目指した。

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さらにさらに、114の橋が再建されたが、デザインは公募で選ばれ、最も奇抜で斬新なアイデアが採用された。

震災の2年後には上野・浅草間で地下鉄の工事も始まり、この難事業を担当したのは後藤新平のかつての書生だった早川徳次である。

こうして世界でもあまり類を見ない大規模な都市改造は、後藤の強力なリーダーシップのもと、わずか7年足らずで成し遂げられ、1930年3月には帝都復興祭が催され200万人の人が喜びあった。

東京が生まれ変わるのに合わせて、サラリーマンという言葉が生まれ、街にはモダンガールが出現する。

東日本大震災後のビジョンとスピードなき復興を目の当たりにした私から見ると、後藤新平の東京大改造はまるで異国の夢物語のようである。

もう一つのリーダーは、東龍太郎。

1959年から2期8年東京都知事を務めた人物で、この人も元は医学博士だった。

東京五輪の招致に成功した直後に知事に就任したこの人の功績は、ズバリ東京の街を衛生的に生まれ変わらせたことである。

後藤新平と違い、私は東のことをまったく知らなかったが、BS1スペシャル“激変”「都知事指令!夢の島焦土作戦」によって東京がゴミが落ちていない清潔な首都に変貌した理由を初めて理解した。

東は5年後の東京五輪に向けてまず「首都美化」の目標を打ち出す。

高度成長期に入った東京ではゴミが社会問題化していて、路上へのポイ捨てや川への不法投棄も当たり前に行われていた。

当時の番組にはこんなナレーションが・・・

ニッポンの都会が世界でも指折りの汚い町であるという事実は個人の公徳心に訴えるだけで解決できるものとも思えません。

「日本の素顔 ゴミの社会学」より

そこで東都知事は、「首都美化はオリンピックの1種目」というスローガンを掲げ、職員とともに都庁前の清掃を行い「首都美化デー」の活動を広げていく。

さらに、ゴミを扱いやすいポリバケツを推奨し、ゴミの回収を強化していく。

「清掃革命」と称えられたこうした政策によって東京の美化は一気に進んだ。

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こうして回収した大量のゴミは、東京湾に浮かぶ人工島「夢の島」に運び込まれる。

この番組で初めて知ったのだが、「夢の島」の埋め立てが始まったのは戦前の1938年、世界最大級の飛行場を建設するのが目的だったそうだ。

しかし飛行場計画は実現することなく、戦後になると、「夢の島」には海水浴場などが作られ人気の観光スポットになったという。

だが首都圏を直撃したキティ台風によって海水浴場は壊滅的な被害を受け荒れ果ててしまったために、この人工島をゴミの最終処分場とすることが決まった。

東京都では9カ所のゴミ焼却場を建設する計画を立てていたが、住民からの反対を受けてほとんど進まず、仕方なく夢の島での埋め立て処分に踏み切らざるを得なかったのだ。

しかし1965年、この夢の島でハエが大量発生、南風に乗って対岸の南砂町をものすごい数のハエが襲う。

ヘリコプターで殺虫剤を何度散布してもハエを完全に駆除することができず、東はやむなく東京消防庁や自衛隊を動員してゴミの山に重油を撒いて火を放つことを決断した。

有毒ガスが発生するため現在ではとても実現できそうにない強硬手段だが、これによってハエの被害は激減し、東の東京美化は頓挫することなく進められた。

東京都はその後住民を説得してゴミ焼却場の整備を進め、1974年ついに焼却処分されるゴミの量が埋め立てを超えた。

そして現在、日本はゴミ焼却率世界一を達成しているという。

日本人はもともと清潔好きな民族だったわけではなく、東のようなリーダーの努力によって、「ゴミが落ちていない街」として外国人から称賛される清潔な東京が誕生したというわけだ。

リーダーの決断とブレない姿勢は、子孫に大きな財産を残してくれる。

今日も国会では予算委員会が開かれているが、「10万円給付」をめぐる与野党の質疑を聞いていると、「どうでもいい」と感じざるを得ない。

一括だろうが、クーポンを使おうが、そんなことは自治体に任せればいい技術的な話だ。

国会議員たるもの、コロナ後の国の形や放漫財政がもたらす将来の課題などこそ真剣に議論してもらいたい。

この先、どんな日本を目指すのか、その具体的なビジョンこそ国民に示すのが政治家の仕事である。

この国のかたち③

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