ゴールデンウィークも終わり、日本でもようやく新型コロナの扱いが「5類」に引き下げられた。
それでも日本人の多くはマスクを手放そうとせず、3年間擦り込まれたコロナウイルスの恐怖が忘れられないようだ。
人間というのは、一度頭の中で出来上がってしまった「常識」を覆すことが苦手なようである。
とりわけ、日本人や韓国人はその傾向が強く、急激な変革は時として政権の命取りともなりかねない。

新型コロナの「5類」移行を決断した岸田総理。
ゴールデンウィークのアフリカ歴訪から帰国するとすぐに、もう一つの重要な懸案である韓国へと乗り込んだ。
日韓関係の改善に強い意欲を見せる尹錫悦大統領の来日に応える形で、現役総理としては12年ぶりの訪韓に踏み切ったのだ。
尹大統領の下でなんとか日韓関係を改善したいというのが日本政府の本音だが、韓国では政権交代が起きるたびにちゃぶ台返しが起きるため、政治家の間では韓国に対する抜きがたい不信感がある。
それを押し切っての韓国訪問には、それなりの岸田総理の覚悟もあるのだろう。

尹錫悦大統領の来日から2ヶ月という短期間での岸田総理の訪韓を受け、両首脳は日韓関係改善の動きが軌道に乗ったと確認した。
それはまず喜ばしいことであり、私としても両首脳の努力を評価したいと思う。
そのうえで、韓国国内で多くの人が懸念している福島第一原発から出た汚染水の海洋放出について韓国の専門家による調査団を受け入れること、半導体のサプライチェーン構築に向けて日韓両政府が連携すること、さらに広島サミットの際に韓国人原爆犠牲者慰霊碑に両首脳が参拝することなどで合意した。
一時の日韓関係を考えれば、これだけでも画期的なことだ。

最大の懸案である歴史問題について、岸田さんなりに工夫した対応を取った。
政府としては、「1998年10月に発表された日韓共同宣言を含め歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる。この政府の立場は今後も揺るがない」と従来の見解を述べるにとどめた。
その一方で、韓国国内で批判される尹錫悦大統領をサポートするため、岸田総理の個人的見解として次のような言葉を足した。
『多くの方々が過去のつらい記憶を忘れずとも未来のために心を開いてくださったことに胸を打たれた。私自身、当時厳しい環境のもとで多数の方々が大変苦しい、悲しい思いをされたことに心が痛む思いだ。日韓間には様々な歴史や経緯があるが、困難な時期を乗り越えてきた先人たちの努力を引き継ぎ、未来に向けて尹氏をはじめ韓国側と協力していくことが私の責務だ』
韓国側を怒らせるようなゼロ回答ではなく、かといって対日強硬派を納得させるような満額回答でもない玉虫色の言葉。
慎重な岸田さんらしい観測気球のようなクセ球を投げ込んだように私は感じた。

問題は韓国の世論が岸田さんの言葉をどのように受け取るのかである。
私は韓国メディアの記事を拾い読みしてみた。
まずは聯合ニュースから。
韓国を訪問した日本の岸田文雄首相が7日に尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領と行った共同記者会見で、徴用問題について「心が痛む」と表明したのは本人の判断によるものだったもようだ。韓国大統領室の高官は8日、聯合ニュースの取材に対し、「岸田首相が尹大統領の決断にどうにか応えなければならないと考えたようだ」と述べた。
別の大統領室関係者は「岸田首相の歴史を巡る発言のトーンだけでなく、言及するかどうかも(両国が)事前に調整しなかった」と明らかにした。
韓国の趙太庸(チョ・テヨン)国家安保室長は3日、ソウルで日本の秋葉剛男国家安全保障局長と会談した席で、歴史認識を巡る岸田首相の「呼応」を求める国内世論を伝えた。尹大統領が徴用問題の解決策を発表したことに対し、岸田首相が歴史認識問題で謝罪やお詫びに直接言及する必要があるという世論だった。
だが、尹大統領は秋葉氏と会談した際、むしろ「岸田首相にあまり負担に感じないよう伝えてほしい」と述べたという。秋葉氏が「日韓関係の改善を主導した尹大統領の勇気ある決断に少しでも応える気持ちで、韓国訪問を決意した」という岸田首相のメッセージを尹大統領に伝えた後だった。
岸田首相は韓国訪問前、外交当局者に歴史認識問題について、自身に任せるよう言及したという。
韓国大統領室関係者は、具体的な事前調整がなかった状況で岸田首相が尹大統領との少人数会合で先に歴史問題を取り上げたのは想定外だったと明かした。
岸田首相は歴史認識を巡り、「歴代内閣の立場を引き継ぐという政府の立場は、今後も揺るがない」と表明し、徴用問題については「当時、厳しい環境で多数の方々が大変苦しい、悲しい思いをされたことに心が痛む思いだ」と述べた。これに対し、尹大統領は「先に真摯(しんし)な立場を示したことに感謝する」と答えた。
一部からは尹大統領が岸田首相に対し、謝罪とお詫びをより強く要求すべきだったとの指摘も出ている。大統領室関係者は「岸田首相が熟慮したと思う」とし、「今すぐ100%満足できるわけではないが、私たちが望む方向に進んでいる」と述べた。
引用:聯合ニュース
通信社らしい客観的な記事だが、全体的な印象は好意的だ。
続いて保守系の朝鮮日報の社説は・・・。
日本の岸田文雄首相が7日に来韓し、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領と会談した。今年3月に尹大統領が日本を訪れてから52日後に岸田首相が韓国にやって来ることで、両首脳が定期的に相手国を訪問する「シャトル外交」が12年ぶりに復活したことになる。
過去史問題について岸田首相は「日本の歴代内閣の立場を継承することに揺るぎはない」とした上で「(植民支配当時)困難な環境の中で多くの方々が非常につらく悲しい経験をされたことは胸が痛い」と述べた。「謝罪と反省」には言及せず強い遺憾を表明したものだが、韓国社会が望むほどのものではなかった。
このような限界にもかかわらず、尹大統領と岸田首相はシャトル外交を復活させることで、ここ1年で東アジアで最も目に見える変化を築く主役になった。尹大統領は両国関係を難しくしてきた徴用被害者問題に対し、韓国政府が賠償を行う方策を今年3月に発表し突破口を開いた。すると岸田首相は日本を訪問した尹大統領を国賓レベルで歓迎し、その後に韓国を訪問したのだ。両首脳は今月19日の広島G7(先進7カ国)サミットの際に予定されている韓米日首脳会議でも再び顔を合わせる。広島平和公園の韓国人原爆犠牲者慰霊碑も共に訪れるという。
ここ1年かけて信頼関係を積み上げてきた両首脳は、かつて韓日新時代を開いた金大中(キム・デジュン)大統領と小渕首相(いずれも当時)との関係を再現させる可能性も示している。1998年の金大中・小渕宣言は「韓日関係をより高い次元へと発展させよう」として両国関係を画期的に飛躍させるきっかけとなった。2000年の南北首脳会談、2002年の日本の小泉首相訪朝、2003年の北朝鮮核問題を巡る6者会合などはいずれも未来志向的な韓日関係があったからこそ可能だった。
最近のロシアによるウクライナ侵攻、さらには中国が周辺国に圧力を加える海洋崛起(くっき、頭角を現すこと)などもあり、韓日両国はより高い次元での協力が強く求められている。北朝鮮の核・ミサイル問題に共同で対処する必要性もこれまで以上に高まった。また両国はいずれも経済危機や人口減少などの問題を抱えている。このような状況で過去にとらわれている時間などない。尹大統領と岸田首相は韓国における反日左派と日本の嫌韓右派に振り回されず、未来に進まねばならない。それには、尹大統領が内政における負担を抱えながらも口火を切った韓日関係改善の努力に対し、岸田首相がより積極的に応える勇気と誠意を示すべきだ。
引用:朝鮮日報
尹錫悦政権に肯定的で日本に対しても比較的宥和的な保守系新聞でも岸田さんの言葉は不十分で「より積極的に応える勇気と誠意を示すべき」と論評したことは、韓国の人たちの心のうちを理解するうえで注目に値するだろう。
ましてや、対日強硬派である革新系の「ハンギョレ新聞」ともなると、その論調は一層厳しいものになる。
尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領と日本の岸田文雄首相は7日、ソウルで韓日首脳会談を開き、韓米日安保協力の強化など両国の「未来協力」を改めて強調した。関心を集めた過去の歴史問題について、岸田首相は強制動員被害者に「大変苦しい、悲しい思いをされたことに胸が痛む思いだ」としながらも、政府レベルの反省と謝罪のメッセージは表明しなかった。最小限の「誠意のしるし」として評価できるが、「コップの残り半分」を満たすには依然として足りない。
岸田首相は同日の共同記者会見で、「3月の尹大統領の訪日の際、1998年10月に発表された日韓共同宣言を含め歴史問題に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいると明確に申し上げた」と述べた。「歴代内閣の立場」には「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」という安倍談話も含まれるだけに、これを謝罪とはみなせないというのが大方の見解だ。ただし、岸田首相は、私見を前提に強制動員被害者に遺憾の意を表した。両国首脳は今月末に広島で開かれる主要7カ国首脳会議(G7サミット)を機に、韓国人原爆犠牲者慰霊碑を一緒に訪問することで合意した。一部進展はあるものの、韓国が期待した「誠意ある呼応」とは程遠い。にもかかわらず尹大統領は「(過去の歴史問題は)真摯に取り組むのが重要であって、どちらか一方に要求できる問題ではないと思う」と述べ、日本の立場を擁護した。
過去の歴史問題の代わりに両国首脳が強調したのは、経済と安保における協力だ。尹大統領は記者会見で韓米核協議グループ(NCG)の構築を盛り込んだ「ワシントン宣言」について、「日本の参加を排除しない」と述べた。韓米拡大抑止の強化をめぐる論議に日本が参加する可能性を残し、「類似同盟」レベルの軍事的密着に拍車をかけた。
両国首脳はこの日、福島原発汚染水の海洋放出に関して、韓国側の専門家の現場派遣及び視察に合意した。韓国専門家の現場視察は、汚染水問題を自主検証する機会が設けられたという面では肯定的だ。ただ、放出問題に実質的に介入できる水準ではないため、日本政府の名分づくりに利用されかねないという指摘にも留意しなければならない。
今回の韓日首脳会談は12年ぶりに日本首相が2国間会談のために訪韓し、「シャトル外交」の復元を対外的に知らせた場となった。両国首脳は「未来」を前面に押し出し、経済・安保協力を掲げたが、過去の歴史問題は歴史的不正義を正す問題であるだけに、無条件に伏せていく事案ではない。発展的な韓日関係は明確な歴史認識から始まるということを忘れてはならない。
引用:ハンギョレ新聞
岸田さんの個人的見解を最小限の「誠意のしるし」とするなど、予想したよりはマイルドだったが、基本的には日本側の明確な「反省と謝罪」を求める立場に変わりはない。
興味深かったのは岸田さんが踏襲するとした「歴代内閣の立場」の中に、『あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない』という安倍談話が含まれるため受け入れられないという指摘である。
韓国の人たちにとって、死んだ安倍さんは今もって日本軍国主義の象徴なんだなあと、安倍政権が残した負の遺産を再認識した。

とはいえ、岸田総理に対するあからさまな批判はほとんど見られず、岸田さんが放つ「いい人オーラ」がある程度韓国の人にも通じていると感じる。
個人的には、岸田さんが徴用工訴訟の原告たちと直接会って話を聞き、その痛みを労ってほしかったと思うが、それを許さぬ人たちが日本にはいる。
今でも韓国を見下して、「問題は解決済み」との木で鼻をくくった言葉の繰り返しで押し切ろうとする保守的な人たち。
そんな一部の日本人の存在が韓国の人たちの心を頑なにしている側面にも私たちは意識を向けなければならない。
昔の日本人は朝鮮半島でひどいことをした。
それは歴史の事実である。
朝鮮戦争後の混乱の中でもがいていた韓国の弱みにつけ込んで、戦後賠償の放棄と引き換えに経済支援を約束した日韓請求権協定を盾に明治以来の悪行についてすべて「解決済み」とするのはおかしいと感じるのは普通の市民感情だと私は思う。
国家間の賠償問題とは別に、日本のリーダーが過去の行為を反省し謝罪することに何の問題があるのか。
むしろ戦後のリーダーたちが積極的にお詫びをしていれば、今になってまだ歴史問題で両国関係がこじれることも防げたに違いない。
韓国側が歴史を利用して反日世論を作っているのも事実だが、問題はやはり日本側にこそあるということをまずは直視すべきだろう。

「過去の歴史が完全に整理されていないからといって懸案と未来協力のために一歩も踏み出すことができないという認識からは脱しなければならない」
尹錫悦大統領は、記者会見でこのように述べた。
韓国国内での「常識」を打ち破るこうしたリーダーの言葉がなければ事態は打開できない。
岸田総理にも、日本国内だけに定着している「常識」をぶち壊すような勇気ある発言と行動を期待したいと私は願っている。
日本人と韓国人が抱いている「常識」が全く異なっていることこそ、最大の日韓問題なのである。
韓国側に一方的に妥協を求めるのではなく、日本人にも自らの常識を問い直して「譲る勇気」が必要なのだ。
<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館⑧ 司馬遼太郎著「街道をゆく〜韓のくに紀行(司馬遼太郎全集47)」(1984年/日本/文藝春秋) #210116