<吉祥寺残日録>安倍元総理暗殺の翌日、私は五・一五事件で殺害された犬養毅元総理の記念館を訪ねた #220710

安倍元総理の射殺事件のその後について書いておきたい。

その余波は日本国内はもちろん、世界中に広がった。

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アメリカのバイデン大統領はワシントンの日本大使館へ献花に訪れ、岸田総理にも弔意を示す電話をかけてきた。

トランプ前大統領やオバマ元大統領も安倍さんの功績を絶賛し、さらにはホワイトハウスの屋上に半旗が掲げられたことも日本の政治家の死としては異例であり、事件の衝撃の大きさを物語っている。

アメリカメディアも安倍さんの「暗殺」を大々的に伝え、タイム誌の最新号はスーツ姿の安倍さんを表紙に据え特集記事を掲載するそうだ。

そのほか、インドのモディ首相は9日全土で喪に服すと発表し、イギリスのエリザベス女王も天皇宛てに異例の弔意を伝えてきたという。

国連の安全保障委員会でも冒頭に黙祷が捧げられるなど、世界中から安倍さんの功績を讃え事件を非難する反応が届けられた。

最も興味深かったのは、東アジアでの反応である。

台湾では、一貫して台湾に好意的だった安倍さんの死を悼み、台湾で最も高いビル「台北101」に感謝を示すメッセージが表示され、蔡英文総統も「国際社会が重要なリーダーを失い、台湾も重要な親友を失った」とその突然の死を悼んだ。

一方、緊張関係が続く中国でも国営メディアが事件直後から安倍さんニュースを詳報し、ネット上でも高い関心を集めた。

そして習近平国家主席が岸田総理に弔電を送り、「安倍元総理は在任中、中日関係の改善に努め有益な貢献をした。新時代にふさわしい両国関係の構築について重要な共通認識に達した」と評価したとされる。

このような悲惨な死を遂げたリーダーを称賛することは世界的なマナーだとしても、対立する台湾と中国の双方から評価される安倍さんは、日本の政治家としては傑出した存在だったことを改めて印象づけた格好だ。

安倍元総理の遺体は、事件翌日妻の昭恵さんが付き添う形で、車列を組んで奈良から東京の自宅へと運ばれた。

それに先立つ検死の結果、犯人が放った銃弾は安倍さんの首と左上腕に当たり、左上腕部から入った弾が左右鎖骨の下にある動脈を損傷したのが致命傷だったことがわかった。

失血死だった。

遺体が代々木の自宅に到着すると、岸田総理や森、小泉元総理ら政財界の大物が次々に弔問に詰めかけて静かな住宅街は騒然となった。

一方、安倍元総理を狙撃した山上容疑者。

犯行の理由を次のように語っているという。

「特定の宗教団体に恨みがあり、安倍元総理がこの団体と近しい関係にあると思い狙った」

「母親が団体にのめり込み、多額の寄付をするなどして家庭生活がめちゃくちゃになった」

「もともとはこの宗教団体の幹部を殺害しようとしたが、できなかったので、元総理を銃で撃つことにした」

この「特定の宗教団体」がどこなのかまだ明らかになっていないが「統一教会」の名前が取り沙汰されている。

いずれにせよ、容疑者が供述していた通り政治的な動機によるテロではなく、私怨に基づく独りよがりの犯行という線が濃厚になりつつあるようだ。

そして山上容疑者は、奈良県での犯行前日、安倍さんが遊説を行なった「岡山にも行った」と供述しているという。

岡山の演説会場は路上ではなくクローズドな場所だったため犯行を断念したものとみられるが、容疑者が安倍さんをターゲットに定めチャンスを窺っていたことが次第に明らかになってきた。

事件の現場となった近鉄大和西大寺駅前にはこの週末長蛇の列ができ、大勢の市民が安倍さんの死を悼んで献花台に花をたむけていた。

こうしたショッキングな事件が起きると、安倍さんを英雄視するムードが急速に高まり、社会全体を非日常的な空気が覆うのを感じる。

そうした空気の中、犯行を防げなかった警備体制の不備を問う声が高まってきた。

警察に対する社会の批判を受けて、奈良県警の本部長は「警護、警備に関する問題があったことは否定できない」と不備があったことを認めた。

おそらく、この警備に関わった警察官たちのキャリアに大きな傷がつくことは間違いない。

「私自身も平成7年に警察官を拝命し、二十七年余の警察官人生での最大の悔恨、痛恨の極み。今回の事態が生じてしまったことに対する責任の重さを痛感している」という本部長の言葉に、警察組織内からだけでなく政界や世論から追い詰められる奈良県警の苦しい立場が透けて見えるようだ。

戦前の日本でも、ショッキングな事件が起きるたびに市民の間に正義感、高揚感、愛国心のようなものが高まり、批判する者たちを排除攻撃するようなムードができあがっていった。

同じ過ちを繰り返さないためにも、こういう時だからこそ、過去の歴史を学ぶべきだと強く感じる。

安倍元総理が凶弾に倒れた翌日、私は以前から訪れたかった犬養毅の生家を訪ねてみた。

犬養毅といえば、昭和7年に起きた五・一五事件の時、海軍青年将校らによって首相官邸で射殺され「話せばわかる」という有名な言葉を残した総理大臣である。

彼の生家は、岡山市街地から車で20分ほど走った川入という集落にあり、田んぼに囲まれたのどかな場所であった。

幹線道路沿いにある駐車場に車を止め、昔ながらの小道を歩いていくと、大きなクスノキが立っていた。

明治23年、36歳で衆議院議員に初当選した時に記念で植えたクスノキだという。

初当選以来、犬養は19期連続で議席を守り、藩閥政治に対抗し政党政治の確立を目指す憲政擁護運動の先頭に立った。

門を入ると犬養毅が生まれた生家がある。

案内板にはこう書かれていた。

『犬養毅(木堂)は、安政2年(1855)この地に生まれた。犬養家は、代々庄屋や藩の要職を勤めた農家で、この生家は江戸時代前期い建てられたものである。この地方の近世民家の代表的なものとして価値が高く、国の重要文化財に指定されている。老朽化がはなはだしかったため、昭和54年解体復元したものである。』

生家の中は、土間から板の間、さらに畳の和室へと続く典型的な農家の作りながら、大庄屋の家だけあってしっかりとした作りになっている。

特にお座敷は立派で、武家の家のように床の間の脇に出窓にあたる付書院が設けてあった。

床の間にかけられた掛け軸は、犬養毅直筆の漢詩だった。

犬養の父親は教育熱心で、幼い頃から四書五経の手解きを受けた毅は、政界有数の教養と書道の腕の持ち主として生涯多くの書を残した。

座敷の障子を開けると、広々とした縁側があった。

犬養毅も故郷に戻った時にはここに座り庭を眺めたのだろうか。

雨のことや虫のこともあるので、うちの古民家の縁側にはサッシがはまっているが、本当はこのように自然と一体となっているのが本来の日本家屋なのだろう。

この生家の裏手、小川を隔てた隣地に「犬養木堂記念館」が建っていた。

岡山県出身の初の総理大臣・犬養毅の波乱に満ちた人生を伝えるなかなか立派な施設である。

入場無料というのもありがたい。

入り口には、犬養毅の等身大イラストパネルが置かれていた。

身長150センチ、とても小さな男だったことがわかる。

ロビーには安倍元総理射殺事件を伝える新聞が置かれていた。

この日の朝刊は全紙、一面の大見出しが「安倍元総理撃たれ死亡」と全く同じものが並び、それが話題にもなった。

私はこの事件の連想から同じく凶弾に倒れた犬養毅の生家を訪ねてみようと思い立ったのだが、私のような人間は珍しいようで、土曜だというのに私以外この施設を訪れる人はいなかった。

私がロビーに入ると、犬養毅の人生をまとめたDVDを再生してくれた。

犬養家の先祖は、ヤマトの国から吉備に派遣された吉備津彦命の従者としてこの地にやってきて以来、岡山を代表する吉備津神社を守る役職を担ってきたという。

吉備津彦命は桃太郎伝説の元になったとされる人物であり、そうであれば犬養家は家来の犬ということになるのだろう。

さて、DVDで犬養毅の人生を確認したうえで、展示室に移動する。

彼の人生を時系列で表示したパネルとゆかりの品々、そして犬養毅が書き残した書の数々が展示されている。

幼い頃から四書五経を嗜むが若くして父を亡くし、親戚の援助を受けて20歳で東京に出た犬養毅は、新聞記者の仕事をしながら、憧れの慶應義塾に入学し福澤諭吉の指導を受ける。

自由民権、普通選挙、政党政治、大アジア主義といった彼の主張はこの時代に育まれたようだ。

明治10年に起きた西南戦争では、犬養は「郵便報知新聞」の従軍記者として戦地に赴き、「戦地直報」というルポを多数手がけたという。

明治16年には統計院に務めた縁で大隈重信の立憲改進党に入党、明治23年の第1回総選挙で衆議院議員に初当選する。

以来19回連続当選、42年間国会議員として薩長中心の藩閥政治と戦った犬養毅は、大正時代に入ると第一次護憲運動を主導して尾崎行雄と共に「憲政の神様」と呼ばれ絶大な人気を博した。

『木堂の演説は学問の素養と、自由民権・憲政擁護・反藩閥の信念のもとに、問題の本質を簡潔に、しかも鋭く追及する独特のものであった。政府側の最大の強敵でありながら、木堂が登壇すると与野党共に静聴し、政界はもとより広く世間から弁論の雄と讃えられた。』

大正時代、犬養毅に心酔する人々によって国の内外に「木堂会」が結成されるが、活動資金を集める才には長けていなかったようで、彼が率いる政党は常に多数派とはなれなかった。

一方、犬養毅の大局観は、当時日本に亡命していたアジアの革命家たちを熱心に支援したことにも表れている。

当時の日本政府は清朝との関係を重視していたが、犬養は亡命中の孫文を支援、この記念館にも孫文から送られた手紙などが残されていた。

『世界的な視野を持つ木堂は、将来日本の進む道は軍事大国化ではなく、産業立国と善隣友好にあると強く提唱していた。そして、アジア、特に日中関係を最も重要な課題として、当時、軍事的政治的に緊張関係にあった両国の関係改善に力を尽くした。

度々の革命運動で母国を逃れた孫文らを援助して、辛亥革命の成功、中華民国の建国を助けた。また、中国人留学生らの教育に大同学院を開設、日中学生のために東亜同文会を設立した他、志を抱く諸国の人々を、対等の立場と思いやりの心で支援し、中国のみならず朝鮮、フィリピン、インドそのほかアジアの人々から慕われ、信頼されていた。』

犬養が生きたのは、列強による植民地支配から抜け出すためにアジアの若者たちが活動を活発化させていた時代であり、列強の仲間入りを目指して富国強兵を押し進めた藩閥政府に対しアジア諸国の独立を支援した犬養の思想は当時としては異色だったのだと感じる。

大正14年、犬養が率いる革新倶楽部が政友会などとの合同、普通選挙も実現されたのを機に潔く政界を引退し、信州で悠々自適の生活に入る。

この時期に撮影された犬養の写真は実に自然体で、私が目標とする理想の姿に見えた。

しかし政界は彼に静かな余生を許してくれなかった。

熱望されて政友会の総裁に就任すると、昭和6年満州事変の混乱が続く中で総理大臣に指名されることになる。

この時すでに76歳。

総理に就任した犬養は中国の人脈を使って満州事変の収拾を模索したが、政府内の妨害工作によって失敗する。

そして翌年5月、ロンドン軍縮条約に反対する海軍青年将校たちによるクーデターに遭遇、犬養首相は総理官邸で射殺された。

『事件当日は日曜日でした。木堂は、政務から離れて首相官邸で過ごしていましたが、午後5時半頃に海軍青年将校らが2班に分かれて侵入してきました。官邸の廊下で彼らの一班と遭遇した木堂は、客間に導いて話を聞こうとしますが、後から合流した将校の号令により、頭部に銃弾を受けました。撃たれた直後、まだ意識があった木堂は、駆けつけたお手伝いに「話して聞かせる」「彼らを呼んでくるように」と言ったといいます。これが後に「話せばわかる」の言葉になりました』

その時、犬養が使っていた血染めの座布団が記念館に展示されていた。

野党時代、犬養は「統帥権干犯」という論理を編み出して軍縮条約反対の論陣を張ったが、その犬養が海軍の手で殺されたというのはなんとも皮肉な巡り合わせである。

いわゆる「五・一五事件」によって犬養内閣は倒され、後任には海軍大将の斎藤実が就任する。

これによって、大正末期から続いた政党政治の時代は終わり日本は急速に戦争に向かって突き進んでいくことになる。

40年を超える長い政治人生の中には「統帥権干犯」のように後世に悪影響を与えた行動もあっただろうが、私から見て犬養毅は私利私欲に囚われないとても魅力的な政治家だと感じた。

孫文を支え中国との友好に情熱を燃やした犬養が満州事変の泥沼に巻き込まれ、海軍のために論陣を張った当事者がたまたま総理になったために青年将校に命を奪われる。

人間の運命というものはその人の思想信条だけでなくその時の立場、巡り合わせのようなもので思わぬ結末を迎えることになる。

安倍元総理の場合も、まさか宗教団体との関係が原因で命を狙われようとは思いもかけなかっただろう。

記念館に展示された犬養毅の書の中に彼の絶筆の一つとされる色紙があった。

『山林自ずから不朽の業有り 古今多く無し独行人 木堂』

犬養が亡くなった首相官邸の部屋の隣室で書かれたものとされ、その意味が添えられていた。

『山林はもとから非常にすぐれていて、永遠に滅びない業がある。昔から今までに、自分の考え通りに行う孤高な人は多くない』

若い日から追い求めた自分の理想とは大きく異なる日中の戦争という事態を前に、ままならぬ晩年の心境がよく表れた漢詩だと思う。

安倍さんも、自分が目指した「美しい国」と今の日本を比べて何を感じていたのだろうか?

<吉祥寺残日録>【百年前⏩1932.5.15】五・一五事件で殺された「憲政の神様」犬養毅の生き様 #210516

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