ウクライナで戦争は東部での攻防に焦点が移り、ロシア軍も今月中になんとか「勝利」を宣言できるような戦果をあげようと焦り始めているように見える。

こうした中、岸田総理は昨夜、ロシアに対する新たな制裁を発表した。
ポイントはロシア産石炭の段階的輸入禁止に踏み込み、初めてエネルギー分野に言及したことと、ロシアの外交官に追放を決めたことだ。

首都キーウ近郊のブチャなどで市民の虐殺が明らかとなり欧米で一気に制裁のレベルが上がったことに追従するためだ。
一貫してエネルギー価格の上昇につながる制裁には逃げ腰だった日本政府も、G7諸国と足並みを揃えるという大方針を優先せざるを得なくなったということで、国内のみならず国際世論も慎重に見極めながら一歩遅れて政策を微妙に変えていく岸田さんらしい対応の仕方だ。
ある意味で、昔からの日本の外交姿勢と言ってしまえばそれまでだが、自ら率先して戦争に反対していくという哲学や気概はやはり感じられない。
戦後の日本が、曲がりなりにも平和を維持し、軍隊に頼らない平和国家として歩んできたのは、戦前の苦い反省があったためだ。
しかし、直接戦争体験を持つ政治家はいなくなり、何がなんでも平和を守り抜くという強固な意志を持つ日本人はほとんどいなくなってしまったように感じる。
直接の戦争体験を持った世代がいなくなるということは決して恥じることではなく、むしろ世界に誇るべき戦後日本の勲章だ。
だが、戦争の辛苦が骨身に染みた世代と違って、私たちは自らの意思で過去の戦争について学ばなければ教訓を得ることはできない。
そこで今日は、ちょうど北京オリンピックが開催されていた頃に、私が読んでいた本の話を書いておきたい。
去年亡くなった「歴史探偵」こと半藤一利さんの名著「昭和史」。
以前から一度読みたいと思っていた本が図書館にあったので、特別な意識もなく借りてきたものだ。
ところが、この本を読んでいる間にウクライナ情勢が俄に緊迫してきた。
90年ほど前の世界情勢と今が、シンクロしているように感じながら半藤さんのわかりやすい言葉を書き写していった。
「日本がなぜ戦争に突き進んでいったのか?」
これは隠居生活に入った私の中核をなす学習テーマだ。
だから、それなりに信頼に足ると思った記述を書き留めるようにしている。
半藤さんの「昭和史」は、出来事を細かく記録した歴史書ではない。
敗戦に至る歴史を概観しながら、どこに問題があったのか、どこで道を誤ったのか、誰がその間違った判断を下したのか、間違った原因はどこにあったのか、そういうことを半藤さんの眼鏡を通して指摘していった本なのだ。
だから、とても読みやすく、いろんな気づきを与えてくれる。
もちろん、歴史とはそれほど単純なものではなく、様々な人たちの様々な思惑や感情が絡み合って出来上がっているので、ちょっと視点を変えると全く別の読み方もできるわけで、これはあくまで「歴史探偵」を自称した半藤さんの歴史解釈だ。
でも、日本がなぜ戦争の道を突き進んだのかとの疑問には、しっかりとした答えを与えてくれる。
半藤さんは、「はじめの章」のタイトルをこのように付けている。
『昭和史の根底には“赤い夕陽の満州”があった』
そう、太平洋戦争の敗戦に至る15年間の戦争の根底には、ずっと満州という異国の大地があった。
明治維新により列強の仲間入りを目指した日本が、日清・日露戦争での多くの犠牲を出して獲得した満州での権益。
日本とは全く違った満州の大地を目にした日本人は、様々な国内問題の解決をこの土地に託した。
仮想敵国ソ連に対する防衛の最前線であると同時に、国内で必要な資源の確保や食い詰めた農民を受け入れる新天地。
この土地こそが、世界恐慌後の不景気に喘ぐ日本社会を救う救世主だと考えた。
だから謀略によって軍事侵略しこの土地に傀儡国家を作った。
一度手に入れてしまうと、いつの間にかそれを守ることが日本の至上命題となり、満州を守るためには華北も占領したくなり、さらに中国との全面戦争、それを打開するため石油を求めて東南アジアへと進出し、結果的にそれが米英との対立に発展、最後には日本の命取りとなったのだ。
それでは、半藤さんが「昭和史」の中で力点を置いて指摘している重要な転換点を列挙していく。
まず最初の大きな分岐点として指摘するのが、1928年6月に起きた「張作霖爆殺事件」である。
満州を支配していた大軍閥・張作霖を関東軍が爆殺した事件であり、これが1931年に起きる満州事変へと繋がっていく。
半藤さんはこの事件の処理をめぐり、昭和天皇が当時の田中義一首相を強く叱責し辞任させたことが一つの分岐点となったと指摘する。
いずれにしろ昭和天皇は、結論として、
「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」
つまり張作霖爆殺事件、田中内閣総辞職があって以来、内閣が一致して言ってくることに対しては、自分は違う意見であっても常によろしいと認めることにした、というわけです。この独白録は戦後に昔のことを思い出して語った記録ですが、証拠はないものの、天皇は「今後は余計なことは言ってはなりません、それは憲法違反になりますから」と、元老の西園寺さんにかなりきつくいわれたのではないでしょうか。
先に述べた西園寺さんの豹変は陸軍の強硬派にかなり脅されたためと考えられますが、「立憲君主制においては、国務(政治)と統帥(軍)の各最上位者が完全な意見の一致をもって上奏してきた事は、仮に君主自身、内心においては不賛成なりとも、君主はこれに裁可を与うるを憲法の常道なりと確信する」、と西園寺さんは言います。つまり日本のような立憲君主国では、政治及び外交、軍事問題はいずれもそれぞれの責任ある人たち、つまり内閣、軍部の大臣らが、完全な意見の一致をもって報告に来たことは、天皇陛下は仮に不賛成であったとしても許可するのが憲法の常道なのだと確信している、というのです。
天皇はこれを受けて、自分の意見を言ったばかりに内閣がひっくり返り、しかも総理大臣がすぐに亡くなるという事態となってある種の混乱をもたらした、そういうことを天皇自らの指図でやってはいけない、これからは閣議決定を重んじ、内閣の上奏に拒否しないことを今後の大方針にすると、忠告もあってそう決めたのです。
昭和史スタートのこの事件の意味は、事件そのものの大きさというより、ここにあるのです。昭和天皇が以後、内閣や軍部が一致して決めたことにノーを言わない、余計な発言をしないという立場を守り抜く、つまり「君臨すれども統治せず」、これが立憲君主国の君主のあり方だと自ら考えた。昭和史は常にここから始まり、これがのちに日本があらぬ方向へ動き出す結果をもたらすのです。
半藤一利「昭和史」より
もう一つ、半藤さんが非常に重要な分岐点だと考えているのが「統帥権干犯」という言葉の登場だ。
戦前、節目節目で登場し、軍部への反対意見を封殺するのに使われた「統帥権干犯」という言葉は、1930年のロンドン軍縮会議の後で語られ始める。
海軍の内部で、米英の協調を重視する「条約派」と独自の軍備増強を主張する「艦隊派」が対立し、軍縮条約の合意内容を批判する立場の人たちが天皇の「統帥権」を犯しているとして騒いだのだ。
半藤さんはこう指摘する。
陸軍が張作霖爆殺事件で昭和4年に「沈黙の天皇」を作り上げ、昭和をあらぬ方向へ動かしてゆくのと同時に、海軍も翌年のロンドン軍縮会議による統帥権干犯問題をきっかけに、まことに不思議なくらい頑なな、強い海軍が出来上がっていく。つまり昭和初めのこれら二つの事件によって、昭和がどういうふうに動いていくか、その方向が決まってしまったとも言えるのではないでしょうか。
統帥権干犯ということについては、それまで誰も考えていなかったのです。軍備は誰がやるのか、陸軍なら参謀本部か陸軍省か、海軍なら軍令部か海軍省か、それは昔から何度もあった話ですが、両方の話し合いでその都度、対応してきましたから、問題になることはなかった。それが突然、統帥権が持ち出されて、「統帥権干犯」という言葉が表に出てきました。この統帥権干犯という言葉はのちのちまで影響します。軍の問題は全て統帥権に関する問題であり、首相であろうと誰であろうと他の者は一切口出しできない、口出しすれば干犯になる、という考え方がこの時に確立してしまいます。
ではこの“魔法の杖”を考え出したのは誰か。この概念で政治を動かせると思いついたのは、北一輝だと言われています。この半分宗教家ともいえる天才哲学者が統帥権干犯問題を考えつき、犬養さんや鳩山さんら野党に教え込んだ、それにまた海軍の強硬派が飛びついた。そこで妙な大喧嘩が始まった。しかも、国際的な条約が結ばれた後で、それが暴発して日本を揺すぶったのです。考えてみると、誠に理不尽な話でした。そして多くの優秀な海軍軍人が現役を去っていきました。
この辺が、昭和史のスタートの、どうしようもない不運なところなんです。この奇態な状況を踏まえて、ウォール街の暴落による不況時代を日本はいかにして乗り切るか、それが翌年の満州事変へと繋がっていくのです。
半藤一利「昭和史」より
こうした陸軍、海軍を舞台にした事件が続いた後で発生したのが1931年9月の「満州事変」である。
半藤さんは「昭和がダメになったスタートの満州事変」とのタイトルをつけて、その問題点を指摘する。
もちろん、石原莞爾や板垣征四郎といった関東軍参謀の暴走にはもちろん大きな問題があったが、半藤さんがむしろ指摘するのは、日本国民もマスコミもこぞって関東軍の行動を礼賛し、その結果、暴走した首謀者たちが論功行賞で出世してしまう「勝てば官軍」のおかしな事後処理の問題だ。
これこそが昭和をダメにしたと半藤さんはいうのだ。
23日の朝刊は「朝鮮軍の満州出動」と大々的に報じました。「閣議で事後承認」、これは正しいですね。また「軍と政府がぎくしゃくしている印象を内外に与えるのは大変良くない、政府が勇断に欠けているがごとき印象を与える結果となったのはもっと愚である」とまで書き、軍部の後押しをしました。この時から大衆が軍を応援し始め、強気一方になって「既得権擁護」「新満蒙の建設」といった新スローガンも生まれ、一瀉千里に満蒙領有計画が推進されていくのです。
事変後、1週間も経たないうちに、日本全国の各神社には必勝祈願の参拝者がどんどん押し寄せ、憂国の志士や国士から血書血判の手紙が、陸軍大臣の机の上に山のように積まれたというんですね。南陸相は「日本国民の意気はいまだ衰えぬ、誠に頼もしいものがある。この全国民の応援があればこそ、満州の曠野で戦う軍人がよくその本分を果たしうるのである」と喜色満面に新聞記者に語ったほどです。これが事変直前に天皇にきつく叱られ、青菜に塩でフニャフニャになった人の言葉なんです。
こうして「この全国民の応援」を軍部が受けるようになるまで、繰り返しますが、新聞の果たした役割はあまりにも大きかった。世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日の大新聞を先頭に、マスコミは競って世論の先取りに狂奔し、かつ熱心極まりなかったんです。そして満洲国独立案、関東軍の猛進撃、国連の抗議などと新生面が開かれるたびに、新聞は軍部の動きを全面的にバックアップしていき、民衆はそれらに煽られてまたたく間に好戦的になっていく。それは雑誌「改造」(昭和6年11月号)で評論家の阿部慎吾が説くように、「各紙とも軍部側の純然たる宣伝機関と化したと言っても大過なかろう」という情況であったんです。マスコミと一体化した国民的熱狂というものがどんなにか恐ろしいものであることか、ということなんです。
そして昭和7年3月には満洲国が建設され、9月8日に本庄軍司令官以下、三宅参謀長、板垣高級参謀、石原作戦参謀らが東京に帰ってくると、万歳万歳の出迎えを受け、宮中から差し回しの馬車に乗り、天皇陛下にこれまでの戦況報告をします。黙って聞いていた天皇は尋ねます。「聞いたところによれば、一部の者の謀略との噂もあるが、そのような事実はあるのか」。これに対して本庄は「後でそのようなことを私も聞きましたが、関東軍は断じて謀略などやっておりません」と抜け抜けと答えました。天皇は「そうか、それならよかった」と言ったようです。後で聞いた石原莞爾は「ずいぶんいろいろなことを天皇の耳に入れる奴がいるな」とつぶやいたという話もあります。つまり“君側の奸”どもは許せん、というわけです。
すでに申しましたように、この人たちは本来、大元帥命令なくして戦争を始めた重罪人で、陸軍刑法に従えば死刑のはずなんです。それどころか本庄軍司令官は侍従武官長として天皇の側近となり、男爵となる。石原莞爾は連隊長として一旦外に出ますが、まもなく参謀本部作戦部長となり、論功行賞でむしろ出世の道を歩みました。字義どおり、「勝てば官軍」というわけです。
昭和がダメになったのは、この瞬間だというのが、私の思いであります。
半藤一利「昭和史」より
その後も、五・一五事件や二・二六事件などの相次ぐテロ、近衛文麿や松岡洋右らによる多くの間違った判断など、幾つもの分岐点があったが、日本は立ち止まったり方向転換をしたりするチャンスを自ら捨てて、敗戦への道を突き進んでしまう。
この昭和の戦争から何を教訓として学ぶべきなのか?
半藤一利さんは「むすびの章 三百十万の死者が語りかけてくれるものは?」というタイトルをつけて、昭和史20年の教訓をいくつか書き残している。
それを引用させていただきつつ、時々読み返しては今の世界を見つめる指針としたいと思う。
よく「歴史に学べ」と言われます。確かに、きちんと読めば、歴史は将来にたいへん大きな教訓を投げかけてくれます。反省の材料を提供してくれるし、あるいは日本人の精神構造の欠点もまたしっかりと示してくれます。同じような過ちを繰り返させまいということが学べるわけです。ただしそれは、私たちが「それを正しく、きちんと学べば」、という条件のもとです。その意志がなければ、歴史はほとんど何も語ってくれません。
では、昭和史の20年がどういう教訓を私たちに示してくれたかを少しお話ししてみます。
第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。ひとことで言えば、時の勢いに駆り立てられてはいけないということです。熱狂というのは理性的なものではなく、感情的な産物ですが、昭和史前提をみてきますと、なんと日本人は熱狂したことか。マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威をもちはじめ、不動のもののように人びとを引っ張ってゆき、流してきました。結果的には海軍大将米内光政が言ったように“魔性の歴史”であった、そういうふうになってしまった。それは我々日本人が熱狂したからだと思います。
対米戦争を導くと分かっていながら、なんとなしに三国同盟を結んでしまった事実をお話ししました。良識ある海軍軍人はほとんど反対だったと思います。それがあっという間に、あっさりと賛成に変わってしまったのは、まさに時の勢いだったのですね。理性的に考えれば反対でも、国内情勢が許さないという妙な考え方に流されたのです。また、純軍事的に検討すれば対米英戦争など勝つはずのない戦争を起こしてはならない、勝利の確信などまったくないと分かっていたのですから、あくまでも反対せねばならなかったし、それが当然であったのに、このまま意地を張ると国内戦争が起こってしまうのではないか、などの妙な考えが軍の上層部を動かしていました。昭和天皇が『独白録』の中で、「私が最後までノーと言ったならばたぶん幽閉されるか、殺されるかもしれなかった」という意味のことを語っていますが、これもまた時の流れであり、つまりそういう国民的熱狂の中で、天皇自身もそう考えざるをえない雰囲気を感じていたのです。
二番目は、最大の危機において日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないということです。自分にとって望ましい目標をまず設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。ソ連が満州に攻め込んでくることが目に見えていたにもかかわらず、攻め込まれたくない、今こられると困る、と思うことがだんだん「いや、攻めてこない」「大丈夫、ソ連は最後まで中立を守ってくれる」というふうな思い込みになるのです。情勢をきちんと見れば、ソ連が国境線に兵力を集中し、さらにシベリア鉄道を使ってどんどん兵力を送り込んできていることはわかったはずです。なのに、攻めてこられると困るから来ないのだ、と自分の望ましい方に考えを持って行って動くのです。
昭和16年11月15日、大本営政府連絡会議は、戦争となった場合の見通しについて討議しました。ここで決定された戦争終結の腹案は、要するにドイツがヨーロッパで勝つ、そうすればアメリカが戦争を続けていく意志を失う、だから必ずや栄光ある講和に導ける、というまったく他人のふんどしで相撲を取るといいますか、夜郎自大的な判断を骨子にしたことでした。同時にこの時、アメリカに対する宣伝謀略を強化するという日本流の策も決めるのですが、それはまず「アメリカ海軍主力を日本近海へ誘致するようにする」、これは日露戦争の日本海海戦を夢見ているんですね。アメリカ海軍がきちんと自分たちの希望する道を通って日本近海に来てくれる、その時は迎え撃って撃滅してみせる、というのです。そして「アメリカのアジア政策の反省を促して日本と戦うことの無意義をアメリカに説く」、勝手にそんなことを決めてもアメリカはきいてくれるはずはない。ですが、日本は真剣にそう考えたのです。そうできると夢見たのです。
三番目に、日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害があるかと思います。陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力を持ち、その他の部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めないのです。軍令部でも作戦課がそうでした。つまり昭和史を引っ張ってきた中心である参謀本部と軍令部は、まさにその小集団エリート主義の弊害をそのままそっくり出したと思います。
そして四番目に、ポツダム宣言の受諾が意思の表明でしかなく、終戦はきちんと降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際的常識を、日本人はまったく理解していなかったこと。簡単に言えば、国際社会の中の日本の位置づけを客観的に把握していなかった、これまた常に主観的思考による独善に陥っていたのです。
さらに五番目として、何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想です。これが昭和史の中で次から次へと展開されたと思います。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない、複眼的な考え方がほとんど不在であったというのが、昭和史を通しての日本人の在り方でした。
と、いろいろ利口そうなことを言いましたが、昭和史全体を見てきて結論としてひとことで言えば、政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人びとは、なんと根拠なき自己過信に陥っていたことか、ということでしょうか。こんなことを言っても喧嘩過ぎての棒ちぎれ、仕方ない話なのですが、あらゆることを見れば見るほど、なんとどこにも根拠がないのに「大丈夫、勝てる」だの「大丈夫、アメリカは合意する」だのということを繰り返してきました。そして、その結果まずくいった時の底知れぬ無責任です。今日の日本人にも同じことが多く見られて、別に昭和史、戦前史というだけでなく、現代の教訓でもあるようですが。
そういうふうに見れくれば、昭和の歴史というのはなんと多くの教訓を私たちに与えてくれるかがわかるのですが、先にも申しました通り、しっかりと見なければ見えない、歴史は決して学ばなければ教えてくれない、ということであると思います。
半藤一利「昭和史」より

今回のロシアの戦争は、日本が行った過去の戦争と異なる点も多い。
プーチンという絶対的なリーダーがいて、彼が全てを決定していることが最大の違いだ。
その意味では、ナチスドイツ型の戦争だと言える。
しかしプーチンはヒトラーよりもずる賢く、総力戦を戦うつもりは毛頭ない。
ウクライナ東部である程度勢力を拡大すれば、「当初の目的は達せられた」と一方的に勝利宣言を行い軍を撤収するだろう。
ロシア国内での徹底した情報統制により、西側が期待したような反プーチンの動きは広がっていない。
日本を含む西側の国々が自らのダメージを我慢してどこまで経済制裁を続けることができるのか、本気でプーチン政権にダメージを与えられるかどうかは、そこが焦点である。
今回のウクライナ危機で、日本は完全にロシアの「非友好国」となった。
今後、北方領土を舞台に、日本にとって好ましくない動きが活発化するだろう。
中国、北朝鮮の脅威にばかり目を奪われていると、明治以来の日本最大の敵ロシアの脅威が顕在化してくる可能性が高い。

「いや、攻めてこない」「大丈夫、ソ連は最後まで中立を守ってくれる」
戦前の日本人が抱いた幻想はきっぱりと捨てた方がいい。
ただし、無用に危機感を煽って相手を刺激することは避けるべきだろう。
ウクライナへの軍事侵攻には毅然と反対しつつも、冷静に抑止力を整えていくこと。
それは単に軍事的な抑止力ではなく、国際社会との連携、さらには対立する国のことを深く理解し、なんとか相互理解の努力を続けていくことである。