<吉祥寺残日録>吉祥寺に「まん延防止措置」が発令された日、石川啄木の日記を読む #210413

昨日、全国一斉に高齢者に対するワクチン接種が始まった。

とはいえ、供給されるワクチンの量はごくわずかで、東京都では高齢者の人口が多い世田谷区と八王子市の65歳以上の高齢者に対する優先接種という形がとられた。

初回供給分は、東京・大阪・神奈川がそれぞれ3900回分、その他の道府県には一律1950回分が配給されただけ。

八王子市では先着順で接種を受け付けたため、予約の電話がつながらずちょっとした混乱があったそうだ。

私と妻の親たちが暮らす岡山市でも昨日から高齢者に対するワクチン接種が始まり、初日の優先接種は有料老人ホーム「なごみ苑」の入所者と、施設職員の計36人を対象に行われたそうだ。

我が家の年寄りたちのもとにはまだ市からの接種券は届いていないようで、いつ頃順番が回ってくるのかまだわからない。

それでも、日本人は我慢強いもので、社会全体で不満が噴出することもなく、粛々と順番が回ってくるのをみんなが待っている状態である。

昨日は、東京・京都・沖縄に「まん延防止等重点措置」の対象が拡大された日でもあった。

もちろん吉祥寺も対象エリアに含まれる。

具体策としては飲食店に対する夜8時以降の営業自粛を求める程度で、特に目新しい対策はない。

強いていえば、対象地域の飲食店を戸別訪問しきちんとした感染対策が取られているかどうかを東京都の職員が行うことが新しい対策ではあるが、果たしてどれほどの実効性があるのか心許ない。

そういえば先週、『流行感冒』という題名のドラマを見た。

『流行感冒』は1919年に志賀直哉が雑誌「白樺」に発表した小説で、当時世界的に流行していたスペイン風邪を題材としたものだ。

志賀直哉本人をモデルにした我孫子に住む小説家の「私」を主人公とし、「私」の周囲で繰り広げられるスペイン風邪をめぐる騒動を描いている。

病気に過敏になる人と気にしない人に社会が分断され、根拠のない噂話に振り回され、いつの間にかみんながマスクをするようになり、「私」が通っていた居酒屋も廃業に追い込まれる。

100年前の大正時代と現代を比べてみても、人間のやっていることはほとんど進化していない。

なんだか情けないような気もするが、かと言って進化しすぎると人間がますます傲慢になりそうな予感もしてどうにも悩ましい限りだ。

そんなコロナ禍の4月13日。

今日は「啄木忌」、すなわち石川啄木の命日だそうだ。

我が家のトイレに掛けてある歳時記カレンダーでそのことを知り、図書館で『日本現代文学全集39 石川啄木集』を借りてきた。

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽(かろ)きに泣きて
三歩あゆまず

はたらけど
はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり
ぢつと手を見る

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻としたしむ

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

岩手出身の詩人・石川啄木の歌はいくつか知っているものの、彼についての知識はほとんど持ち合わせていない。

図書館で借りた全集の中に、石川啄木が残した日記がたくさん収録されていた。

彼が日記を書き始めたのは明治35年、16歳の秋である。

『秋韷笛語(しゅうらくてきご)』というタイトルがつけられたこの日記は、処女詩集刊行を目的として上京した際に書き始めたものだという。

その冒頭に掲げた「序」には、こうある。

 運命の神は常に天外より落ち来つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板上の伝記の道に一展開を示せり。
 惟ふに人の人として価あるは其宇宙的存在の価値を自覚するに帰因す。人類天賦の使命はかの諸実在則の範に屈従し又は自ら造れる社会のために左右せらるるが如き盲目的薄弱の者に非ず。宜しく自己の信念に精進して大宇宙に合体すべく心霊の十全なる発露を遂ぐべき也。運命は蓋し天が与へて以て吾人の精進に資する一活機たるのみ。されば余輩は喜んでその翼に鞭うつて人生の高調に自己の理想郷を建設せんとする者也。
 呱々の声をあげてより十有七年。父母の膝下を辞して杜陵の空に学ぶこと八星霜。前途未だ漠として浮雲に入る。この秋流転の水流に従つて校を辞し友とわかれ双親とはなれ故山を去り恋ふ子の美しき面影とさへわかれて孤影飄然東都に出づ。嗟乎、何人かよく遊子胸奥の天絃に知音たる者ぞ。
 秋韷笛録はこの旅出の日より起したる日誌也

   裂かば花に、砕かば琴の夢追ふ子追ふて旅する命の秋よ。    
   天琴に誰かよき音の幸守らむ秋掩ふ雲にわかれて去ぬる。
      明治三十五年秋               白蘋詩堂


        装ひては
          花の香による
                蝶の羽
          秋は韷れの
            笛によろしき。

中学を退学して上京した啄木の高揚感のようなものを感じる。

若者の前には大都会が広がり、啄木はそこで無限の可能性のようなものを抱いたのだろうが、この日記はわずか1ヶ月半ほどで終わってしまう。

十二月三日
 イプセン集ひもとく。
 午後一人散歩す。

十二月十九日 夜。
 日記の筆を断つこと茲に十六日、その間殆んど回顧の涙と俗事の繁忙とにてすぐしたり。

啄木は結核を患い、翌年2月に父親に連れられて故郷に戻る。

人生はなかなか思い通りにはいかない。

明治39年、故郷の渋民村に戻った啄木はその年の4月13日に尋常小学校の代用教員の職を得る。

その頃には、「渋民日記」というタイトルで日記をつけていて、そこには・・・。

 十三日に村役場へ出頭、十一日附の、「渋民尋常高等小学校尋常科代用教員を命ず、但し月給八円支給」といふ辞令を受け、翌十四日(土)から尋常科第二学年の教壇に立つことに成つた。我が自伝が、この日、また新しい色彩に染められた。

 自分は今迄無論教員といふ事について何の経験も持つて居ない。然し教育の事に一種の興味を以て居たのは、一年二年の短かい間ではない。再昨年のあたりから、一切を放擲して全たく自分の教育上の理想の為めにこの一身を委せやうかと思つた事も一度や二度の事ではなかつた。

 ただ一つ遺憾に思ふのは、自分は可成高等科を受持ちたかつたのだが、それが当分出来ぬ事である。これは自分が教壇の人と成るのが、単に読本や算術や体操を教へたいのではなくて、出来るだけ、自分の心の呼吸を故山の子弟の胸奥に吹き込みたい為めであるのだ。それには高等科あたりが最も適当である。十二三才から十五六才までが、人の世の花の蕾の最もふくよかに育つ時代で、一朝開華の日の色も香も、――乃至は、その一生に通づる特色といふもの、――多く此間に形作られる。尋常科の二年といへば、まだホンの頑是ない孩提に過ぎぬので、自分の心の呼吸を吹き込むなどといふ事は、夢にも出来うる所でない。

この頃、啄木は徴兵検査も受け、「筋骨薄弱」として徴集を免除されている。

○四月二十一日。晴。土。
 待ちに待つたる徴兵検査が愈々この日になつた。学校をば欠勤。午前三時半に起床、好摩から六時に乗車して沼宮内町に下車、検査場なる沼福寺に着いたのが七時半頃。検査が午后一時頃になつて、身長は五尺二寸二分、筋骨薄弱○○○○で丙種合格、徴集免除、予て期したる事ながら、これで漸やく安心した。
 自分を初め、徴集免除になつたものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気運の動いてゐるのは、此辺にも現はれて居る。

この年は日露戦争が終結した翌年。

啄木はこの年の6月には小説を書き始め、12月には長女が生まれている。

啄木にとっては比較的穏やかな年となった。

しかし、最後の日記となった明治45年の「千九百十二年日記」では様子がまったく変わっている。

一月一日

今年ほど新年らしい気持のしない新年を迎へたことはない。といふよりは寧ろ、新年らしい気持になるだけの気力さへない新年だったといふ方が当たっているかも知れない。からだの有様と暮のみじめさを考へると、それも無理はないのだが、あまり可い気持のものではなかった。朝にまだ寝ているうちに十何通かの年賀状が来たけれども、いそいそと手を出して見る気にもなれなかった。

そして、日記の最後はこの年の2月28日で終わっている。

二月二十日(火)

日記をつけなかった事十二日に及んだ。その間私は毎日毎日熱のために苦しめられていた。三十九度まで上った事さへあった。さうして薬をのむと汗が出るために、からだはひどく疲れてしまって、立って歩くと膝がフラフラする。

さうしてる間にも金はドンドンなくなった。母の薬代や私の薬代が一日約四十銭弱の割合でかかった。質屋から出して仕立て直さした袷と下着とは、たった一晩家においただけでまた質屋へやられた。その金も尽きて妻の帯も同じ運命に逢った。医者は薬代の月末払を承諾してくれなかった。

母の容態は昨今少し可いやうに見える。然し食欲は減じた。

この記述を最後に日記は終わっていて、この年、明治45年の4月13日、石川啄木はこの世を去った。

享年26。

夢と大志を抱いていた若者は、病と貧困の中で多くの挫折を味わい、それを詩に残した。

私にはまったく詩心というものがないが、隠居して時間ができた今だからこそ、これまで触れてこなかった文学作品に意識して接するようにしたいと思う。

私がブログを書き始めた理由は、ある意味、石川啄木の日記に通じるものがある。

幸い、コロナ禍で行動の自由が奪われれば奪われるほど、私にはたくさんの時間が転がり込む。

できれば、その時間を意味のある形で使いたい・・・啄木を読みながら、私はそんなことを考えている。

<吉祥寺グルメ>「ゆりあぺむぺる」の「チキンサラダプレート」

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