国連のグテーレス事務総長が、ロシア軍によるウクライナ侵攻後初めて、仲介工作に乗り出した。
26日モスクワでプーチン大統領と会談したグテーレス事務総長だが、今の国連には大きな期待はできないだろう。
大きなテーブルの両端に座った2人の距離は、戦争を止めることの難しさを象徴しているように感じられる。

世界平和を守る仕組みとして戦後生まれた国際連合、今日はそれに関連した哲学的な話を書いておこうと思う。
プロイセンの哲学者で、「近代哲学の祖」とも呼ばれるイマヌエル・カントは、フランス革命後の1795年に『永遠平和のために』という本を出版した。
無学な私はもちろん読んだことはないが、カントが晩年に書いたこの恒久平和に関する論考は、その後の国際連盟や国際連合のベースとなったとも言われる。
哲学書は言い回しも難解でとても手に取る気持ちにならないが、Eテレの「100分で名著」でこの本を解説するというので見てみることにした。
どうやら2016年に制作された番組の再放送だったらしい。
ウクライナ戦争によって、戦争と平和に対する関心が高まっているのに合わせて、NHKがアーカイブから引っ張り出してきたのだろう。
「どうすれば地球上から戦争がなくなるのか」という根源的な問題を考えるうえで、いくつかの示唆を与えてくれたこの番組、4回シリーズを一気見して、気になった部分を書き残しておこうと思う。
第1回 戦争の原因は排除できるか
カントは、国家間での永遠平和を実現するための6項目を明示している。
- 第1条項 – 将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。
- 第2条項 – 独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない。
- 第3条項 – 常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。
- 第4条項 – 国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない。
- 第5条項 – いかなる国家も、他の国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。
- 第6条項 – いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。
これだけ見ると、非現実的な理想主義に思えるが、その背景にあるカントの考え方を理解すると、少し見方が変わってくる。
それは、「人間は邪悪な存在である」という基本認識だ。
そのため、戦争をすることが人間の本性だから特別な理由がなくても戦争が起こると考える。
すなわち、「人間は放っておいたら戦争をする」というのがカントの平和論の出発点なのだ。
『ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態(スタトゥス・ナーチューラーリス)ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。常に敵対行為が発生しているというわけではないとしても、敵対行為の脅威が常に存在する状態である』
この考えは、ルソーやホッブスなど当時のヨーロッパの哲学者が唱えた「社会契約説」に基づくという。
社会契約説では、秩序が存在しない自然状態では人間は常に自分の利益だけを考えて行動し闘争状態へと向かい生存さえ危うくなってしまうと考える。
だからこそ、人間は自らの命や権利を守るため相互にルールを守るという契約を結びそれが国家となった、そもそも国家ができたのは人間が自分の利益ばかり考える邪悪なものだったからだというのだ。
みんなが道徳的でいい人になれば平和になるはずなどと夢見ていても平和は訪れず、「平和状態は人間が作り出していかなければ存在しない」「どうすれば戦争が起きなくなるか」を考えることが重要だとカントは主張した。
『平和状態は新たに創出すべきものである。敵対行為が存在していないという事実は敵対行為がなされないという保証ではない。人は市民的・法的な状態に入ることで相手に必要な保証を与えることができるのである』
国家間の対立にも法的な仕組みが入って初めて平和と言えるというカントの考え方は絶対王政が普通だった当時としては画期的だったわけだ。
人類の歴史を振り返ってみれば、古今東西、戦争の歴史だということがわかる。
戦争が普通の状態であり、平和というのは人間が努力して創出するしかないというカントの主張には同意せざるを得ないだろう。

第2回 “世界国家”か“平和連合”か
カントは恒久平和を実現するためには「国際的な平和連合」を作らなければならないと提唱し、それが後の国連の基盤になったと言われている。
すなわち、国家と国家との間にもルールとシステムが必要だと説いたのだ。
『国家としてまとまっている民族は複数の人々のうちの一人の故人のようなものと考えることができる。民族は自然状態においては、すなわち外的な法に従っていない状態では互いに隣り合って存在するだけでも他の民族に害を加えるのである。だからどの民族も自らの安全のために個人が国家において市民的な体制を構築したのと同じような体制を構築し、そこで自らの権利が守られるようにすることを他の民族に要求することができるし、要求すべきなのである』
国境をなくし世界を一つの「世界国家」にすれば地球上の戦争は防げるという主張に対して、カントはそれを真っ向から否定した。
『これは国際的な連合であるべきであり、国際的に統一された世界的国家であってはならない』
世界国家は少数民族の文化を消滅させるだけでなく、総論賛成、各論反対となってしまい、実現できないと考えた。
『一つの世界共和国という積極的な理念の代用として消極的な理念が必要となるのである。この消極的な理念がたえず拡大し続ける持続的な連合という理念なのであり、この連合が戦争を防ぎ法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制するのである』
世界国家=積極的な理念は、正しい目的を達成するためには何をしても許されるはずという方向に向かいがちで、誰かが世界国家から抜けたがってもそれを認めない、武力を使っても阻止しなければならないと逆に戦争になりかねないと考えた。
しかし消極的な理念である平和連合は、みんなが折り合えるようなやり方で達成できる目的を定めるという姿勢が基本となる。
さらに平和連合では、どんなに小さな国家でも主権国家と認められれば1議席を持つことができ強者の論理に飲み込まれずにすむとした。
世界国家を作って内戦が多発するぐらいなら、紛争の種をできるだけ減らすために別の方法を探そうと考え出したのが消極的理念なのだという。

第3回 人間の悪が平和の条件である
カントはこの本の中で「自然の摂理」が永遠平和を実現させると説いている。
カントが言う「自然の摂理」とは以下の3つだ。
- 人間があらゆる地方で生活できるように配慮した
- 戦争によって人間を人も住めぬような場所に居住させた
- 戦争によって人間が法的な状況に入らざるをえないようにした
なぜ人間が暮らしにくい極寒の地などにも住んでいるのか?
その理由は、戦争の他に考えられないとカントは考えた。
人間は邪悪なので放っておくと戦争をしてしまうが、敵対する敵が現れると味方同士は団結せざるをえなくなる。
そのため何らかの法律やルールが必要となり、結果として平和状態が作り出される。
すなわち、邪悪な人間が起こした戦争が平和を作り出すことも「自然の摂理」だと言うのである。
『永遠平和を保証するのは偉大な芸術家である自然、すなわち<諸物を巧みに創造する自然>である。自然の機械的な流れからは、人間の意志に反してでも人間の不和を通じて融和を創り出そうとする自然の目的がはっきりと示されるのである』
要するに、道徳や理性の導きだけでは平和を作ることはできず、人間の本性、自然的傾向に裏打ちされなければ平和は達成されないと考えたのだ。
自国の利益を最優先にする利己的な国家同士の間でも個人間と同じような「自然の摂理」が働くとして、貿易のルールを決めて互いに利益を上げる方が得と考えれば、自然に戦争を抑止する方向に動くと。
『他方ではまた自然はたがいの利己心を通じて諸民族を結合させているのであり、これなしで世界市民法の概念だけでは民族の間の暴力と戦争を防止することはできなかっただろう。これが商業の精神であり、これは戦争とは両立できないものであり、遅かれ早かれすべての民族はこの精神に支配されるようになるのである』
日本の平和が続いているのは、太平洋戦争でこっぴどい敗戦を経験したから。
戦後の政治家たちは、安全保障をアメリカに委ねて、ただひたすらに経済大国の道を目指したのはまさにカントが言うところの「自然の摂理」ということになるのだろう。
短期的には暴力を使って収奪する方が得に見えても、長期的にみれば非暴力の商業活動を活発化させた方が利己心を満たすはずだというのである。
そして、永遠平和を実現するためには「共和制」の国家、すなわち行政権と立法権が分離されいることが重要だと主張した。
行政権と立法権が一つになった専制国家では戦争が起きやすいと考えたのだ。
まさにプーチンのロシア、全ての決定を一人の人間が行える体制ができると戦争が起こりやすくなるというのは歴史が証明している。

第4回 カントが目指したのも
永遠平和を実現するためのカントの最終結論、それは国家と国家の間にも平和を導くための法律が必要であり、その法律には全ての国が守ることができるよう公平な「道徳」が不可欠だというものだった。
カントは「道徳と政治の一致」というテーマに本の半分を費やしている。
しかしその主張は、政治が道徳的に営まれれば永遠平和が実現するということではなく、各国が法を尊重し法に基づいて紛争を解決する状態、すなわち「公法の状態」をいかにして実現するかに力点が置かれている。
『公法の状態を実現することは義務であり、同時に根拠のある希望でもある。これが実現されるのがたとえ無限に遠い将来のことであり、その実現に向けてたえず進んでいくだけとしてもである。だから永遠平和は単なる空虚な理念でもなく実現すべき課題である』
「公法の状態」を実現するためには、法律が誰にでも例外なく公平であることが必要だ。
そのためには法律のベースとなる「道徳」が、誰がどんな場合でも無条件に従うべきものでなければならない。
これを「道徳と政治の一致」とカントは呼んだ。
カントが言うところの「道徳」とは、「内容ではなく形式で考える」ものだという。
『汝の主観的な原則が普遍的な法則となることを求める意志にしたがって行動せよ』
たとえば、DVの夫から逃げてきた妻を匿った場合、追いかけてきた夫にどのように答えるか?
「嘘をついてはいけない」という道徳に従って匿っていることを正直に伝えるのが「内容」、それに対して「誰もがおこなってもいいと思えることをどんな場合でも行わなくてはならない」という普遍的な法則に基づいて夫に対して嘘をついて妻を守ることは、「嘘をついても道徳的になる」とカントは考えるのだ。
どんな時でも誰もが例外なく従わなくてはならないと迫ってくる道徳の力こそが、カントが言うところの「道徳の形式」ということらしい。
要するに、「誰もがやってもいいと思えることだけをやってください」というのが国家間の法律になるべきだというのだ。
逆の言い方をすると、すべての国に公平な法律とは、このやや曖昧な「道徳の形式」ぐらいしか基礎となるべきものが存在せず、その実現はとても難しいということだを私は理解した。
そのうえで、カントはこうも述べた。
『邪悪な悪魔でも知性さえ備えていれば法律を作り国家を作ることができる』
番組では、欲深い悪魔たちが目の前のケーキを公平に分ける方法を紹介する。
どの悪魔が切り分けても自分の分だけ大きくしないようにするためにはどうすればいいのか?
答えは「ケーキを切る係の悪魔が最後にケーキを取るというルール」を設けること。
こうすることで、均等に切り分けることが最も自分の利益になるため争いが起きなくなるのだ。
これが「形式で考える」ということであり、人間の利己心を認めたうえで誰がやっても公平性が保たれ平和がもたらされる形式というのがカントの出発点だった。
そして「公平性を実現する過程には終わりがない」として、終わりのないプロセスの中で少しずつ公平性を高めていくべきだと主張している。
さらに公平性を保証するためにとても大切なものがある。
それは「公開性」だ。
『国家における国民と国家間の関係に関して経験によって与えられているさまざまな関係から法学者が普通想定するような公法のすべての内容を捨象してみよう。すると残るのは公開性という形式である。いかなる法的な要求でも公開しうるという可能性を含んでいる。公開性なしにはいかなる正義もありえないし、いかなる法もなくなるからだ』
「公開性」とは、すべての人の眼差しに耐えうるものであるということ。
悪魔がケーキを切るときにも、カーテンで閉ざされた密室の中で切られていたら公平性は保証されないのは自明である。
権力を監視するメディアを統制し、国民を洗脳する専制国家には密室でケーキを切ろうとする悪魔が巣食っているというわけだ。
『人間愛と人間の法に対する尊敬は、どちらも義務として求められるものである。しかし人間愛は条件つきの義務にすぎないが、法に対する尊敬は無条件的な義務であり、端的に命令する義務である。法に対する尊敬の義務を決して踏みにじらないことを心から確信している人だけが、人間愛の営みにおいて慈善の甘美な感情に身をゆだねることが許されるのである』
永遠平和を実現するためには、人間愛よりも法に対する尊厳が大切だとカントは考えた。
人間の本質を善ととらえる理想論は平和を構築する上には無力であり、平和のためには理想を超えた哲学が不可欠だというのがカントの結論である。

永遠平和の実現は、終わりのない努力目標である。
今回のウクライナでの戦争は、再び時計の針を逆戻りさせてしまった。
ロシア国民の8割がプーチンの戦争を支持しているという現実は、見る角度によって物事の見え方が違ってくるということを改めて教えてくれ、すべての人が等しく公平と感じる法律を作るというのは不可能に近い作業だということも痛感させられた。

国連では26日、安保理で拒否権を行使した常任理事国は10日以内に国連総会でその理由を説明しなければならないという決議が採択された。
ウクライナ侵攻の停止を求める決議に対しことごとくロシアが拒否権を行使したことを踏まえてのささやかな改革の一歩である。

全会一致が原則だった国際連盟が機能不全に陥った反省から、戦後誕生した国際連合では、より素早い決定を得られるように戦勝国を常任理事国として安全保障理事会という制度が設けられた。
そして5つの常任理事国に与えられた拒否権が、国連の公平性を阻害しているのも事実だ。
拒否権行使の回数はロシア(ソ連)が最も多いが、アメリカも多くの場面で拒否権を使ってきた。
ベトナム戦争でも、イラク戦争でも、アメリカの行動が常に正しいとは言えないのは明らかで、「すべての国にとって公平な国際法」の実現は、未だ実現できない理想である。
しかし、カントが生きた帝国主義の時代はすでに終わり、人類は多少、国際的なルールを重んじるようになってきた。
恒久平和という理想を諦めることなく、絶えず努力を続けていくこと。
回りくどくて遠回りに感じても、その局面ごとに最善の努力を積み重ねる以外に平和な世界を築く方法はないのだろう。
そういう意味で、ウクライナ戦争は日本人にとっても決して他人事ではない。
カントのように、今の時代に即した哲学が求められているのだと感じた。
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