<吉祥寺残日録>【百年前⏩1932.5.15】五・一五事件で殺された「憲政の神様」犬養毅の生き様 #210516

今日から北海道・岡山・広島の1道2県に緊急事態宣言が拡大された。

私にとっての関心事は、もっぱら岡山への帰省が制約されることだ。

岡山の実家の座敷に掲げられた古い書は、犬養毅によるものである。

『放情自娯』

「情懐を思うままにして自ら娯楽に供すること」という意味のようだが、なぜ犬養の書が我が家にあるのかはわからない。

ただ、犬養毅は明治23年(1890)の第一回総選挙以来、岡山選出の国会議員として首相にまで登り詰めた人物なので、おそらく私の先祖が犬養を支援していたということなのだろう。

犬養は書道家としても知られ、「木堂」の号で呼ばれることも多い。

その犬養毅といえば、昭和7年に起きた「五・一五事件」で青年将校たちによって射殺された現役総理として知られるが、先日この犬養毅の生涯を取り上げたテレビ番組を見た。

私が欠かさず見ているBSの「英雄たちの選択」。

この優良なレギュラー番組では、時々「昭和の選択」とタイトルを変え、昭和の敗戦に至った日本の選択をテーマに番組を作るのだが、今回もその「昭和の選択」だった。

『昭和の選択 「立憲政治を守れ!犬養毅 “憲政の神様”の闘い」』

今日は、この番組をベースにして、犬養毅の生き様について書いておきたい。

安政2年(1855)に備中国賀陽郡庭瀬村字川入(現・岡山県岡山市北区川入)の大庄屋・郡奉行の家に生まれた犬養毅は、明治9年に上京し慶應義塾で弁論に目覚める。

明治16年には大隈重信率いる立憲改進党に入党し、明治23年の第一回総選挙で当選し、以後42年間18回連続当選を果たし「憲政の神様」と呼ばれる。

しかし、犬養が政治の世界に入った明治には、長州・薩摩が実権を握る藩閥政治の時代で、犬養はまずこの藩閥政治と激しく戦うことになる。

Embed from Getty Images

最初の戦いは、日露戦争後の軍備拡張を巡って起きた。

陸軍を掌握していた山県有朋は、ロシアとの再戦を睨んで兵力を2倍以上に増強することや大陸利権のさらなる拡大を主張する。

これに対し犬養は、真っ向から批判した。

日露戦争後の戦後経営は大失敗だ。原因は国力に見合わぬ国防計画と軍事計画にある。

番組からの引用:帝国議会速記録より

倉敷芸術科学大学の歴史学者・時任英人名誉教授はその時の犬養の心境をこう分析する。

「犬養の言葉によりますと、国家は経済を主として軍備は従にしなければならない、と。日露戦争後、ロシアを敵とすべきではない。満州はマーケットであって、経済的に結合して外交で平和的にやっていかないといけない。」

しかし犬養の主張は聞き入れられず、大正元年(1912)、陸軍は政府に2個師団増設を要求した。

その時の総理は西園寺公望。

伊藤博文暗殺後、立憲政友会の2代目総裁となった西園寺は、藩閥勢力と妥協しながら桂太郎と交互に政権を担当してきたが、財政難を理由にこの時は陸軍の要求を拒んだ。

すると、山県有朋は陸軍大臣を辞職させるという手法で西園寺内閣を総辞職に追い込む。

Embed from Getty Images

犬養からは離れるが、この時の陸軍と西園寺内閣の駆け引きと財政状況について、福田和也「昭和天皇第一部」から引用しておきたい。

大正元年12月2日、陸軍大臣上原勇作が単身参内した。満蒙における特殊権益擁護と朝鮮の治安に必要な2個師団増設を提議したところ首相、蔵相に拒否された、と天皇に上奏し、辞表を提出した。

統帥権独立の観点から、陸海軍大臣は参謀総長、軍令部長とともに、内角の頭越しに天皇に上奏する権限が与えられていた。

だがまた、上奏内容は軍事に関わることに限定されていて、閣僚として辞表を提出する等政治に関わることは、違法とされていた。それでも上原は上奏のうえ辞表を出した。不満と怒りを、天皇と天下に示さないではいられなかったのである。

上原はけして、独りよがりの人物ではない。やや硬直してはいるものの、誠実な使命感を持った軍人であった。東大の前身である大学南校から士官学校に転じ、以後ずっと首席で通した秀才で、中央の要職を歴任し、「雷おやじ」と怖れられていた。合理性を重んじることで有名だったが、『機密日露戦史』に代表される大正期軍内部の乃木希典批判を筋違いと排したことはよく知られている。

上原が上奏したのは、財政問題によって軍備が制限されることへの憤りからだった。

日本政府は、日露戦争の戦費を賄うために、多額の外債を発行した。その後も国家予算は膨張を続け、借金を支払うために借金をする、という悪循環に国家財政は陥っていた。

明治45年度予算において、歳入が5億7600万円弱であったのに対し、国債の利子負担は1億1700万円余に達していた。累積未償還国債は総額22億5000万円あった。第二次西園寺内閣の蔵相に就任した山本達雄は新規事業の停止と、徹底した財政の整理節減を掲げた。山本の方針は内閣だけでなく、渋沢栄一、益田孝ら財界の重鎮、そして元老井上馨により支持されていた。太政官政府以来、国家財政を司ってきた井上は、尋常ならざる危機感を抱いていたのである。

上原勇作は、陸軍大臣として、内閣の整理方針に協力し、195万円の節約を果たした。

日露戦争によって、財政赤字が膨らんだかもしれないが、同時に日本の勢力圏も膨らんだ。国防の範囲が広がれば、予算も膨らむ。ある程度削減に協力したのだから、師団増という日露戦以来の要求を認めるべきだ、というのが上原の論理であった。

蔵相の山本達雄はにべもなくはねつけた。

拒絶された上原は、山県有朋にことわって、単独上奏に踏み切ったのである。

上原の上奏を知った西園寺公望は、参内して辞表を確認したうえで閣僚の辞表を取りまとめた。陸軍が後任を推薦しない以上、総辞職は避けられなかった。

上原陸相のやり方は軍に対する激しい反発を世論に呼び起こした。大正時代、軍人の社会的地位は著しく低下した。電車車内で将校マントや長靴の拍車が邪魔だと乗客から罵られたり、士官学校の受験者が著しく減少したり、若手将校が結婚相手に困ったりする背景には、軍に対する反発がわだかまっていたのである。

引用:福田和也「昭和天皇第一部」

まさに犬養が指摘した通り、陸軍が求めていたのは「国力に見合わぬ国防計画と軍事計画」であるが、多くの将兵の命と引き換えに獲得すた大陸利権を守らなければならないという陸軍の論理は、いつの時代でも必ず出てくる理屈であることが重要だ。

一度戦争を始めると、次々に心配の種が出てくるのである。

西園寺内閣が退陣した後、首相に就任したのは山県に近い桂太郎だった。

この時、犬養毅は58歳。

自らの政党「立憲国民党」を旗揚げしていた犬養は新たな戦いを挑む。

この度の一戦は小生の最後の一戦になるかもしれない。万一敗れれば全く政界を去る覚悟だ。

番組からの引用:大正元年 犬飼源太郎宛書簡より

大正元年(1912)12月19日、歌舞伎座で行われた演説会に登場、いわゆる「大正政変」がここに幕を開ける。

犬養は聴衆にこう呼びかけた。

「今、政党人に一点の私心がなければ藩閥打破などたやすいことである!」

犬養は、ライバル政党の「政友会」との共闘を画策する。

「政友会」もこれに応じ、論客の尾崎行雄が犬飼に合流、「憲政擁護運動」が盛り上がる。

大正2年(1913)2月5日、熱狂した群衆が議会を取り囲む中、犬養たちは桂内閣に対する不信任案を提出した。

これに対して桂は、宮中に働きかけ西園寺に対する天皇の勅語を引き出し、政友会の動きを潰しにかかる。

妥協しそうになる西園寺に対し犬養は徹底抗戦を主張、「西園寺公は大命を奉ぜられるとともに総裁を辞職なさるが良い。政友会としては最後まで憲政のために闘うべきが本筋である」と、西園寺が一人で勅語を引き受けて総裁を辞任するという奇策を提案した。

政友会は倒閣運動維持を決め、大正2年2月11日、桂内閣が総辞職に追い込まれた。

この大正政変によって、犬養と尾崎は民衆から「憲政の神様」と讃えられた。

その後大正3年に第一次世界大戦が勃発し、日本は空前の景気に沸く一方、格差が拡大し、各地で米騒動が起きる。

この時から犬養の目標は「普通選挙」の実現に定まった。

政治は一部階級の独占たる迷夢より覚醒し、選挙権拡張を以て国民全体に国家維持の責任を負わすべし。

番組からの引用:「我党の方針」より

犬養は、第一次大戦後は「危機の時代」との認識の下、「国民みんながいろんな階層も協力して新たな日本を作っていかなければならない」と主張した。

大正8年、犬養率いる国民党は選挙権拡大案を議会に提出、選挙権を持つための納税額を引き下げて普通選挙への布石を打とうとする。

しかし、時の総理だった政友会の原敬は犬養の案を棚上げした。

政友会の支持者はすでに選挙権を持つ有力者が中心で、普通選挙の実施には後ろ向きだったからだ。

その原首相が大正10年に暗殺される。

この事件は、普通選挙だけでなく政党政治そのものを停滞させ、その後軍出身者が次々に首相の座につき、政党人は内閣から締め出されてしまう。

この頃、犬養自身も苦境にあり、基盤としていた立憲国民党は内部分裂によって解党、自身は弱小政党「革新倶楽部」を立ち上げ党首におさまった。

Embed from Getty Images

ここから犬養の逆襲が始まる。

普通選挙をめぐって対立していた政友会の高橋是清や憲政会の加藤高明に呼びかけ、「護憲三派」の結成に動く。

その結果、大正13年(1924)の総選挙で、護憲三派は圧勝。

加藤高明を首班とする護憲三派内閣が誕生した。

そして翌大正14年に犬養悲願の普通選挙法がついに成立する。

納税額の条件は撤廃され、25歳以上のすべての男子に選挙権が与えられることになった。

法案の成立を見届けてこの年、犬養は政界からの引退を宣言し、長野・八ヶ岳山麓に建てた別荘での静かな生活に入る。

この時すでに71歳だった。

犬養が暮らした「白林荘」は、長野県富士見町に今も残るという。

政界を引退した犬養は、村の若者を別荘に招き普通選挙の意義を説き、誰とでも気さくに接した。

白林荘の庭には、親交があった孫文から送られた白松が植えられているという。

普通選挙に情熱を燃やした犬養だが、彼は単純な理想主義者ではなかったという。

第一次大戦後の世界は、いかに総力戦に備えるかが重要と考え、普通選挙によって国民全体に自ら国家を担う自覚を持たせる必要があるというのが犬養の考え方だった。

犬養にとって普通選挙は、民衆の不満や不安を吸い上げる装置、統治の安全弁としての普選だったとスタジオゲストは語っていた。

犬養は「いい意味での国家主義者」で、普選とほぼ同時に悪名高き「治安維持法」が護憲三派内閣で成立しているのも、そうした国家主義の表れと見られる。

普選法が通過した議会では、悪名高い治安維持法も成立した。同法には、国体の変革や、私有財産の否認を目的とする結社や、運動を禁止する規定が盛り込まれていた。ロシア革命とソ連邦の成立、コミンテルン(共産主義政党の国際組織)の拡大で、勢いを得ていた共産主義思想の流入を防ぐために、同法を成立させたといわれている。同法に違反した者は「十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処」せられた。昭和3年(1928)に同法は改正され、最高刑は死刑となった。

引用:近現代史編纂会「ビジュアル 大正クロニクル」

治安維持法が思想犯の取締りに利用されるのは、昭和3年と16年に改正強化されてからだが、この法律が軍人政権ではなく護憲三派内閣の下で成立したことは多くの教訓を含んでいるように感じる。

犬養は軍事教育の必要性も説き、投票をする代わりに兵隊になって国を守れとも主張、同時に産業立国によって国を富ませることも重視した。

「世界の大戦によりて勃興したる世界的風潮に留意すべきだ」(1918年党大会での発言)

犬養は第一次大戦後の世界情勢を眺めながら、これからは国民の力が増し、軍事の時代から産業の時代へと変わると予見し、総力戦への備えが不可欠だと考えていたことは間違いない。

ある意味で見識のある大変なリアリストだったと感じさせる。

Embed from Getty Images

昭和に入り、引退していた犬養は再び中央政界に呼び戻される。

昭和3年(1928)に関東軍が満州で張作霖爆殺事件を引き起こし、続いて起きた世界恐慌によって農村の生活は逼迫した。

こうした混乱が続く昭和4年、野党・政友会は犬養を新たな総裁に担ぎ出す。

政友会の中には軍部と結託し大陸利権の拡張を目論む勢力も多くいたが犬養はこの申し出を受ける。

「惨烈深刻の不景気に対する救済に余命を捧げたい」というのが75歳の犬養の決意だったという。

Embed from Getty Images

中央政界に復帰した犬養の前に、軍部の暴走は続く。

昭和6年(1931)9月、満州事変が勃発、政府の不拡大方針にも関わらず関東軍は次々と戦線を拡大していった。

これに呼応して国内でも、首相を暗殺し軍事政権を樹立するという陸軍のクーデター計画「十月事件」が発覚する。

こうした動きに対し犬養は、天皇側近の元老となっていた西園寺に対しこう告げた。

陸軍の根本組織から変えてかからなければならないが、そうなると政友会一手ではできない。

どうしても連立していかなければ駄目だ。

番組からの引用:「西園寺公と政局」より

議会で多数派を占める民政党の若槻内閣と連立を組み軍を抑える、いわゆる「協力内閣案」を主張したのである。

しかし、両党の政策にはあまりにも隔たりが大きく撤回、その直後に民政党の内部対立で若槻内閣が総辞職し、野党第一党の党首である犬養に大命が降る。

昭和6年12月13日、犬養は政友会単独で内閣を発足させた。

まさに満州では、関東軍が各地で中国軍と交戦中だったが、犬養には戦争を止める秘策があったという。

犬養はかつて中華民国建国の父・孫文を支援しており、中国側との太いパイプを持っていた。

犬養は政治以外にも、神戸中華同文学校や横浜山手中華学校の名誉校長を務めるなどしていた。この頃、東亜同文会に所属した犬養は真の盟友である右翼の巨頭頭山満とともに世界的なアジア主義功労者となっており、ガンジー、ネルー、タゴール、孫文らと並び称される存在であった。

1907年(明治40年)から頭山満とともに中国漫遊の途に就く。1911年(明治44年)に孫文らの辛亥革命援助のため中国に渡り、亡命中の孫文を荒尾にあった宮崎滔天の生家に匿う。

出典:ウィキペディア

犬養が総理となった頃、中国国民党政府のトップは孫文の子である孫科だった。

組閣の3日後、犬養は同志だった萱野長知に中国側との交渉を依頼している。

12月下旬中国に渡った萱野から電報が送られた。

中国政府は満州問題解決のため東北政務委員会を組織、日本と直接交渉に入り撤兵について話し合う準備がある。

番組からの引用:「萱野長知日誌」より

しかし、この重要な電報は犬養に届かなかった。

満州の直接支配を考えていた内閣書記官長の森恪が握り潰したのだ。

さらに翌年1月に上海事変が勃発し交渉による問題解決の道は閉ざされてしまう。

五・一五事件の直前の昭和7年5月1日、犬養首相はNHKのマイクの前に立ち、次のように国民に訴えた。

番組ではその音声が紹介される。

侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことであるから、どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい。

政友会の内閣である以上は決して外国に向かって事を起こして侵略しようというような考えは毛頭もっていないのである。

番組からの引用:「内憂外患の対策」より

その放送の2週間後となる5月15日午後5時。

海軍の青年将校ら9人が首相官邸を襲撃する。

「待て待て、騒がぬでも、話をすればわかる」と言う犬養に向かって、青年将校たちは銃声を浴びせた。

番組のナレーションは、犬養の死を次のように評した。

犬飼の死は時代の大きな転換点となった。

政友会は後継内閣の樹立に動いたが、組閣の大命は海軍の長老・斎藤実に降った。以後、政党内閣は生まれる事なく、日本は軍主導の下、戦争への道を突き進んでいった。

青年将校の放った銃弾は、犬養の命を奪っただけでなく、戦前の政党政治の命脈をも断ち切ったのである。

番組からの引用

近年、亡くなった直後の犬養の顔をかたどったデスマスクが公開された。

まるで眠っているかのような静謐な表情だったと言う。

一国の総理が首相官邸で殺されたのに誰も立ち上がらなかったという異常さこそ、大きな時代の転換点だったとスタジオの論者たちは語る。

テロが続発する中で、政治家も軍に対して物が言えない空気ができていたことも重要だが、当時の世論が関東軍の進撃を支持し喝采を送っていた状況も政治家たちを黙らせたのだろう。

五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたものの世論の万単位の嘆願で軽い刑で済み、数年後に全員が恩赦で釈放され、彼らは満州や中国北部で枢要な地位についた。現職総理を殺した反逆者やそれを焚きつけたテロリストらに死刑を適用しなかったことが、さらに大がかりな二・二六事件の遠因となった。なお、五・一五事件の海軍側軍法会議の判士長であった高須四郎は「彼らを死刑にすれば彼らが殉教者扱いされるから死刑を出すのはよくないと思った」などと軽い刑に処した理由を語った。

この事件の後、浜田国松、斎藤隆夫などは反軍政治を訴えたが、大抵の政治家は反軍的な言動を差し控えるようになった。新聞社も、軍政志向への翼賛記事を書くようになり、政治家は秘密の私邸を買い求め、ついには無産政党までが「憎きブルジョワを人民と軍の統一戦線によって打倒する」などと言い始めた。後の翼賛選挙を非推薦で当選した政治家たちは、テロや暗殺にこそ遭わなかったが、軍部から選挙妨害を受け、さらに大政翼賛会に参加した諸政党からも言論弾圧を受けている。

出典:ウィキペディア

犬養毅がもし生きていたら昭和の歴史は変わっただろうか?

犬養の死は、そんなことすら考えさせるほど大きな歴史のターニングポイントだったように思う。

Embed from Getty Images

しかし、番組MCを務める歴史学者の磯田道史さんは、あえて犬養にも軍部を勢いづかせる発言があったと指摘する。

それは昭和5年のロンドン海軍軍縮条約の際、犬養率いる政友会は「統帥権干犯」だとして条約を締結した民政党内閣を厳しく批判した。

天皇の統帥権を犯すことを意味するこの「統帥権干犯」という言葉は、野党だった犬養毅や鳩山一郎が議会で政府を糾弾するために使った言葉であり、その後終戦までたびたび軍部によって使われ、軍に対する政治のコントロールが効かなくなる重要な言葉となった。

軍部と対立する犬養毅でも、議会政治の中で政敵を攻撃する際にはつい過激な言葉を使ってしまう。

政治家が発した言葉が一人歩きして、逆に政党政治そのものを無力化してしまったという歴史は、いつの時代にも民主主義を守るためには大きな教訓と言えるだろう。

無益な政争なしに民主主義というものは成り立たないものなのだろうか?

今も国会での議論を聞いていて、しばしば不毛な印象を受けるのは、政治家たちの発言に哲学や大局的な歴史認識を感じられないからだろう。

Embed from Getty Images

岡山が生んだ一人の政治家の人生を振り返ると、なぜ大正デモクラシーが昭和の軍国主義に変わったのかが少し見えてくる気がする。

100年前の日本に生きた政治家たちの中で、私は犬養毅と原敬にシンパシーを抱いてしまう。

この2人が共にテロによって倒れたことは、日本にとって悲劇であった。

犬養毅の生家には、「犬養木堂記念館」というのがあるそうなので、岡山に帰省した際に一度訪ねてみたいと思っている。

<吉祥寺残日録>【百年前 ⏩ 1921】今から100年前、日本も世界も大きなターニングポイントを迎えていた #210217

コメントを残す