日本植民地支配からの独立を訴えた3.1独立運動から100周年。
「三一節」の三連休だったソウルの街を歩き、一番驚いた場所は「西大門刑務所歴史館」だった。
何の予備知識もないままに地下鉄3号線に乗って独立門駅で降りた。「随分と降りる客が多い賑やかな駅だな」と感じたのだが、その乗客たちの大半が私と同じ場所を目指していたことに気づいた。
そこに待っていたのは、私がまったく予想もしていない光景だった。
刑務所の正面入口のゲートから塀に沿って北西方向へ長蛇の列が続いている。その最後尾が果たしてどこなのか、検討もつかないほどの長さだ。
3.1運動の特別展示があるのだろうか?
それとも、100周年で無料開放されているのか?
いずれにしても歴史資料館にこんな長蛇の列ができるのは、異常事態だと思った。
ところが、行列はそれだけではなかったのだ。
反対側を見ると、正面ゲートの隣にある小さな入り口の前にも長い長い行列が南東方向に伸びている。
刑務所の塀にはハングルと矢印が書かれた紙が2枚貼られているので、この2つの行列には何か区別があるに違いないのだろう。それにしても、その列の長さが半端ない。
とてもこの行列に並ぶ気にはなれないと入場を諦める。また明日出直そう。そう心を決めると、東側へ伸びた行列の最後尾を見てやろうという好奇心が湧いてきた。
行列をたどる。
刑務所の塀は100m以上あるだろうが、その塀では収まりきれず、さらにずっと先、公園の方まで行列は伸びていた。ざっと500mぐらいはあるだろう。最後尾の人は門を潜るまで何時間待つのだろうか?
でも行列に並んでいる人を観察すると、カップルやファミリーなど若い人が目立つ。そして、その表情も普段通りでまるで遊園地の行列にでも並んでいるように見える。
この現象、一体どのように理解すればいいのだろうか?
そのままなだらかな坂を下ると、大勢の人たちがくつろぐ芝生の公園が広がっていた。
1987年、刑務所の移転に伴って、「西大門独立公園」という歴史公園として整備された。
この公園のシンボルが、この「独立門」。
日清戦争後の1897年に、朝鮮の独立を主張する独立協会によって作られた。
この場所にはもともと、朝鮮王朝が宗主国である清の使節を迎え入れる「迎恩門」があったが、独立協会は迎恩門を撤去して、パリの凱旋門に倣ってこの独立門を建てたのだ。
中国の方を向いた東側に漢字で「独立門」の文字が刻まれているのは、長年朝鮮をその影響下に置いてきた宗主国・清への当てつけだろう。
新興国・日本がアジアの盟主・中国を破った日清戦争は、国の近代化を目指す一部の人々に大きな希望を与えたことも間違いない。
独立門と正対するように立つ一体の銅像は、独立協会の生みの親で革命家の徐載弼(ソ・ジェピル)。
日本に留学し慶應義塾などで学んだ徐は、帰国後「甲申政変」と呼ばれるクーデターを起こすが失敗して日本に亡命。日清戦争後に帰国し、独立協会を立ち上げ、独立新聞を発刊する。
朝鮮の立憲君主制を目指し、1897年の大韓帝国成立にも影響を与えた。しかし、独立協会の西洋思想は大韓帝国から疎まれるようになり、ついに解散を命じられ、徐はアメリカに亡命する。
3.1独立運動が起きると、徐はアメリカで独立運動を活発化させる。今度は日本の敵となったのだ。めまぐるしく変わる国内外の情勢に翻弄されながらも、母国の独立を求め続けた革命家がここにもいた。
西大門独立公園には、「三・一独立宣言記念塔」もある。
ここにも「独立宣言書」を刻んだ碑文が掲げられている。
この西大門刑務所こそ、日本の植民地時代、多くの独立運動家や民衆が投獄され命を落とした場所なのだ。
翌朝、再び西大門刑務所歴史館を訪れた。
現地に着いたのは午前10時すぎだったが、もうすでに200mほどの行列ができていた。それでも前日に比べたら全然短い。列の最後尾に並ぶことにした。
こうして列に並んでみると、煉瓦造りの塀と監視塔に強い威圧感を感じる。
私の後からも続々と人々がやってきて、行列はどんどん長く伸びていった。
入場を待つ間に眺められるように、いくつかのパネルが用意されていた。
3種類の手描きの太極旗。3.1運動で使われたもののようだが、説明がハングルだけなのでよく理解できなかった。中国語だったらまだ多少意味を推測できるが、ハングルには全く歯が立たない。
そして待つこと30分。ようやく入り口にたどり着いた。
100周年に合わせて無料開放が行われているのではという私の推測は見事に外れた。
入場料は通常通り、3000ウォン(約300円)であった。
また、100周年の特別展示が行われているのではという推測も外れた。展示内容はいつもと同じで、順路に従って施設を見て回るスタイルになっていた。
順路の初め、入り口のゲートを潜って目の前に建っているのが「展示館」だ。
展示館に入る前に、この刑務所の意味づけが簡潔に書かれだボードが置かれていた。
『西大門刑務所は大韓帝国末期、日帝が国権回復のために抗争した韓国人たちを弾圧するために京城監獄という名前で設立した。ここは1908年から1987年まで80余年の間、監獄として運営され、日帝強制占領期には多くの独立運動家、光復(独立)以後には独裁政権による民主化活動家たちが収監されて殉国した歴史の現場だ。』
韓国の人たちにとって、3月にこの刑務所跡を訪れることは、私たち日本人が8月に原爆記念館を訪れるのに似ているのかもしれない。
まずは、展示館の前で万歳して記念撮影。これも定番のようだ。
施設内の展示は基本的にハングルと英語なので、ここでは購入した日本語資料「独立と民主の現場 西大門刑務所歴史館」の記述をもとに、どのような説明がなされているのか見ていきたいと思う。
まずは展示館の1階。
「帝国主義の侵略」と題されたコーナーで、韓国併合までの経緯が簡潔に展示されている。その説明文はこうだ。
『19世紀末、韓国は帝国主義列強の侵略に直面した。フランスとアメリカは韓国を強制的に開港させるために丙寅洋擾(1866)と辛末洋擾(1871)を起こし、日本は雲揚号事件を通じて江華島条約(1876)を締結、韓国を強制的に開港させた。帝国主義列強の侵奪に立ち向かい韓国は近代化と外交に力を注いだ。しかし、日本は近代化した武力を先立てて1904年韓日議定書(第1次日韓条約)、1905年乙巳条約(第2次日韓条約)、1907年丁未条約(第3次日韓条約)を通じて植民地基盤を築き上げ、1910年ついに韓国は日本帝国主義の植民地になってしまった。』
そして、伊藤博文の写真には「日帝侵略の元凶」と書かれていた。
続いては、「刑務所歴史室」というコーナー。その歴史が詳しく展示されている。
『開所初期京城監獄の収監人数は500人余で、日帝の侵略に武力で立ち向かった義兵たちが主に収監され、1910年強制併合以後は義烈闘争と抗日決死要員が主に収監された。
1919年には3.1独立万歳運動で収監者が急激に増加し、民族代表33人をはじめとする3000人余に至る独立運動家が収監された。
以後1945年解放まで大韓民国臨時政府、国内外抗日決死、義烈闘争、海外武装闘争、社会・文化・労働・農民・学生運動などの分野で数多くの独立運動家たちが収監され、そのうち相当数が殉国した大韓民国独立運動歴史の現場になった。』
展示館の2階に上がると、「民族抵抗室」というコーナーになる。
1910年の韓国併合についてはこのような説明がなされている。
『1910年8月29日、大韓帝国は日帝に国権を奪われて植民地になった。以後日帝は1945年まで武力で暴圧して植民地統治を恣行し、韓国人を奴隷のように扱い、韓国語と文化を日本化するなどした。』
そして独立運動については・・・
『国を奪われた韓国人たちは国内外で熾烈な独立運動を展開した。1919年には全民族が参加した3.1独立万歳運動を起こした。このような韓国人の独立運動は、帝国主義侵略に立ち向かう人道主義的な運動という点で世界史的に大きな意味を持っている。』
なるほど、そういう解釈なのか・・・。
「義烈闘争」とは、何か?
『義烈闘争は個人が国と民族のために命を捧げて日本帝国主義の要員や親日派を処断して、植民地統治期間を破壊した独立運動戦略の一つだった。これは敵に致命的な傷を残して日帝の植民統治に協力する者たちを緊張させた。』
私が個人的に興味深かったのは、義士、烈士、志士の定義と違いだった。
義士:命を捧げて武力的な行動で敵に対する大事を決行された方
烈士:命を捧げて素手で敵と戦って争われた方
志士:国と民族のために献身して敵に抗拒された方
いずれも日本の立場から見れば「テロリスト」という扱いになるのだが、韓国社会では国と民族のための行動なら正義の戦いだと見なされていることがわかる。
子供たちに対して、独立運動について教える教師らしき人の姿もあった。
日本ではあまり行われない現代史教育に韓国は熱心で、どちらかといえば中国に近い印象を受けた。
「民族抵抗室」コーナーの中に印象的な部屋がある。
壁一面に人々の写真が貼られている。
この部屋に貼られているのは、この刑務所に収監されていた独立運動家の受刑記録表の一部だという。
部屋にはこんな説明書きが貼られていた。
『ここは独立運動家の記録のうち現存する5千余枚の受刑記録表を通し、西大門刑務所で獄苦を経験して殉国した独立運動家を記憶し追慕し、その歴史を振り返る空間だ。』
そうした多くの収監者の中で、別格の扱いを受けている女性の肖像画もある。
3.1運動の渦中で獄中死した柳寛順(ユ・グァンスン)だ。17歳で亡くなった彼女は「独立烈士」と呼ばれ、3.1独立運動のシンボルとなっている。
その柳寛順を含む写真が飾られたスペースもあった。
ここに展示された写真の人たちはみんなこの刑務所で獄死したということらしい。
順路は、展示館の地下へとつながる。
ここは日本の残酷さを示す「地下拷問室」という展示内容になっていた。
『ここに連れられてきた独立運動家は取り調べ過程で堪えがたいあらゆる拷問を耐えねばならなかった。
このような理由でここの地下取調室は収監者らの間で悪名高い地下拷問室と呼ばれた。
このような西大門刑務所地下拷問室は帝国主義者らが植民地に恣行した暴力と国権を取り戻すため血を流しながら戦った韓民族の苦痛を見せつけている。』
拷問器具が揃った取調室。
内部に釘を仕込んだ箱の中に収監者を入れる「箱拷問」。
「水拷問」の様子を再現した写真。
取り調べ後、獄舎に移動する前監禁した「地下独房」。
真っ暗な独房が並んでいるが、この独房だけ内部の様子がわかるように明かりをつけていた。
アウシュヴィッツ強制収容所などと比較すると驚くようなものではないが、こうした施設を初めて見る一般の人にとっては残虐そのもので日本への怒りを抱かせるには十分効果的だろう。
展示館を出て、看守などがいた中央舎を抜け、獄舎へと順路が続く。
煉瓦造りの獄舎はアウシュヴィッツによく似ている。
獄舎の壁面には、記念撮影用に大きな太極旗と写真パネルが貼られていた。
この写真パネルは、3.1独立運動の後、上海で成立した大韓民国臨時政府の写真だろう。
その前に子供を立たせ、万歳をさせて写真を撮る人たちが大勢いた。
そして順路の最後、敷地のはずれに立つ一本の木に案内される。
この木は、「慟哭のポプラ」と呼ばれている。
『このポプラは1923年死刑場建立当時植えられた。死刑場に引かれていく愛国志士らが最後にこの木をかかえて祖国の独立を達成せずに生を終えなければならない無念さを涙で吐き出しながら痛哭したとして名付けられた。』
そのポプラの木の脇に塀に囲まれた死刑場がある。
木造平屋の建物で、中には絞首刑用のロープやそれを見届ける役人用の席など残されいる。塀の中に入って見ることは可能だが、撮影は禁止されていた。
死刑場の裏側には、死体を外部に搬出するための秘密のトンネルが掘られていた。
『拷問などでその痕跡が多い場合、外部に死刑事実を知らせられない場合、死体を受け取る遺族がいない場合などに利用された。』
無料開放が行われたわけではない。特別展示があったわけではない。
それでも、多くの市民がこの刑務所跡に行列を作り、過去の植民地支配について改めて見つめようとしていた。
私たちは、この光景から何を感じればいいのだろう?
政府や活動家たちのような激しさはない。それでも多くの韓国の人々の中に、今も植民地時代へのわだかまりがある。人権問題に向き合おうとしない日本政府への不信感がある。
1年前の3月1日、文在寅大統領はあえてこの場所で演説を行い、日本の姿勢を厳しく批判した。
韓国の人たちのわだかまりを政治的に利用しようとしている面もあるだろう。
しかし、政治的に物事を見すぎると、日韓の問題は解決できない。心の問題なのだ。
「西大門刑務所歴史館」。
一人でも多くの日本人がこの施設を訪れ、自らの目で展示を見た上で、どうすれば両国が和解できるのかを考えるきっかけにしてもらえればと願うばかりだ。
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