<吉祥寺残日録>東日本大震災から9年 #200311

あの日から9年が経った。

東日本大震災。

私の現役時代の忘れえぬ思い出だ。

テレビ史上に残るエンドレス特番をこなし、被災地に入ったのは5月に入ってからだった。

釜石から車で海岸線を南下した。

道路もまだ復旧せず、仮設道路を迂回しながら仙台まで走った。

印象的だったのは、漆黒の闇に包まれた気仙沼の夜、そして街があったとは信じられない南三陸や陸前高田の光景だった。

その後も福島も含めて何度か被災地に足を運んだ。

福島では、のどかな田園風景がそのままでただ人の気配がまったくないことに、他の被災地とは全然違う恐ろしさを感じた。

少し時間が経過すると、岩手や宮城の被災地が少しずつ景色が変わっていく中で、福島だけは時が止まっていて、津波に襲われた海岸線もまったく手つかずのまま放置されていた。

今も5万人近い人たちが避難生活を送っている。

目に見えない放射能の恐怖。

それは今世界を襲っている新型コロナウィルスともダブって見える。

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9年目の3.11に私が思ったのは、人間の記憶とは儚いものだということである。

震災直後、さらに5年目ぐらいまでは、テレビ局も多くの特別番組を編成した。報道・情報番組でも多くの震災企画が放送された。

しかし、9年目の今年、テレビは新型コロナウィルス一色となった。

地震が発生した午後2時46分の瞬間に、NHKでさえ特番を組まなかった。

震災直後の合言葉だった「忘れない」をいう気持ちをどれだけの国民が持ち続けているだろうかと思った。

正直に白状すると、私も今年は新型コロナのニュースをテレビで追い、震災企画になるとチャンネルを回した。

しかし、テレビを通して見る9年目の被災地には巨大な防波堤が整備され、街全体がかさ上げされていた。福島第一原発によって分断されていた常磐線も、今週末には全線開通するという。

少しずつ変わる被災地。でも9年の歳月は多くの住民の生活を変えた。

避難生活を送っていた人たちの多くは、避難先で新たな生活を築いている。その生活を捨てて、福島の故郷に戻りたいという人はむしろ少数派である。私のような都市生活者にとっては、どこで住んでもさして問題ではないのだが、長年生まれ故郷で暮らしてきた人たちにとっては本当に大きな決断だっただろう。

コロナ騒動が終息したら、改めて被災地を回ってみたいと思った。

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震災といい、疫病といい、ある日突然日常が変わる。

誰も望まない苦難は思わぬところからやってくるのだ。

今日の夕方、センバツ高校野球の中止が決まった。

高野連も無観客でも大会を開きたいとしていたが、大規模イベントの自粛延長が要請された中で、苦渋の選択に追い込まれた。

個人的には、甲子園はやってもらいたかった。

人生には、個人ではどうにもできないことがある。甲子園出場が決まっていた高校球児たちは、今回の中止決定をどのように受け止めるだろうか?

やけを起こすことなく、この先長い人生を学ぶ貴重な体験に昇華してくれるといいなと思った。

小田和正さんの曲「東京の空」の中に、こんなフレーズがある。

自分の生き方で 自分を生きて
多くの間違いを 繰り返してきた
時の流れに乗って 走ったことも
振り返れば すべてが
同じに見える

長時間特番を指揮した東日本大震災の記憶は、なぜかこの歌詞に繋がる。

日常が突如破られ、無我夢中で行動した。後から考えると、「ああすればよかったこうすればよかった」と反省することばかりだ。

その後悔を取り返そうと、いろいろと努力したつもりだが、あの瞬間にできなかった後悔を取り戻すことはできなかった。

でも、あれから9年が経ち、一線から退いてみると、「同じに見える」という境地がよく理解できるのだ。

でも、小田さんの歌にはこんな救いがある。

がんばっても がんばっても
うまくいかない
でも 気づかないところで
誰かが きっと 見てる

被災者の皆さんには、くじけず、気負わず、がんばっていただきたいと改めて考えた9年目の3.11。

あの日とは、全然違う、暖かく晴れ渡った3月11日だった。

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