今日でやっと10月が終わる。
今月も異例の暖かさ、いや暑さであった。
ウクライナでの戦争が終わらないうちに起きたパレスチナでの戦争は、世界情勢をますますホットにし、先行きの見通せないどんよりとした不安を地球全体に及ぼしている。
ウクライナでは自由と民主主義を守るリーダーとして権威を高めたアメリカが、パレスチナの問題では初めからイスラエル寄りの姿勢を鮮明にしてそのあからさまな「ダブルスタンダード」には正直失望を禁じ得ない。
侵略戦争の当事者であるロシアがパレスチナでの即時停戦を訴える茶番。
相対的にウクライナでもパレスチナでも中立的な立場を取る中国が漁夫の利を得そうな情勢である。

しかしそんな中国から、「えっ?」と一瞬耳を疑うようなニュースが今月飛び込んできた。
今年の3月に退任した李克強前首相が27日、静養先の上海で心臓発作のため死亡したというのだ。
李氏はまだ68歳。
首相退任後はほとんど動勢が伝えられることがなかったようだが、8月にはシルクロードの敦煌を訪れた様子が中国メディアでも報道され、元気な姿と変わらぬ人気ぶりがその映像からは読み取れた。
反射的に、「殺されたのか」と思った。
もちろん根拠はない。
だから、真相に迫るような続報が出てこないかとそれ以来さまざまなメディアをウォッチしている。

ちなみに、この写真は李克強氏死去の一報を伝えた新華社の記事に添えられていたものだ。
「新華網日本語版」の記事は実に簡潔なものだった。
【新華社北京10月27日】中国共産党の優秀な党員、長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、傑出したプロレタリア革命家・政治家、党と国家の卓越した指導者で、中国共産党第17~19期中央政治局常務委員、前国務院総理の李克強(り・こくきょう)氏が27日午前0時10分、突発の心臓病のため、全力の救命措置のかいなく、上海で死去した。68歳だった。
中国共産党中央委員会、中華人民共和国全国人民代表大会(全人代)常務委員会、中華人民共和国国務院、中国人民政治協商会議(政協)全国委員会が27日発表した。
引用:新華網日本語
10年間にわたり習近平さんと共に首相として国を率いた重要人物の訃報にしては随分あっさりしていると感じた。
李克強さんは2期10年間、中国共産党のNo.2として習近平体制を支えたとはいえ、鄧小平氏の改革路線を継承するリーダーであり、習氏の子分ではなくライバル的な存在だった。
そして徐々にその存在感は薄くなっていき、

新たな「チャイナセブン」が選出され、李克強さんの退任が決まった去年10月の共産党大会。
李氏の後ろ盾だった胡錦濤前国家主席が途中退席させられる際に意味ありげに李氏の肩に手を置いたシーンはとても印象に残った。
習近平氏が指導部から改革派を一掃し、自らの子分を固めて、毛沢東時代に逆戻りしたような個人崇拝を強めていく中で、国民からの人気も高かった李克強さんは排除すべき厄介者になっていったように見える。
衝撃の一報から数日が経っても、李氏の死因を覆すような情報は出てきていないが、私と同じように当局の発表を疑う人はたくさんいるようだ。
評論家の石平さんが「現代ビジネス」に寄稿している一文は、私よりは多少根拠を持って李克強氏の死に疑問を投げかけているので、引用させてもらおうと思う。
李氏の死が伝わったその直後から、中央テレビらが発表した李氏の死因に対しては、国内外では多くの人々が様々な疑問点を挙げてその信憑性に疑念を呈し始めた。筆者の私自身もやはり、いわば「心臓発作死」に疑問を感じている一人である。
今まで、退任した中国共産党と国家の指導者たちは最高レベルの医療・保健を享受してほとんど例外なく80歳以上、あるいは90歳以上の超長寿であった。最近の例を挙げると、江沢民氏が死去したのは96歳、元首相の李鵬氏が死去したのは91歳。そして健在の元指導者たちのうち、元首相の朱鎔基氏は95歳、元首相の温家宝氏は81歳、前国家主席の胡錦濤氏は80歳である。
中共政権の歴代首相の中では、周恩来が78歳で癌によって亡くなったのは一番の「早死」であるが、それに対して、李克強氏が68歳の「若さ」で死去したのはいかにも異例なことであって一種の異様さを感じさせよう。
元共産党中央党校教授で今は海外亡命の蔡霞氏は27日の連続ツイートで、自分の知り得た共産党政権の内部事情からすれば、李克強レベルの元指導者たちは全員、医療チームによって健康状態が随時にチェックされているから、何の兆候もない突然の心臓発作の可能性が非常に低いのではないかと疑問を呈した。
中国国内でも、李氏が首相という激務を務めた10年間に「心臓発作」を起こさずにして、退任してから悠々自適の生活を送っている中で「心臓発作」とは何ことか、と不信感を表するネット上の声が多く見られた。
当局の公式発表では、李氏は26日に心臓発作を起こしてから「全力での救急治療を受けたのだが、効果なく死亡」とされているが、今、中国国内で出た情報では、李氏は発作の後に運ばれて行ったのが上海市内の「曙光病院」であったという。しかし「曙光病院」というのは上海中医(漢方医)大学の附属病院であって、慢性病の治療に強い漢方医治療を売り物にしているが、心臓発作などの救急が得意な病院では決しない。
上海では、心臓病治療・心臓発作救急に関しては、復旦大学附属病院の「華山病院」が最もレベルが高くて有名であるが、しかし心臓発作の李氏は最初からこの華山病院へ運ばれずに、漢方医専門の曙光病院へ運ばれて「救急」を受けさせたのは一体なぜか。それはまた、多くの人々が感じる疑問の一つである。そういう意味では、前述の中央テレビ・新華社通信速報が「全力あげての救急が行われた」と強調するこの態とらしさは逆に、人々の疑念を強める効果となっているのである。
もう一つ、当局の発表では、李克強氏は上海滞在・休息中に「心臓発作」して亡くなったとされているが、それもまた、疑問を感じさせる点である。
上海は習近平主席自身がトップを務めた都市であって、習近平側近の李強首相が前市長である。そしてもう一人の側近である丁薛祥副首相も上海が古巣の幹部である。つまり、上海こそは習近平派の牙城ともいうべき場所であるが、長年、習主席のライバルだった李前首相氏が上海を「休息」の滞在地と選んだのも不自然なことであって、そして上海で急死したことはやはり尋常であるとは思えない。
引用:現代ビジネス

李克強さんが育った安徽省の家の前には、弔問に訪れる人が後を立たず、当局が神経を尖らせていると伝えられている。
石平さんもこうした中国国内の反応に言及し、次のように書いている。
李氏の急死が発表された直後のネット上の反応を見ると、彼の死を惜しむ声や、彼の考え方や政治スタイルを高く評価する声が圧倒的に多かったことが分かる。李氏の故郷である安徽省合肥市では、彼が育った旧居には、万人以上の民衆が自発的に集まって献花していることは日本のメデイアでも報じられている。
その一方、彼の死を惜しむネット上の声の多くは、習主席のことを暗に批判しているような言い方していることが中国人ならすぐにわかる。つまり多くの国民は、まさに習近平政治に対する反発と反感の裏返しとして、習主席と対立関係にあった李前首相を意図的に持ち上げて賛美している面もあるが、このような風潮と動きはいずれ、死去した李克強のことを「反習近平」のシンポルに祭り上げていく可能性も十分にあろう。
中国共産党政権の歴史上では、人気のある指導者(あるいは元指導者)の死去が国民的政治運動のきっかけとなった前例はいくつかもある。
例えば1976年、国民に人気の高い周恩来首相の死去がその年の4月に発生した「第一次天安門事件」の引き鉄となったことは周知の史実である。あるいは1989年4月、同じく国民的人気のある胡耀邦前総書記の死が天安門民主化運動勃発のきっかけとなった。両方ともは、指導者の死を弔う群衆の集まりが大規模な群衆的抗議運動へと発展したケースである。
そして今、経済状況が悪化して若者たちの失業率が空前のレベルに達している今の状況下では、「李克強急死」が昨年11月の「白紙革命」に続く新たな全国規模の抗議運動勃発の導火線となる可能性は無いわけではない。
李克強氏の突然死あるいは不審死は、結局、「改革・開放」という時代の終焉を告げるのと同時に、「天下大乱」の動乱の時代の幕開けになるかもしれない。いずれにしても、10月27日という日は、中国史に残る重要な意味を持つ「歴史の日」となろう。
引用:現代ビジネス
石平さんは、安倍元総理を支持する反中派の人々との関係が深い評論家なので、多分に習近平体制の崩壊を望む希望的観測が含まれていると理解しつつも、習近平さんの露骨な独裁体制強化と経済の悪化に不満を抱く人たちもそれなりにいるだろうと想像する。
周恩来氏の死をきっかけとした「第一次」と胡耀邦氏の死をきっかけに起きた「第二次」。
2つの天安門事件はどちらも改革派リーダーの死を弔う国民運動という形で始まった。
もしも今回の突然死に習近平体制の関与が疑われる情報が出てきた時には、李克強さんが反政府運動のシンボルとなる可能性もあるかもしれない。

もう一つ、私が注目した、中国内部の権力闘争をうかがわせる記事を引用しておきたい。
李克強さんが亡くなる前の9月初めに書かれた、日本経済新聞の元中国総局長・中沢克二による『激震・習近平ウォッチ「習氏が北戴河会議で激怒 G20欠席、発端は長老の諫言」』という記事である。
複数の関係者らの証言を総合すると、この夏、河北省の有名な保養地である北戴河に共産党トップを経験した超大物といわれた長老はひとりも来なかった。それは当然である。
元国家主席の江沢民(ジアン・ズォーミン)は、2022年11月に96歳で死去し、前国家主席の胡錦濤(フー・ジンタオ、80)は、同10月の共産党大会の閉会式の場から、腕を支えられながら強制的に退場させられて以来、動静不明になっている。
本来、これは習にとって望ましい状況だ。実力のある、うるさい長老らが不在になったのだから。ところが、話はそう簡単ではなかった。むしろ、もっと複雑なことが今夏に起きていたのである。
折しも、中国経済は、「改革・開放」政策が本格化して以来、見たこともない未曽有の後退局面にある。恒大集団の苦境といった不動産不況が象徴的だ。若年層の失業率は、この夏から公表できないほどに悪化している。
中国軍は7月、明らかになった核・ミサイルを運用するロケット軍の司令官らの一斉失脚で混乱している。強硬な「戦狼(せんろう)外交」を主導してきた中国外務省でも大問題が起き、その余波が続いている。トップだった秦剛が理由不明のまま解任され、組織内に疑心暗鬼がなお広がっているのだ。
過去、中国共産党を支えてきた長老集団が、現状を心配するのは無理もない。「このまま政治、経済、そして社会の混乱が長引き、何ら有効な策も取れないなら、一般民衆の心が党から離れ、我々の統治そのものが危うくなりかねない」。そう真面目に思い始めたのである。
危機感を強めた長老らは、8月に開かれる焦点の北戴河会議に先立ち、独自に会議を招集し、現指導部に伝えるべき意見をとりまとめた。その場所は、北戴河ではなく、北京郊外だった可能性が高い。
そして、その長老らの「総意」を携えた代表者数人だけが今回、実際に北戴河入りした。共産党の統治を支える各重要部門の声を代表できる人物らである。彼らが、習ら現役指導部のメンバーと対峙した会合は、たった1日だけだった。
「これ以上、混乱させてはいけない」。長老の代表者は、習を前にして、従来にない強い口調の諫言を口にした。指摘された問題は、世界が注目する中国経済の低迷ばかりではない。政治、社会全般を含む広範な雰囲気である。
諫言の先頭に立ったのは、元国家副主席で江沢民の最側近だった曽慶紅だ。無名だった習が一気にトップになる道を開く上で、最も重要な役割を果たした曽慶紅も既に84歳になっている。
それでも、共産党の組織内に現在も陰に陽ににらみを利かせる実力者であることは変わらない。師事した江沢民が死去した今、長老を中心に幅広い人脈を持つ曽慶紅の役割は、逆に大きくなったという見方さえある。
世界に既に影響を及ぼし始めた問題は、まさにここから始まった。長老らから予想外の厳しい諫言を受けた習の内心が穏やかなはずはない。トップは別の場で怒りを爆発させた。それは、自ら引き上げた側近集団らの前だった。異様なその場面のほんの一端が、漏れ伝わってきている。
「(鄧小平、江沢民、胡錦濤という)過去三代が残した問題が、全て(自分に)のしかかってくる。(その処理のため、就任してから)10年も頑張ってきた。だが問題は片付かない。これは、私のせいだというのか?」
習は言外に「長老らが指摘した『混乱』は、過去三代による『負の遺産』のせいであり、ツケである。自らの責任ではない」と言いたかったのだ。この発言は、過去三代に抜てきされた長老らに対する形を変えた反論でもあった。
もう少し習発言の行間を読むなら「今も残る大問題を一つ一つ解決するのが、自分が登用してやったおまえたちの第一の仕事であり、責任でもある」という心の叫びが聞こえてくる。その叱咤激励には、強い怒りが含まれている。
習の不機嫌な様子を目の当たりにした側近らは震え上がった。なかでも、責任を感じたのは、共産党内序列2位である首相、李強だ。世界経済の足を引っ張りそうな大問題が次々と明らかになっている中国経済。それを仕切る司令塔、実務担当者は、李強その人なのだから。
中国経済が著しい不調に陥った原因のひとつは、対外関係の異常な悪化である。貿易が振るわず、対中投資も激減している。米国、欧州、日本など西側自由主義国家群との抜き差しならない不和は、中国の庶民の暮らしにも思った以上の打撃を与えた。
トップとして異例の3期目入りを果たした習。新型コロナウイルスを完全に封じ込める「ゼロコロナ」政策が成功し、中国経済も盤石と大宣伝してしまった手前、未曽有の危機への対応は遅れた。20年から顕著になった「民間大企業たたき」も企業活動の停滞につながった。
こんな状況で中国と仲の悪いインドが主催するG20首脳会議に習が自ら出席すれば、メンツ、体面を失う恐れがある。主要議題となる世界経済の行方を巡る議論で、中国が世界経済の足を引っ張っている構造が陰に陽に取り上げられるかもしれないからだ。
「権威あるトップを今、行かせるのは危ない」。これが習の側近集団の判断である。そして、この危うい局面では、中国経済の実務責任者である李強が、習の身代わりとしてインドに行くのが妥当、という結論になった。
習は、北戴河会議が終わった直後だった8月下旬、南アフリカで開かれたブラジル、ロシア、インド、南アとの5カ国(BRICS)首脳会議に出席した。だが、ここでも異例の行動をとっている。ビジネスフォーラムでの自らの演説を土壇場でキャンセルし、代読となったのだ。
こちらも、ビジネスフォーラムの会場で、思わしくない中国経済について習に直に問う「不規則質問」が万一、飛び出せば、メンツを潰されるとの心配があったから、という見方がある。
引用:日本経済新聞

この記事の最後、李克強さんの名前が登場する。
中国の内政は本当に複雑怪奇で興味深い。まさに「風が吹けば桶(おけ)屋がもうかる」というような不思議なことが起きる。それは、北戴河会議が終わった後の8月31日のことだった。
昨秋の党大会で、習によって完全引退に追い込まれた前首相の李克強(リー・クォーチャン)が、今年3月に首相から退任した後、初めて姿を現したのだ。しかも満面の笑みで。
5カ月ぶりに現れた場所は、中国北西部の甘粛省にある世界遺産、敦煌・莫高窟。突然の登場に興奮状態だった中国の女性観光客らは、黄色い声で声援を送った。「総理、総理〜。ニーハオ」と。
既に総理=首相は、今回、インドに習の代行で行く李強に交代している。だが、そんなことはお構いなしに甲高い声で「総理〜」と叫んでいる。その映像は、関係者らによって中国のSNSで広く流布されたものの、やはりすぐに削除された。
このエピソードからわかるように、中国国内では李克強のイメージがいまだ良いままなのだ。元気な李克強への「やらせ」でないリアルな黄色い声。いまの中国政治を象徴する場面である。
今年初めて長老の仲間入りした李克強は、北戴河会議を前に長老らのみが集まった重要会合に出席していたのは間違いない。かたや、李克強を完全引退に追い込んだ側の習は今夏、異例の長期間、公の場に出てこなかった。長老からの厳しい諫言を受けて、裏で対応策を練るのに忙しかったのである。
引用:日本経済新聞
中沢氏の記事がどこまで正確なものなのかは私には判断できない。
でも彼は、国際報道で顕著な実績を残したボーン上田賞を受賞した日本でも有数の中国ウォッチャーである。
周囲をイエスマンで固めた習近平さんが長老たちの諫言を聞いて怒り、更なる独裁体制強化に走っているのだとすると、中国の今後がますます心配になってくる。
改革派のシンボルが消えたことで、鄧小平氏が敷いた改革開放の時代は完全に終焉したと考えた方がいいだろう。
10年を迎えた肝入りの巨大経済圏構想「一帯一路」も各地で行き詰まりを見せており、この先、ライバルのいない「皇帝」習近平さんの矛先がどこに向かうのか?
世界の目がパレスチナやウクライナに注がれる中、中国でも重大な局面を迎えているのかもしれない。
李克強さんの棺は、11月2日北京で火葬され、天安門広場にも半旗が掲げられるという。