<吉祥寺残日録>昔の取材資料を整理していると、忘れていた「若気の至り」があふれ出す #211211

フィリピンのテレビ局を扱ったドキュメンタリー番組を見たのがきっかけで、かつて私がフィリピンを取材した頃の資料を引っ張り出してみようと思い立った。

いつかは整理しなければと思いながら、ずるずると放置したままになっていた取材メモや原稿の類だ。

私はもともと整理整頓ができないたちで、おまけに自分がやった仕事を大切に保管しておこうというタイプではないので、残っているのはごく一部だが、それでも家に持ち帰った仕事関係の資料などを妻が引き出しにまとめてしまっておいてくれたものがある。

何事もやったらやりっぱなしでさっさと興味が次へと移っていくという人間だから、これらの資料を見返すことはこれまで一度もなかった。

「要らないなら捨てて」と妻にはよく怒られていたのだが、その都度「そのうちやるからちょっと待って」と言って長年我が家の押し入れで眠っていた。

そんな引き出しをひっくり返して、その中からフィリピン関係のものを探した。

読み返してみると、忘れていたことばかり。

自分でもちょっと恥ずかしくなるような「若気の至り」が、そこかしこに残されていたのだ。

1986年2月に起きたフィリピン革命の前後、取材のために何度もマニラ入りした私は、昼間は一生懸命働いて夜になると毎日いそいそと仲間と遊びに出かける日々を過ごしていた。

当時私はまだ27歳。

若くして結婚してすでに子供もいた私だが、多くの日本人同様、めくるめくマニラの夜に完全にはまってしまった。

資料の中に、こんなメモが見つかった。

12月4日

夕食にケソンにでも行こうかと思ってタクシーに乗ろうとすると、昨日のポン引きがケソンまで30ペソで連れて行ってやると言う。普通ならホテルのタクシーで70ペソ、流しのタクシーで45ペソぐらいなのでその誘いに乗ることにする。それはいいのだが、運転手1人とポン引き2人を連れて歩く羽目になってしまった。目的のレストランに着く前に「グランド」というネオンが目に入った。昼間にデモ取材の時に目についた店で、エキサイティングショーと書いてある。ポン引き君に尋ねると、メシも食えると言うので3人を引き連れてその店に入ることにする。広い店内は2つのスペースに分かれており、手前はテーブルチャージがない代わりに踊り子が首からかけたタオルや布でオッパイを隠して、たまにしか見せてくれない。一方、奥はスッポンポンまで脱いでくれるが1人50ペソのチャージがかかる。3人も連れていたのでは手前で済ますほかない。メシは台に並んだ材料の中から好きな物を頼んで焼いてもらう。我々は鶏、イカなどを食べて料金は5人で200ペソ以下。特にうまいと言うほとでもない。

「グランド」を出てホテルに戻るつもりだったが、白黒ショーがあると言うので試しに観にいくことに。ホテルの近くでデルピラールより一本海寄りの道。薄汚い階段を上がると、ひなびた感じのバーがあり、その奥の扉を開けると4畳半ぐらいの小部屋につながっている。部屋の真ん中に診察台みたいな古ぼけたビニール張りのベッドがあり、それを囲むように四方の壁に長椅子が並べてある。我々は正面の長椅子にかけるように言われる。我々以外に誰も客はいない。中国人風のオーナーが10人ほどの女の子を連れてやってくる。好きな子を2人選べと言う。オーナーが1200ペソというのを800ペソまで下げて交渉成立。2人の女性が服を脱いで現れ、ベッドの上でレズビアンショーを始める。2人とも体のあちこちに傷やアザがあり、体全体が黒ずんでいる。同僚が選んだ少女は唇が厚く、目の表情のとても悲しそうな子だった。彼女は我々客の膝の上に横たわり、私が選んだ相手役の愛撫を受けながら義務的に喘いで見せた。

次に小柄な男が登場した。濃い褐色の肌は結構艶があり、女たちの死んだような肌と比べて美しかった。男は私の選んだ年増の女とセックスを始めた。アクロバティックな体位はプロを感じさせる。しかし、それは別に観ていて楽しい物ではない。裸電球に照らし出された男と女の行為は直接的すぎて何の感慨も呼び起こさず、むしろ2人の後ろの長椅子に我々と面と向うように座っていた悲しげな少女の方が印象的だった。無表情に虚空を眺めている。彼女には、何とも言えぬ存在感があり、完璧な悲劇のようだった。汚くて狭い部屋の中で、彼女の人生が見えるように思った。彼女は私と目があった時、一度だけニッコリしてくれた。しかし、それもとても悲しい微笑に思えた。私は男に抱かれている彼女の顔を見ながら、なぜかソマリアで死んでいった2歳の子供のことを考えていた。陽気なフィリピンのどす黒い影の部分を見てしまったような気がした。

暗い気持ちになったので、ホテルの地下のミュージックルームに行く。マルガリータやジャック・ダニエルを飲みながら、プリーズバンドの演奏を聴いていると、どんどん気分が和んでいく。やはりフィリピンは陽気な方がいい。

取材メモより

他にも似たようなメモがいくつもあったが、この白黒ショーはよほど印象に残ったようでかなり詳細に書き込まれていた。

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こうして夜な夜な飲み歩いていたことが仕事にも役立った。

あの当時の日本はバブル真っ只中、フィリピンからはジャパンマネーを求めて多くの「ジャパゆきさん」が日本を目指していた。

バンコク支局勤務を終えて、1988年に日本に戻り社会部に配属されると、その経験を生かして?「ジャパゆき問題」担当記者となった。

当時書いた記事が残っていた。

今月8日、千葉市内のスナックが売春容疑で摘発されました。ここでは、タイ人女性など8人がホステスとして働いていましたが、彼女らが持っていたのはすでに期限の切れた観光ビザでした。日本に出稼ぎに来るいわゆる「ジャパゆきさん」が社会問題になるにつれて、違反者の摘発も年々強化されてきています。こうして摘発された外国人たちは収容所に入れられ取り調べを受けた後、本国に送還されるわけですが、最近強制送還される人の中にはこれとはちょっと違ったケースが目立つようになりました。

ここ東京入国管理局には毎朝、強制送還を受けるため大勢の外国人が自ら出頭してきます。彼らはすでに十分なお金を蓄え本国に帰りたいと思っているものの、ビザ切れなどでそのまま空港へ行っても出国することが許されない人達です。そのためこうして自ら入管に出頭し違法行為を認めた上で強制送還の手続きを取るわけですが、今や彼らにとって強制送還とは帰国のための一種のステップに過ぎないように見えます。

すべての取り調べが終わり強制送還の命令を受けた後も、その多くが係官の付き添いなしに自分で空港に行き普通の旅行者と同じように出国していきます。彼らは帰りの航空券を自分で負担することを条件に「自費出国許可」という書類をもらっており、それを出国の際空港の審査官に渡し、代わりに出国のスタンプをもらいます。ちなみに強制送還の痕跡は出国スタンプの脇に小さく書き添えられる52−4という数字に残されるだけです。このように強制送還と言っても、多くの場合、言葉の持つ物々しい響きとその現実の間にはかなりの開きがあるようです。

私が書いた「ジャパゆきさん」関連のニュース原稿

さらに、番組の特集企画として「ジャパゆきさん」の現地ルポをした時の原稿も残っていた。

セブ島に最近、「スタジオ」と呼ばれる施設がオープンしました。これは日本にダンサーや歌手を送り出すマニラのプロダクションが開いた支店のようなものです。芸能人として日本へ行く女性が急増する中で、新しい女性を求めて送り出し業者は地方に進出するようになったのです。このスタジオでは日本の歌のレッスンも行われていました。

こうしたスタジオがどうやって女性を集めるのかを取材するため、タレント・コーディネーターという肩書を持つ男性に同行して、ある女子大生の家を訪ねました。タレント・コーディネーターは、日頃から高校や大学の先生に外国行きを希望する女の子を紹介するよう依頼していて、今日はそうして見つけた大学生の母親を説得するためにやってきました。母親が納得すると、後々問題が起こらないよう、専属契約に親のサインをもらいます。この女の子が将来オーディションに合格して日本に行った場合、タレント・コーディネーターは毎月1000ペソ、およそ7000円をスカウト料として受け取ることになります。こうして、合法・非合法さまざまなルートを通じて、フィリピン全土から女性が首都マニラに集められます。

マニラには現在、500社にも及ぶ大小さまざまなプロダクション、すなわちジャパゆきさんの送り出し業者が存在しますが、その大半はここ2〜3年の間にできたものです。プロダクションは、日本から招聘業者が訪れるたびに女性を集めてオーディションが開きます。そして日本人が合格とした女性に芸能ビザを取らせて日本へと送り出すのです。こうして日本にやってきた芸能ジャパゆきさんは、去年1年間で3万6000人に達しました。ただ、芸能ビザを取得するために必要なフィリピン政府の芸能人カードの密売や顔の似た別の女性のカードを使う違法行為も後を経たないようです。

今、マニラ最大の歓楽街エルミタ地区では連日のように警察の手入れが行われています。これはマニラの浄化作戦の一環として3月末から続けられているもので、警察は店の女性を全員連行しては簡単な取り調べの後釈放するということを繰り返しています。このエルミタ地区には、ゴーゴーバーが集まるデルピラール通りとカラオケバーが軒を連ねるマビニ通りを中心に1000軒とも2000軒とも言われる飲み屋がひしめいていますが、中にはすでに5回以上も手入れを受けた店もあり、客足は遠のく一方で、今までジャパゆきさんの最大の供給源となってきたこのエリアにもはや昔の面影はありません。一方で、こうした警察の動きはこの街で働くおよそ3万人と言われる女性たちを恐怖に陥れていて、手入れが始まって以来、日本行きを希望する女性の数はむしろ増えたと言われています。

増え続けるジャパゆきさんに頭を悩ます日本政府は、芸能ビザの規制強化を打ち出しました。これが実施されると来日する芸能人の数は現在の1割以下に激減するだろうと予想されているだけに、フィリピンの関係者の衝撃は大きく、1000人規模の抗議集会が開かれました。プロダクションの中には規制強化に備えて早々に女性を田舎に帰すところも現れていますが、芸能ビザがダメなら偽造ビザを使って女の子を送り込もうという悪徳業者がいるのも確かです。日本がジャパゆきさんの門戸を閉ざすと、フィリピンでは賃金の不払いや日本に残っている芸能人のたらい回しが頻発するだろうと囁かれていて、今後ジャパゆき業界が一層闇に潜ることが心配されています。

私が書いた「ジャパゆきさん」関連の企画原稿

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カメラマンから記者に職種がかわり、最初に担当したのが「ジャパゆきさん問題」。

今にして思えば若気の至りだったマニラの夜遊びもまったくの無駄ではなかったというわけだ。

当時の日本ではエイズの問題も大きく取り上げられ、ジャパゆきさんたちには強い逆風が吹き始めていた。

しかし私の原稿からは、無菌室のような日本社会よりもジャパゆきさんたちの生活を心配するようなトーンが透けて見える。

当時の私は、明らかにジャパゆきさんたちに肩入れしていた。

それだけ当時のアジアはまだ悲惨なほど貧しかったのだ。

表の政治のニュースを取材しているだけでは、苦しい庶民の暮らしはわからない。

若き日のマニラでのわい雑な経験は、その後の私の考え方や取材スタイルに少なからぬ影響を与えたことだけは間違いないだろう。

<吉祥寺残日録>「民主主義サミット」のまやかし!世界は専制主義国であふれている #211210

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