<吉祥寺残日録>日米開戦80年に考える「毅然とした主張」の危うさ #211208

今日は朝から冷たい雨が降っている。

ちょうど80年前の12月8日、新聞紙面やラジオから一斉に天気予報が消えた。

真珠湾攻撃によって米英との戦争に突入したため、天気情報が極秘扱いとなったためだ。

1941年12月8日は真珠湾攻撃の日として記憶されているが、同じ日、日本軍は多方面での戦闘を同時に開始した。

イギリスが支配していたマレー半島では東海岸のコタバルに上陸作戦が敢行され「第一次マレー上陸作戦」が始まった。

同じくイギリス領だった香港のほか、アメリカが支配するフィリピン、グアム島、ウェーク島、ミッドウェー島にも攻撃を開始する。

こうして日本による奇襲作戦によって始まった新たな戦争を東条内閣は「大東亜戦争」と命名する。

泥沼化していた日中戦争を新たな名前をつけることによって、アジアを植民地支配から解放するための戦いであると国民を洗脳したのだ。

こうして始まった太平洋戦争がどんな結末を迎えるのかも知らず、大半の日本国民は政府の「毅然とした」決断に歓喜した。

80年目の節目の日に、私は一本のテレビ番組を見た。

映像の世紀プレミアム「太平洋戦争 銃後 もうひとつの戦場」。

昭和15年4月に設立された「日本映画社」を軸に戦時中に行われた世論操作が描かれていく。

日本映画社、通称「日映」は、朝日・大阪毎日・読売の三大新聞と聯合通信が別々に持っていたニュース映画部門を統合した唯一の映画会社として、国策に基づき映画館で上映される「日本ニュース」を制作した。

軍の検閲を容易にすることが統合の目的であり、一時1000人ものスタッフが働いていた。

日米開戦の一報が伝わると、日映のスタッフはそれぞれの取材現場に飛び出していく。

「日映では、このまったくの不意打ちの発表で蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。私は首相官邸へ、他の者は陸軍省、海軍省あるいは街頭へと取材のために走った」

陸軍省に向かったカメラマンは、大本営に大胆な依頼をする。

すでに終わっていた開戦の会見を撮影のため、全く同じ人員、同じ形式で再現してもらったのだ。

歴史的な瞬間を伝える「日本ニュース」は翌日、映画館で急遽公開された。

日本ニュース第79号のタイトルは「隠忍実に八ヶ月 帝国遂に起つ」、そのニュース映画の中で再現された会見の映像が使われた。

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さらに日映は「ハワイ大空襲」というタイトルで日本ニュース第82号を正月向けの特報映画として上映する。

海軍が撮影していた極秘映像の存在を知った日映が軍を説得して上映に漕ぎつけた。

素人が撮影した揺れの激しい映像だったが、リアルな戦場を映したその映画は国民を熱狂させた。

「劇映画の上映中であったが、熱気でムンムンする館内の彼方此方から「ニュース映画をかけろッ」の声がして、ピューッ、ピューッと口笛まで混じり興奮そのものであった。その興奮をまのあたりに見て、私たちはみんなニュース映画の製作にある種の誇りを感じたものであった」

さらに昭和18年3月には、真珠湾攻撃をモチーフにした日本初の長編アニメ映画「桃太郎の海鷲」が公開される。

艦長の桃太郎が家来の動物たちとともに真珠湾に見立てた鬼ヶ島に攻め込み、ポパイのようなアメリカ兵を退治するという物語。

映画館の前には子供たちの長い行列ができたという。

真珠湾攻撃の成功を記念して毎月8日は「大詔奉戴日」として、戦意高揚に努めるよう法律で定められた。

ラジオ体操も、大勢を動員し一同が同じ動きをするため集団意識を高め精神鍛錬になると大いに奨励された。

また特殊潜航艇に乗り込み真珠湾攻撃に参加した9人の未帰還兵士は「九軍神」として神格化され、学校教育の教材となる。

作家・半藤一利の言葉が紹介される。

「開戦の時に私は小学校5年生、11歳。そんなに幼くても「神の国」に生まれたのだとすでに教えられていたように覚えています。世界のどこにもない神の国であるわが国はアジアの諸国を植民地から解放して大東亜共栄圏を建設してその盟主となる資格を持っているのだ。太平洋戦争はまさにそのためのもの、神の国は絶対に不滅なのである。1億よ、心を一つにして頑張れと」

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その後の日本ニュースは、軍に同行し欧米の植民地支配から解放したアジア占領地の映像を積極的に内地に伝えた。

石油やゴムという戦略物資を手に入れるためにジャワ島を攻略すると、面白いことに日本ではにわかに「マレー語ブーム」が起きる。

ここでいうマレー語とはインドネシア語のことであり、マレー語教室には生徒が殺到し、当時の人たちは見たことのない南国に憧れを抱くようになったという。

軍事目的を覆い隠す「大東亜共栄圏建設」という大義は、瞬く間に日本中に浸透したのだ。

作家・落合信彦が紹介される。

「戦争のおかげで、ぼくとジャングルが地続きになったのである。夜になると玩具の銃を持ち、ジャングルの中を歩く練習をした。早く南方に行きたいと願っていた。ボルネオ・スマトラ・ジャワの占領は永久に続くものと信じていた。<占領が続く>というよりもそれらの土地は全て<日本>の二文字になるはずであった」

日映は現地にジャカルタ製作所を設置して、軍部の意向を受けて現地の人たち向けのプロパガンダ映画を制作するようになる。

日本語教育だけではなく、日本と同じような隣組が組織され、防衛義勇軍も作られ、日映はその入隊を呼びかけた。

「労務者」と呼ばれた現地労働者の動員には、民族運動の指導者スカルノも担ぎ出して積極的に行われた。

インドネシアの「労務者」は日本軍の施設設営のために駆り出されただけでなく、東南アジアの激戦地に送られ炭鉱や鉄道建設も過酷な条件のもとで強いられた。

ジャワ島だけで250万人が労務者となり、数万人が命を落としたという。

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単に敗戦の歴史をなぞっただけでは、当時生きた人々の心のうちは理解できない。

事実、アジア諸国は欧米の植民地支配に苦しんでいて、明治以降の日本は欧米諸国に対抗する国力を身につけなければ自分たちも植民地にされてしまうという焦燥感の中で富国強兵に邁進してきたのだ。

そして日清日露の戦争に勝利し、朝鮮を併合し、満州国を作り、アジアの大国として欧米からも一目置かれる存在となった。

そうしたある種のプライドと、明治政府が押し進めた天皇の神格化が相まって、日本人はいつしか「神の国」という共同幻想を抱くようになる。

真珠湾の季節になると、なぜ無謀なアメリカとの戦争に突入したのかという問いが投げかけられるが、物事のスタートは真珠湾ではない。

日清日露に始まる中国大陸での戦争が生み出した数多くの「英霊」たちの存在が、日本の指導者たちの決断を縛ったのだ。

アメリカの要求を飲んで中国から撤兵すれば、これまでに死んでいった英霊たちに顔向けできない。

歴史に「もしも」を探すのだとすれば、それは真珠湾ではなく日中戦争が始まった1937年の夏だったのだろうと私は考える。

もしもあの時、近衛内閣が不拡大方針を堅持できていれば、日本は違う道を歩めたかもしれない。

しかし同時に、あの完膚なきまで敗れた敗戦がなければ、戦後の平和な日本もきっと実現していなかっただろうと私は思う。

後から歴史を振り返って、あいつが悪い、あの判断が間違っていたというのはたやすいものだ。

危機の時代にリアルタイムで生きている人間にとって、後世から見て正しい判断を下すことはとても難しい。

真珠湾攻撃80年の式典に臨んだバイデン大統領は、来年開かれる北京冬季五輪への政治的ボイコットを決断した。

強大化する中国に対抗することを最大の目標に掲げるバイデン政権だが、中国の台頭を押さえ込み、民主主義国家へと導く戦略は描けていない。

国内の統制を強め、軍事力の強化を進める習近平体制の中国は、戦前の日本に似てきているようにも見える。

香港の自治を崩壊させ、新疆ウイグル自治区ではイスラム教徒の迫害しつつ、今度は台湾の併合を明確に宣言している。

中国にとっては全て国内問題であり、大国としての自信を取り戻した中国国民の大半はこうした政府の方針を支持しているようだ。

もしも中国が本気で台湾の併合に動いた時、アメリカや日本はどう対抗するのだろう?

真珠湾攻撃80年関連の記事を探す中で、私の心に刺さる記事を見つけた。

『外交が「毅然とした主張」に取って代わられるわけにはいかない』

毎日新聞が掲載した元外交官の田中均さんの文章である。

日本の有権者、特に若い人々のあいだでこの10年間、保守ナショナリズムが徐々に高まっているとの認識を示したうえで、田中さんは「毅然とした主張」についてこんなことを書いていた。

 「毅然(きぜん)とした主張」をすべきだという考え方が間違っているわけではないが、毅然とした主張だけでは結果を作ることはできないのは明らかだ。外交の原則とは毅然とした主張をしつつ交渉をし、相手との調整のうえでウィンウィンの結果を作るプロセスである。

 筆者の外務省入省時、研修の教材として使われていたエピソードを思い出した。およそ90年前のこの日(1932年12月8日)、満州国問題を議論した国際連盟総会で松岡洋右首席全権は原稿なしで1時間20分にわたる大演説を行った。

 松岡は13歳で渡米し苦学してオレゴン大学を卒業した大変な英語の使い手だった。松岡が受けていた訓令は「日本の主張が認められなければ国際連盟脱退はやむを得ない」というものだったと伝えられる。

 翌33年3月の連盟理事会でリットン報告書をベースとした勧告が採択されると、松岡は勧告反対を明らかにし、席を立って退場し、その後日本は連盟脱退に至る。

 この松岡の毅然とした態度が日本国内で熱狂的に歓迎され、ポピュリズムにあおられた無謀な戦争へとつながっていったのは歴史が示す通りだ。

 松岡はその後、満鉄総裁や外相になり、戦後はA級戦犯で訴追され判決前に病死したが、まさに戦争に至る過程の当事者として何を思っただろうか。

引用:毎日新聞

日独伊三国同盟を主導し、ソ連のスターリンとも手を組もうとした松岡洋右。

アメリカとの戦争へと日本を追い込んだ間違いなく重要人物の一人であるが、彼は国民から絶大な支持を受けた。

小泉首相による北朝鮮電撃訪問をお膳立てした田中さんの目から見ると、「毅然とした主張」が国民の支持を集める今の日本はとても危なっかしく映るのだろう。

 今日、日本で「毅然とした態度」はあちこちで目に付くが、結果を作る外交の姿はほとんど目に付かない。韓国との関係では問題を作ったのは韓国だから、解決の提案を持ってくるまでは、意味ある首脳会談や外相会談はおろか、在京大使とも一回たりとも面会に応じない姿勢だ。

 中国との関係では中国をいかにけん制するかに注力しているようだ。外務省の最近の文章には、中国との対峙(たいじ)を念頭に置いた「インド太平洋」ばかりが目に付き、日本外交の中核的構想であった「アジア太平洋」協力は陰にかすむ。

 一方、防衛費の飛躍的拡大や「敵基地攻撃能力」、更には「台湾有事」といった事例は、従来は静かに取り組まれてきたものが、今日では喧伝(けんでん)することに意味があるかのように大々的に議論され報道されていく。本来有事を起こさないために外交努力を行うべきものが、そうした大々的な議論を行うのは「毅然とした態度」を示すことに意味があるということか。

 「毅然とした態度」に終始していればよいと外交当局や官邸が考えているわけではないと思うが、戦前の歴史がそうであったように、一旦、「毅然とした態度」に国民の支持が集まっていくと、合理的な政策形成が妨げられ、世論に乗っかった政策が追求され、ポピュリズムの悪循環が始まる。

 特に選挙が想定されている場合、国民の支持が得られる「毅然とした態度」に安易に傾いていくことにもなりかねないのだろう。

 今一度、外交の基本に立ち返ってみる必要があるのではないか。

引用:毎日新聞

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「外交の基本」が何であるか、私にはよくわからないが、確かにびっくりするような外交的な成果というものは、小泉訪朝以来見たことがない気がする。

「開かれたアジア太平洋」という安倍総理が生み出した戦略をその後の政府も踏襲しているが、その実態である中国包囲網は欧米を中心には少しずつ進展しているものの、韓国や東南アジアといった肝心なエリアでは思ったほどの成果を上げられないでいる。

戦前のナチスドイツや日本に対する包囲網が、結果的に戦争を防ぐことにつながらず、むしろ引き金となってしまったことは教訓とすべきだろう。

「毅然たる主張」をぶつけ合ってチキンレースを続けている間に、気づかぬうちに後戻りができない状況に陥っている。

そんなことにならないように、国民も表面的な「毅然とした態度」ではなく、硬軟織り交ぜた「したたかな外交」を政府に求めるぐらいたくましくならなければ今の平和を維持できない、そんな瀬戸際に立たされているような感じがしている。

真珠湾

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