このところネットで批判にさらされていたミュージシャンの小山田圭吾さんが辞任した。
3日後に迫っている開会式のオープニング映像の音楽を担当するはずだった。
問題となったのは20年前の雑誌に掲載されたインタビュー記事。
この中で小山田氏は、障害者の同級生をいじめていた過去を告白していた。
そのいじめがかなり悪質で長期間続いたものだったため、オリンピックの精神にそぐわないとしてバッシングされたのだ。
私は詳細は把握していないが、報道されている記事を読む限りでは確かに相当悪質ないじめであり過去のこととは言っても気分が悪くなる内容である。
小山田氏本人もネット上で謝罪のコメントを発表するなどしたが、批判の声は高まる一方で、ここにきてテレビのワイドショーでも取り上げられ、海外でも報道されるに至り開幕直前での辞任劇となった。
それにしても、ギスギスしているなあ、と感じる。
私は小山田氏を擁護する気などさらさらないが、とはいえ小山田さんもオリンピックに関わらなければ過去を蒸し返されることはなかっただろうと考えると、その風潮の方にも危険な匂いを感じざるをえない。
強硬なオリンピック反対派は、オリンピックに関連するあらゆるものを攻撃対象とする。
スポーツやアスリートのことは関係なく「五輪=悪」であり、自分たちが絶対的な正義だと信じているのがちょっと怖い。
所詮人間がやることなど、何事であれ完璧ということはありえない。
欠点を探そうと思えばいくらでも批判はできるものだ。
それでもある程度大目に見ながら世の中は回っているのだが、コロナ禍で人々の心がトゲトゲしてしまって普段ならスルーできる事柄でも気になって仕方がなくなっている。
そうした不満がネット上に吐き出され、それが蓄積されて大きなうねりとなり、それをメディアが大々的に煽り立てる。
今回の小山田氏のいじめ自慢のように批判内容が「正論」だと誰もそれを否定できず、準備していたものを次々に捨ててどんどん泥縄の危うい形になっていく。
みんなが自分の思っていることを主張できるということではいいのだが、その向かう先が建設的ではなく破壊的な方向なのがどうしても気になってしまう。
もはやネット空間の世論を無視できなくなってしまった現代。
でも、どこまでネット世論を尊重すべきなのかという新たな問題も生まれている。
インターネット掲示板「2ちゃんねる」の開設者として知られるひろゆき氏の言葉をたまたま目にしたので、ここに書き残しておく。
批判コメントを書く人は、「全体の1~10%の人」なんですよね。90%以上の人は、「ただ見ているだけ」です。僕はネットの裏側の数字をずっと見てきましたが、この数字は20年以上変わりません。一部の人がたくさん時間をかけて書き込んでいるだけです。 その特徴はたった1つで、「ヒマな時間とエネルギーを持て余している」ということです。少なくともネットに書き込み続けている時間は、友達や家族と一緒に過ごすことも、趣味に打ち込むこともしていません。
メンタルがやられてしまうタイプの人は、SNSはやめたほうがいいですよね。「暇つぶしでやってる」と割り切れる人たちだけでやるのが本来のネットの本質です。 2000年代に、ネット上で正しい言論空間を作ろうとした人たちがたくさん現れましたが、結局、すべてうまくいっていません。コミュニティを作ったり、出版に切り替えたりなど、「閉じた関係づくり」の方向に行きましたよね。 インターネットなんて、元からそういう性質のものなので、希望を持ったり期待なんかせずに、ほどほどに付き合ったほうがいいですよ。
引用:DIAMOND ONLINE
世論に耳を傾けることは重要だが、最後は責任者が腹を括って決断しなければ世の中は回らない。
「潔癖主義」が行きすぎた社会というのは、私のようなズボラな人間にはどうも生きにくい。
アメリカではバイデン政権が発足して半年が経った。
いまだに支持率は50%を上回り順調な滑り出しともいえるが、トランプ時代に深まった社会の分断は一向に改善せず、共和党支持者の多くは今も選挙に不正があったと信じている。
世界中の人たちが自分が見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じるようになり、対話や相互理解という戦後民主主義社会が育んできた大切なものはもはや風前の灯のように感じられる。
こうして社会の分断が進めば、統治のために中国のような強権的な体制が必要となってくるだろう。
力によって思想を統制し、言いたいことを言えなくする社会。
そんな社会は、御免だ。
明日にはもう、女子ソフトボールと女子サッカーの試合が始まる。
世界各地から選手たちが続々と来日し、それに伴ってコロナ陽性者も毎日見つかってニュースになっている。
オリンピック反対派の人たちは「それ見たことか」と言うのだろう。
しかし、大きなイベントには不測の事態はつきものだ。
むしろコロナ患者が出ることは真っ先に想定されていることであり、それをやりくりしながら大会は粛々と行われるはずだ。
ここまで来たら、私は余計な雑音を忘れてオリンピックを楽しみたい。
スポーツには、人々を感動させる力があり、社会を結束させる力があり、戦争を未然に防ぐ力があると信じるからだ。