<吉祥寺残日録>ウクライナ危機🇺🇦 軍事侵攻から半年!ロシアで進む言論統制と国民の無関心化は未来への重大な警鐘だ #220824

ロシアによるウクライナ侵攻から今日24日でちょうど半年を迎える。

この日は奇しくも、ウクライナがソビエト連邦から独立した記念日にも当たる。

ウクライナ東部と南部の戦線では膠着したまま両軍の消耗戦が続いているが、半年の節目を前にモスクワ郊外で一人の女性が殺される事件が起こった。

死亡したのはジャーナリストのダリア・ドゥーギンさん。

今月20日モスクワ郊外を走行中、乗っていたマイカーが爆破され死亡した。

彼女はロシアによるウクライナ侵攻を支持し、米英の制裁対象にもなっていた人物で、ロシアの防諜治安組織「ロシア連邦保安局(FSB)」は22日、爆殺事件はウクライナ情報機関による計画的なものと断定、実行犯として事件後エストニアに逃亡したウクライナ国籍の女を指名手配した。

これに対し、ウクライナ側はこれを完全否定し、ウクライナメディアなどによると、ロシアのイリヤ・ポノマリョフ元議員が、ロシアの反体制派地下組織「国民共和党軍」による犯行声明を公表したという。

彼女の死がとりわけ大きく報じられる理由は、ダリアさんの父親の存在がある。

彼女の父親であるアレクサンドル・ドゥーギン氏はロシアの著名な極右思想家、プーチン大統領の外交政策に影響を与えるとされ「プーチン氏の頭脳」と呼ばれることもある人物だ。

ドゥーギン氏はロシアがロシア語圏を統一することなどを主張し、プーチン氏が2014年、ウクライナ南部のクリミアを併合し、東部を実効支配する決定を後押ししたとされる。

ダリアさんの事件は、2014年以来ずっと続いてきたロシアとウクライナによる情報戦の一つにすぎない。

長期化する戦争の中で、真実はどんどん見えにくくなってしまった。

この半年間、私はウクライナ問題を扱った数多くのテレビ番組を見てきた。

悲惨な戦場の様子や一般市民の悲劇もさることながら、私の心を揺さぶったのはロシアで進んだ徹底的な言論統制とメディアへの弾圧だった。

いつの時代も戦争は世論の統制とセットで行われる。

デジタルの時代となっても、権力側が批判を覚悟であらゆる手段を動員すると、情報をコントロールするのはこれほど簡単なのかというのは長年メディアに関わってきた人間として強烈なショックを覚えた。

今日は、そんな番組の中から特にメディアに関するものを書き残しておこうと思う。

まず最初はEテレ「ドキュランドへようこそ」で放送された『権力と闘う あるロシアTV局の軌跡』。

イギリスで制作されたこのドキュメンタリーは、ロシアの独立系テレビ局の10年を追ったもので、2014年以前のロシアのメディア状況も理解することができる。

「メディアを支配する者が思考を支配する」というジム・モリソンの言葉から番組は始まる。

ジム・モリソンは1969年代に活躍したアメリカのロックバンド「ドアーズ」のボーカリストで、詩人としても知られる。

この番組からロシアメディアの盛衰を引用していく。

2008年、あの頃のロシアはまだビジネスチャンスに満ちているように見えました。白い邸宅とピンクの車の持ち主ナターシャ・シンデエワにとって、全ての道が新たな冒険に通じていました。そして次のパーティーに参加する格好の口実でした。

モスクワでFMラジオ局を経営していたナターシャは、街のダンシングクイーンでした。夫となる男性も正確にイメージしていました。

ナターシャ「うとうとしながら考えてました。私はとってもいい子にしているから、王子様と結ばれる資格があるわって。私を愛し、大事にしてくれて、花や贈り物をくれて、背が高くて頭が良くて性格がいい人。サーシャはそれにピッタリの人でした」

引用:『権力と闘う あるロシアTV局の軌跡』

ナターシャは、「サーシャ」こと投資家のアレクサンドル・ヴィノクロフと結婚する。

サーシャは投資銀行で資産を築き、ナターシャのアイデアを叶えてくれた。

それはナターシャが自分のテレビ局を作るという夢である。

ナターシャ「私の暮らしに政治が入り込む隙間はありませんでした。もちろん自分の国の首相や大統領の名前ぐらいは知っていたけど、政治には全く興味がありませんでした。2000年代に経済が良くなると私たちはみんな政治から目を逸らし、選挙にも行きませんでした」

サーシャ「ロシア経済はまるでステロイドでも打ったように活気づき何でもできるような気がしました。ナターシャと話をしました。どうして普通の人たちのテレビ局がないんだろう。自分たちで作ったらどうかとね」

引用:『権力と闘う あるロシアTV局の軌跡』

ナターシャはすぐにモスクワの最高級ビルの中にオフィスを構え、テレビ局の名前は「ドシチ 楽天的チャンネル」、テーマカラーはピンクに決めた。

「ドシチ」とは英語のレイン、すなわち雨テレビである。

ナターシャ「夏の雨って気持ちがいい。虹が出たり裸足で走りたくなったり。雨は私の冒険」

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「ドシチ」が設立された2008年、大統領を2期務めたプーチンは首相に退き、ロシアに新しい大統領が登場した。

ドミトリー・メドヴェージェフである。

サーシャ「メドヴェージェフは言いました。人生で一番大切なのは愛だと。愛が一番大事だと語る人物が大統領になったのなら、ロシアは完璧な国になると思いました。でも彼はいい人のふりを楽しんでいただけ」

しかしサーシャの銀行は2008年の金融危機で破綻、「ドシチ」はダウンタウンの安い物件に引っ越すことになったが、2010年4月ついに開局に漕ぎ着けた。

当初は素人丸出しの放送を出していた「ドシチ」だが、転機が訪れたのは2011年1月24日、モスクワのドモジェドヴォ空港で自爆テロ事件が起きた時だった。

国営テレビのチャンネルは全て通常放送を続ける中、「ドシチ」だけがこの事件を生中継で伝え続けた。

さらに週に一度、詩を使った風刺番組を開始する。

有名な詩人のスタイルをもじってメドベージェフ大統領とプーチン首相のやりとりを描くと、週を追うごとにネット動画の再生回数が伸びていった。

ナターシャ「開局前私は普通のライフスタイルで文化的知的なチャンネルを想定していました。でも情報の渦の中で、いろんなことを知るうちに自分たちはこんなに多くの不正に囲まれているのかとはたと気づいたんです。以前の私が知らなかったことでした。不正を知った以上、意見を持たずにいられませんでした」

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2011年12月に行われたロシア下院選挙。

「ドシチ」は選挙に不正があったことを詳細に伝え、モスクワでは反プーチンの抗議デモが盛り上がった。

デモを取材していた「ドシチ」の記者が拘束され、大統領府の高官から怒りの電話がかかってきた。

ナターシャ「お前たちはアメリカ政府の嘘を撒き散らしている。よくもそんなことができるなと。私は国営メディアの人間ではありませんから、自分たちが正しいと思う報道をしますと言い返すと、それならお前たちをぶっ潰してやると言われました。非常に不愉快でした」

2012年5月6日、プーチンの3度目の大統領就任式の前の日には、抗議デモを中継していた現場からの回線が切断された。

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2014年1月19日、ウクライナの首都キーウで大規模な衝突が起きる。

親ロシアの大統領に抗議するデモ隊と治安部隊の間で最初の市街戦が起きた時、ロシア国内の報道は二分された。

国営テレビは「ファシストが警察の特殊部隊を焼き払った」と繰り返し伝え、「ドシチ」は多角的に放送した。

その6日後、「ドシチ」は第二次大戦のレニングラード包囲戦を終結記念日に合わせてある視聴者投票を実施した。

テーマは「住民の死を防ぐためレニングラードは明け渡すべきだったか?」。

ネット上では激しい議論が起きたが、この企画が政府の介入を招き、プーチン大統領は記者団に次のように述べた。

『ドシチは興味深いテレビ局です。しかし彼らは過ちを犯しました。単なる過ちではなく、わが国の多くの市民に対する侮辱です。彼らは犯した罪を認めて身の振り方を考える必要があります』

翌日には議会が「ドシチ」を非難する声明を発表し、次の日にはすべての通信中継業者が「ドシチ」の放送を止め、1日にして視聴者とスポンサーを失っていた。

これを機に「ドシチ」は生放送の有料化に踏み切る。

ナターシャとサーシャは住んでいた豪邸などの財産を処分し「ドシチ」の運営費に充てた。

2014年7月、ウクライナ東部で旅客機が撃墜される事件が起こる。

ロシアの国営テレビは事件を次のように伝えた。

「事故直前、上空に戦闘機が目撃されていました。ウクライナの攻撃機は旅客機のそばで何をしていたのでしょう? どのように撃墜を? インターファックス通信の速報によると、ウクライナのミサイルはロシアの大統領専用機を狙っていた可能性があるとのこと」

一方、「ドシチ」では・・・

「Q. ウクライナ側の見解は? A. プーチンは親切にもウクライナ東部の武装勢力に地対空ミサイルを供与していました。武装勢力は自分が何をしているのかわからないままミサイルで旅客機を撃墜してしまったのです」

ウクライナ東部では激しい戦闘が起こり、ロシア兵がそれに加わっている疑惑が流れたが、プーチン大統領はそれを完全に否定した。

しかし、「ドシチ」はウクライナで捕虜となったロシア兵を取材し放送し、亡くなった兵士の墓も調査しようとする。

すると墓の取材をしていた記者が何者かの襲撃を受け、ナターシャも尾行を受けるようなった。

視聴契約者は急増したが、1ヶ月後「ドシチ」は立ち退きを強制された。

活動拠点を失った「ドシチ」は代わりの物件を必死で探すが、正体を明かした途端断られるということが続き、仕方なくナターシャたちが所有するマンションがテレビ局となった。

その後「ドシチ」にオフィスを貸すという所用者が現れ新たな活動拠点を手に入れたものの、有料放送の契約者数はわずか6万人、社会への影響力は限定的だった。

そんな中で2019年7月モスクワ市議会選挙から野党候補が排除され再び大規模な反政府デモが起きると、「ドシチ」は一部の番組を公開し今ロシアで起きていることを広く伝えようとする。

しかしその直後、「ドシチ」は警察の強制捜査を受ける。

さらにサイバー攻撃によってインターネットが遮断され番組の配信もできなくなった。

こうしてロシアの政治に翻弄され続けたナターシャと「ドシチ」のスタッフたちだが、コロナ禍の2020年4月開局10周年をオンラインで祝った。

ナターシャは言う。

ナターシャ「会社を閉めるべきかどうかこの1年ずっと考えてきました。でももう考えるのはやめました。なぜドシチが必要なのかわかってきたからです。私たちの任務は人々に説明することです。複雑な状況の中で社会の案内役になることです。がんを摘出した時、体の中から余計なもの、悪いものが取り除かれて気持ちが軽くなった気がしました。そして今、私は直感しています。ドシチは絶対存在すべきだと」

そして番組のエンディング、黒画面に白抜きでこんなテロップが流れる。

2020年夏、ドシチはニュース番組の無料配信を開始

1年後、ロシア法務省から「外国の代理人」と指定された

2022年2月24日、ウクライナ侵攻で24時間報道を開始

6日後、当局の圧力により閉鎖

記者たちは国外避難を余儀なくされた

引用:『権力と闘う あるロシアTV局の軌跡』

バブルに踊ったダンスクイーンが立ち上げたテレビ局が辿った10年の歴史は、プーチンの野望と共に変質するロシア社会の歴史そのものかもしれない。

もし主人公のナターシャが最初から反体制のインテリジャーナリストだったら、このドキュメンタリーが面白くなかったに違いない。

社会で起きた出来事をそのまま伝えようという自然な行為が国家によって阻まれる現実。

それは古今東西、強権的な政府のもとでは常に行われてきた常套手段である。

そんな厳しい状況の中で、最後まで自分たちが見た現実を伝えようとした「ドシチ」の人たちに元テレビマンとして強い共感を覚えた。

もう1本は、今年7月に放送されたBS1スペシャル『ロシア ジャーナリストの闘い』。

ウクライナ侵攻後の3月4日に成立した通称「フェイクニュース法」のもとで必死で活動を続けようとするジャーナリストをリモートで取材した番組である。

「軍に関する“フェイクニュース”を伝えると最大15年の禁錮刑。何がフェイクにあたるかは国が決める」というのが法律の中身だ。

番組の中では閉鎖された「ドシチ」の最後の放送も流された。

CEOのナターシャの言葉。

「再びお目にかかりたいと思いますがどのような形になるか今はわかりません」

視聴者に対する感謝の言葉を残して、スタジオに集まったスタッフたちが立ち去る形で放送は終わった。

でもこの番組の主人公は「ドシチ」ではない。

独立系ラジオ局「モスクワのこだま」で活動していた女性ジャーナリスト、タチアナ・フェルゲンガウアーさんがこの番組の主役だ。

2018年タイム誌のパーソンオブザイヤーにも選ばれた彼女は、ウクライナ侵攻後「ロシア国民の敵」と呼ばれ国営テレビでも名指しで批判された。

彼女がジャーナリストとして活動を始めたのは2005年、「モスクワのこだま」に参加してからだ。

政権批判を恐れない「モスクワのこだま」は社会問題や政治問題に特化した報道機関で、100万人のリスナーがいた。

タチアナさんは副編集長として現場の最前線に立ち、放送中に警察や役所に直接電話をかけ厳しく追及した。

タチアナ「ひどいプロパガンダが横行しているロシアでは独立系メディアの存在は特に重要です。人々は真実を知る必要があり、国がもたらす嘘に抗う必要がありました」

しかし2月24日、ウクライナへの軍事侵攻が始まると言論の自由が制限されていく。

「モスクワのこだま」はロシア国内での反戦デモについても伝えたが、すぐに放送の停止に追い込まれ、3月3日に解散する。

活動を止められたメディアはテレビや新聞、ネットメディアなど181社にのぼった。

「フェイクニュース法」が成立する前日だった。

タチアナ「これではジャーナリストは仕事ができません。その後のテレビは目を覆いたくなる内容です。ロシアのプロパガンダの世界では、特別軍事作戦が行われ、ナチスと戦い、占領された町が解放されるという作り話で溢れているのです」

タチアナさんは新興のYouTubeチャンネル「生きる釘」を仲間と立ち上げ、そこをベースに活動を再開した。

法律ギリギリの線を探しながらゲストとトークする。

タチアナ「こんにちは。司会のタチアナ・フェルゲンガウアーです。ゲストは作家・詩人のレフ・ルビンシュテインさんです。今日は“言葉”について話しましょう。”戦争”という条件下で言葉は否応なしに・・・」

レフ「その言葉、使っていいの?」

タチアナ「私は使いますよ。まさにこういう話をしたいわけで・・・。聞くのが怖いですが、今“愛国心”という言葉はどうでしょう?」

レフ「10年はその言葉を忘れた方がいい」

タチアナ「なぜですか? とてもいい言葉なのに。私は自分が愛国者だと思います。自分の国が文明国であるために力を尽くしています」

レフ「ターニャ、私もそうだよ。でもその言葉はすでに奪われているんだ。もしあなたと知り合いでなく“私は愛国者だ”と言われたら、私は違うものを想像するだろうね。今、愛国者と呼ばれるのは、指導者や当局の人間と彼らに同調する人たちだ。悲しませたくないけど、この国はもう文明社会ではない」

引用:『ロシア ジャーナリストの闘い』

フェイクニュース法が施行されたロシアでのハラハラするトーク、とても勇気のいる仕事ぶりである。

自主規制について問われたタチアナさんはこう答える。

「今はどの話題を話しても、沈黙したとしても、国から迫害を受ける時代です。ただしロシア軍の死傷者には言及しません。軍事作戦の詳細にも触れないようにしています。触れればすぐに刑事責任を問われるので。”戦争”は“戦争”と呼びます。全てジャーナリズムの基準に従っています。私は黙り込むことはできません。誠実なジャーナリストでありたいのです。身の安全のために黙っていようと思ったことはありません」

しかし皮肉なことに、西側の制裁によりYouTubeがロシア国内での広告事業をやめ、タチアナさんたちのメディアは収入をたたれてしまう。

それでも「生きる釘」での活動は続き、この日は社会学者とのオンライントークで密告について取り上げた。

タチアナ「こんばんは。今日はロシア国民の話です。今、“密告”が相次いでいます。生徒が教師を告発するなど」

社会学者「我が国は全体主義的な傾向になっています。こうした中では、人々は恐怖で互いを密告し始めます。少数でも密告者の存在が黙認されると、あらゆる集団が破壊されてしまうのです」

引用:『ロシア ジャーナリストの闘い』

国外に出る気はないかとの質問に対し彼女の答えは・・・

「国外には出たくありません。ここで何が起きているのか、人々の心や状況、街の様子がどうなっていくのかを自分の目で確かめたいんです」

タチアナさんは5年前にもラジオ局内に侵入した男に襲われ重傷を負ったことがある。

その時も国外への出国を勧められたがロシアに留まったのだ。

襲撃の1ヶ月後、プーチン大統領に事前承認を受けていないこんな質問をぶつけた。

タチアナ「今、オレグ・ナワリヌイ氏が全く根拠のない告発で刑務所に入れられ、他の著名人たちが不当に勾留されるなど間違いなく“弾圧マシン”が動いています」

これに対しプーチン氏は、「多くの問題があることについてはあなたに賛成です。ただ法律が正しく機能していないとは思えません」と答えたが、タチアナさんは多くの人が見つめる中でそのブレない姿勢を貫いた。

5月、文化人のアンドレイ・アルハンゲルスキー氏を招いてのオンライントーク。

タチアナ「ロシアには多様な人々がいますが、政府の支持層として想定されるのはどのような人々でしょうか?」

アンドレイ「過激に支持する層は5%から10%程度だと考えます」

タチアナ「一方で今起きている凄惨な出来事に対し態度を示さない人々もいます。寝転がってテレビを見て垂れ流される情報を受け入れる人たちのことです。彼らが政権に対して黙ってうなずくだけでなく行動することを要求される日がきたら行動するでしょうか?」

アンドレイ「タチアナ、あなたは前提が間違っています。現段階では政権が人々に行動を求めることは考えにくい。現在の悲劇の中でさえ、人々は政権に対して積極的な支持表明すら要求されていません。ハルキウやブチャなどで起きている惨劇に気づかなければそれで十分なのです。爆撃されたクラマトルスクの駅のホームに残された子供たちのリュック、あのカラフルなリュックに反応しなければいいのです。このような惨状に気づかせず何もさせないことが政権の狙いなのです」

引用:『ロシア ジャーナリストの闘い』

アンドレイが指摘したようにロシアでは今、ウクライナ情勢に無関心な人たちが増えているという。

NHKスペシャル『ウクライナ侵攻半年〜 “プーチンの戦争” 出口はどこに〜』の中で興味深い数字が紹介されていた。

7月に行った調査で「ウクライナ情勢に関心がありますか」との問いに対し、ロシア人の43%が関心がないと回答した。

無関心の比率は若者ほど高く、18〜24歳では61%、25〜39歳でも58%が関心がないというのだ。

戦争に反対する声を力でねじ伏せた結果がこの数字に表れているように感じた。

タチアナさんへの誹謗中傷は日に日に増え、ジャーナリストに対する締め付けもますます強まっている。

タチアナ「祖国が侵略国家になった感覚は恐ろしいものです。逃げ場がありません。その感覚は内側から焼き尽くすような痛みです。一度もプーチンに投票していないし、18年かけてこの政権がロシアを破壊していることを伝えてきたし、真実を伝えようとしてきました。ですが物凄い罪悪感にさいなまれています。神様、なぜ私の国は悪の存在になったのか。完全な無力感。内側から壊れていく感覚です。それでもちゃんと真実を見据えなければなりません。目をつぶるわけにはいかないのです」

5月19日。

結局悩んだ末、タチアナさんはロシアを出国することを決め、リトアニアに旅立った。

タチアナ「ロシアにいていろんな出来事を自分の目で見てみたかった。しかしある時一つの考えに至りました。タチアナ、刑務所ではこれがどのように終わるか目撃できないぞ。刑務所の中では国営放送が流れている。そこでは全てがどう終わるか見せてはもらえない」

彼女の気持ち私にはとてもよくわかる。

ジャーナリストは決して反政府であることが目的ではなく、自分が生きた時代を自らの目で目撃したい人間なのだ。

権力がそれを許さない時、ジャーナリストの選択は2つ。

国内で戦って拘束されるか、それとも国外に出て活動を続けるか。

間違っても権力におもねって自らに恥じるような仕事はしたくないと信念を貫けるかどうかで真のジャーナリストかどうかが決まるのだ。

今ロシアのジャーナリストに対して起きていることは、いつの時代でもどこの国でも起こりうる古くて新しい問題だ。

戦争になれば必ず起きるであろう言論統制。

なぜリスクを負ってまで事実を伝えるのかと問われたタチアナさんの答えがとても強く心に残った。

タチアナ「仕事ですから。好きな仕事であり、できる仕事であり、やりたい仕事です。これに尽きます。ジャーナリストであり続けたいから真実を伝え続けるのです」

戦時下のジャーナリスト、すごく格好いい答えだと思った。

ウクライナ

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