<きちたび>ロシアの旅1990🇷🇺 ソビエト連邦崩壊の前年、無秩序が蔓延するロシアで見たもの

🇷🇺ロシア(ソ連)/ モスクワ&ノボクズニエツク 1990年2月27日~3月16日

ウクライナへの軍事侵攻を続けるロシアのショイグ国防相は9日、南部ヘルソン州の州都ヘルソンを含むドニプロ川西岸からの部隊撤退を命じた。

当然プーチン大統領も承認したものと思われるが、2月の侵攻開始以来ロシア側が唯一支配してきた州都を失うことは、ロシア側にとって大きな打撃となることが予想される。

ロシア軍は、川の東側で戦線の立て直しを急ぐが、同時に「汚い爆弾」を含む核兵器の使用やダムの破壊といった不測の事態も考えておかなければならないだろう。

ウクライナ側にとっては大きな勝利とはいえ、ロシアが去ったヘルソンには多くの仕掛け爆弾などが残されていることが予想され、部隊を慎重に進める意向のようである。

Embed from Getty Images

しかし、ウクライナでの戦況悪化はプーチン政権の足場を危うくする可能性もある。

思い起こされるのはロシアの前身であるソビエト連邦がアフガニスタン侵攻に失敗し、長期化する戦争がソ連の国力を奪い、ついには連邦崩壊の引き金となったことだ。

ベルリンの壁が解放された翌年、私は社会主義陣営の盟主だったソビエト連邦各地を取材した。

リトアニアでの取材から戻った後、モスクワでさまざまな市民のありのままの生活を取材したほか、シベリアの炭鉱にも足を伸ばしてみた。

それまでソ連の取材というと完全に当局のコントロール化にあり、彼らが見せたいものしか取材できなかったが、ゴルバチョフが進めたグラスノスチ(情報公開)によってそれまで見たことのないソ連の姿を各地で目の当たりにすることになる。

当時の取材メモと写真をもとに、超大国ソ連崩壊の前年、私がロシアで見聞きした状況を書き残しておきたい。

2月27日(火)曇り、雨

前夜の9時過ぎ、リトアニアからモスクワに戻ってきた。雪はすっかり溶けていて雨が降っていた。温度計は6度、異様に暖かい。

クレムリンの前にある「ロシアホテル」にチャックイン。とにかく信じられないほど巨大なホテルで、廊下が異様なほど長くてロビーから自分の部屋にたどり着くのに一苦労する。

晩ごはんを食べていなかったので、モスクワで一番近代的な「メジュドゥナーロードナヤ・ホテル」までタクシーで行ってみたがレストランはすでに閉まっていて、カフェテリアでビールとチーズなどを食べる。タクシーは行きが5ドル、帰りは5ドル+マルボロ1個取られる。ホテルのロビーには明らかに娼婦と見られる女性が行き交う。

朝10時、モスクワ支局に顔を出し、テープの交換をしたり日本の新聞を読む。ノーボスチ通信の日本課長ドゥートキン氏が支局までやってきた。

12時半、メジュドゥナーロードナヤ・ホテルの日本料理店「桜」へ。寿司や焼きうどんなど7人で450ドル、びっくりするほど高い。

15時半、ロシア民族主義団体「パーミャチ戦線」を取材。バシーリエフ氏にインタビューする。彼らの主張はロシア革命以前のロシア帝国への回帰。ロシアの文化を守ること、共産党によって破壊された修道院の建物を建て直すことを主張している。帝政ロシアの何が良かったのかと聞くと、「天皇のいる日本に似ている。日本は天皇がいるから悪くなかった。ロシアはツァーリ(皇帝)がいなくなったからダメになった」と語る。パーミャチ戦線は1985年から政治団体となり、この時にはロシア全土40ヶ所に支部を置いていると説明した。

18時20分、ユダヤ教会を取材。インタビュー代として100ドルを要求される。頭に何か被らないといけないと言われ、マフラーを畳んで頭に乗せる。頭を隠すものは何でもいいというが、変なものを頭に乗せる方がよほど失礼な気がするが・・・。フェドロフスキー氏にインタビューすると、ロシア民族主義の台頭でこのところ亡命するユダヤ人が増えていると語った。帝政時代のロシアではユダヤ人の大量虐殺が起きた。この時にも、ユダヤ人虐殺の日がすでに決まっているとの噂が広まっているとして、自身も恐怖から亡命を考えていると言った。

2月28日(水)曇

15時、コンピューターソフト会社「パラグラフ」を訪ねる。この会社が開発した「ペレストロイカ・ゲーム」というコンピューターゲームを取材するためだ。

このゲームは、官僚主義の象徴である30階建ての建物が舞台。この建物の中には長い廊下がありその両側にたくさんの扉が並んでいる。部屋にはそれぞれ赤い服を着た官僚たちがいて、隙を見て部屋に入り額の中の肖像画を1分以内に描き変えられればその部屋の官僚はペレストロイカ(改革)された緑色に変わる。もしも失敗すれば「出ていけ」と追い出されるという単純なゲームだが、兵士やKGB、警察も登場し、肖像画に描かれるのはゴルバチョフやエリツィンのほか、レーニン、スターリン、ブレジネフ、マルクス、ホメイニ、レーガン、ブッシュ、サッチャー、コールなど多彩だ。

ただ製作者のパチコフ兄弟は、このゲームにちょっとした皮肉を込めていた。すなわち、すべての官僚をペレストロイカにして赤から緑に変えても、結局色が変わるだけで官僚社会には変化がないということだ。そして、肖像画の中には遠くから見るとヒトラーで近づくとスターリンに変わるものもあった。

「パラグラフ」は1989年6月にソ連科学アカデミーとアメリカの会社の合弁会社として設立され、民間のソフト会社としてはソ連最大だという。75人いるプログラマーは全員ロシア人で、子供たちのコンピューター教室も運営している。トップ6人の中にはチェスの世界チャンピオン、カスパロフ氏もいるというので、米ソ接近という時代背景の中でロシアでは不思議なものが次々に生まれていたことがわかる。

18時半、メジュドゥナーロードナヤ・ホテル2階のレストランでショーを見ながら夕食。このホテルにはプールとサウナがあり、1時間半で8.50外貨ルーブル(約2000円)。この後、「ペレストロイカ・ゲーム」の原稿書き。

3月1日(木)

朝からレポート撮り、荒編をしてテープをDHLで東京に送る。この先の取材アレンジで夕方まで潰れる。

21時半、レストラン「オリンプ」へ。「アレックス・ショー」という人気のセクシーショーを取材する。モスクワ国家演劇芸術大学の学生であるクジマーさん(33)がリーダーで、ソ連各地からメンバーを集め1987年にこのショーを立ち上げた。クジマーさんは黒海近くのアルテック市の出身で、パスポート上はソチ市民、元々はピアニストで舞台監督もしていた。子供が2人いて妻は現在妊娠中だと語った。

知り合いの音楽家を集め、女性を集めて2ヶ月間の練習を経てショーを始めたのだが、面白いのはほとんどのトップグループが協同組合という形式を取っているのに対し「アレックス・ショー」は国のグループとされていることだ。ラトビアのリガにあるコンサート協会に属す国営のセクシーショーということだが、その実態は私営。すべてリーダーの金で運営していて、税金の関係で、私営になるメリットはないという。最近外国にも行けるようになり、アメリカに3週間行き、5月にはクウェートに2週間行く予定だそうだ。インタビューに対しクジマーさんは、自分は愛国者ではないし住みたい所もないと語った。芸術は政治から距離を置き、この仕事に政治はあまり関係がないという。移住や亡命の希望はないが外国で働きたいと淡々と話した。

ショー自体はなかなか色っぽいものだったが、その撮影代として200ドル取られ、お店の店員にも少しずつ金を要求され、ドライバーにも残業代として50ルーブルを支払った。

3月2日(金)雨

10時半、パーミャチ運動の取材。先日取材した「パーミャチ戦線」と名前が似ているが全く立場が異なる。社会主義体制を守り、国を守るためには命を捨てるのも厭わないと主張する。ドアを開けると軍服姿の男が2人現れ、日本の右翼的な雰囲気を持つ異端の団体だ。ただ純粋にソ連共産党と一体ではなくロシアの民族主義にも傾倒していて、制服は赤軍だがシンボルマークはツァーの軍隊のものを使用しているという。2月のデモで警察と揉めて逮捕され、それ以来反政府に転換したそうだ。

12時半、「アレックスシュー」のダンサーたちと待ち合わせて、彼女たちのレッスン風景を取材する。3週間前から活動を始め、ロンドンからダンス教師を招いてレッスンを受けているという。

15時、モスクワ唯一の高級エステ「ジェンシェン美容院」を取材。髪を切るだけなら15ルーブルだが、カットのほか、日焼け、マニキュア、マッサージ、サウナ、ジム、メイクからコーヒーまでセットになったコースが人気で、週1回通い1日ここで過ごす客が多いという。1988年にオープンし、モスクワには他に似たようなお店はないのでいつも混んでいる。案内してくれたドゥドエコフさんは食料品倉庫の副署長をしていたそうで、今は3人でこのエステを経営している。従業員は22人でここは給料が良く労働環境がいいと自慢した。客は1日100人ほどでモデル、女優、アナウンサーなどが多いと説明されたが、通訳のマカロチキンは「みんな娼婦だ」と囁いていた。

この高級エステもそうだが、1988年以降ソ連では「コーペラチブ=協同組合」という自由度の高い経営方式が認められ急速に様々な分野に広がっていた。16歳以上の3人が集まってお金を出し合えば作れる。90年初めにはソ連全土で13万の協同組合が作られ、300万人が働いている。協同組合を作るには資料を揃えて共産党地区委員会に提出すると1ヶ月で許可が降りる。かつてのソ連では考えられないスピーディーさだ。この美容院も構想から完成まで半年ででき、一番大変だったのは場所を確保することだった。開業資金は銀行から借りた。手続きは大変だが、4月に法律が整備されれば、新しい建物を建てて美容室のほか語学学校やレストラン、ショップや展覧会場を作る計画も持っている。イブ・サンローランと契約し化粧品を扱えるようにするという。あまり値段を高くすると国から締め付けられるため加減が大切だと言いつつも、最近2年でモスクワでも金持ちが増えたと話す。協同組合への商品の横流しも横行し、国営の小売業での物不足に拍車をかけていた。

21時、協同組合の中華レストラン「ゴールデンドラゴン」で夕食。味はまあまあで値段は4人が腹一杯食べて80ルーブル、およそ2000円ほどだから、日本料理店「桜」の茶碗蒸し1杯よりも安い。この国の価格体系はどうなっているんだろう?

3月3日(土)

午前中はインタビューを編集したり補足の撮影をして過ごす。

15時、私たちの担当を外れるマカロチキンに残業代500ドルを払うと外貨ショップで電気製品を買いたいというので付き合わされる。車を止める際には警報ブザーをセット、ブレーキを固定する道具をかけてワイパーも外して車内に隠す。とにかく泥棒が多いとのこと。

20時半、グルジアマフィアが経営するレストランで夕食。モスクワの夜を取材する中で見つけた。店長も店員もいかにもその筋の人といった印象だ。ショータイムには、露出の多い服装でサックスを吹く女が客席を回り、トップレスの女性と男が芸術的なダンスで絡み合う。店内を隠し撮り、食事代は400ルーブルとかなりお高め。

22時、レニングラードホテルにあるカジノに入ろうとするが、私がブーツを履いていることを理由に断られた。コスモスホテルのディスコには夜の女たちが集まっていると聞き様子を見に行くが、入り口のチェックがあまりに厳重で気分が悪いのでやめた。このホテルでは去年、マフィアの派手な喧嘩があり、それ以来警備が厳しくなっているという。

3月4日(日)モスクワで初の晴れ

複数政党制で初めて争われるロシア共和国最高会議選挙の投票日だが、私は企画取材を続ける。

11時、アレックスショーのメンバーの暮らしぶりを取材するためにツーリストホテルへ。リーダーは妻と娘と3人で、ホテルの部屋で暮らしていた。部屋は19階で眺めはいいがやはり狭い。リーダーのクジマーさんにインタビューする。

1980年のモスクワオリンピックで多くの外国人がやってきてショービジネスが盛んになった。この時はあまりうまくいかなかったのでもっといいショーをやろうとアレックスショーを作った。国営のショーとされているが実際は私営のショーで利益は自分で決める。以前よりは少しマシになったがあまり儲からない。この業界で金持ちになった人はいない。遊びを商売にしているが自分自身は遊ぶことを知らない。ショーやディスコ、ビデオサロンはかなりでき、テレビも面白くなってきたが、自由主義国のように遊べるようになるのは今後の課題だ。将来は自分の劇場を作り、1年を通して活動すること。

歌手やダンサーの女の子たちにも話を聞いた。関心はもっぱら仕事とファッションのことだ。28歳のナターシャと22歳のタチアナはカリーニングラード出身、25歳のもう一人のタチアナはウクライナの小さな町、28歳のネーリヤはカザン、23歳のスウェータはボルガ川に近いナーベレジェニ・チェルネという村の出身だという。彼女たちの話で面白かったのは、誰かに許可を求めれば許可が必要だが、聞かなければ許可はいらないという話。官僚と相談すればするほど許可がたくさん必要になるというのが官僚主義の本質なのかもしれない。

13時、女の子3人と一緒にモスクワ一の繁華街アルバート通りで撮影する。モスクワで最もファッショナブルな街と言われるだけあって、明るい雰囲気がある。しかしせっかくの歩行者天国なのに、絵画しか売っておらずもったいない。メジュドゥナーロードナヤ・ホテルに立ち寄り、ホットドッグとコーヒーでランチを食べるが女の子たちの反応はイマイチ。どうやら入り口で娼婦と間違われ厳しく咎められたらしい。

20時、ツーリストホテルの近くにある朝鮮料理店へ行くと、韓国メディアのクルーが食事をしていた。冷麺の汁の中にインスタントラーメンのような麺が入っている。焼肉は不味くはないが味が単調。

22時、メジュドゥナーロードナヤ・ホテルでマカロチキンとの打ち上げ。ビールがなくて残念だった。

3月5日(月)雪

今日から、通訳がシューマコフに変わる。ちょっと心配。午前中モスクワ市内の撮影をした後、ロシア民族主義のレポート撮り。荒編のために立ち寄ったモスクワ支局で食べたインスタントラーメンが最高に美味しく感じる。ノーボスチ通信でVTRのダビングをしてもらおうと思ったが、ボルコフがおらず2時間半待たされる。夕方、DHLで素材を送り、ロシアホテルに戻ってシベリア取材のための荷造り。

22時半、モスクワ空港発。ボルコフとシューマコフが一緒。機内泊。アエロフロート機にしては座席は広い方だがやはり最低。夜中の12時にメシが出て、無理矢理起こされる。子供も泣き叫び寝られない。

3月6日(火)

6時、ノボクズネツク空港着。モスクワとの時差は4時間。日本との時差は2時間しかなくまだ外は真っ暗だ。ノーボスチのケメロボ支局から2人が迎えに来ていて安心する。車はなんと日産のワゴン。ソ連に来てこんなに美しいワゴン車に乗るのは初めてだ。

7時半にホテルに入り、シューマコフに「取材開始は3時からにしてとりあえず1時に会おう」と告げて寝る。ところが・・・

11時、ドアの激しいノックで叩き起こされる。シューマコフたちがいて、ヘリコプターが到着し時間の変更ができないので来いという。唖然としながら、しぶしぶ従う。

12時半、町外れの空き地に軍の大型ヘリが停まっていた。日本人のカメラマンと助手が眠そうに乗り込む。クズバス炭田を上空から撮影する。クズバス炭田はソ連最大の炭鉱で、谷を丸ごと削り取る大露天掘りが行われ、その中を列車が走り回っている。この圧倒的なスケール、やはりソ連だ。

14時、クズバス炭田の一つ、ラスパッドスカヤ炭鉱に着陸する。前の年の夏、全国に広がった炭鉱ストの発火点となった場所だ。ここは露天掘りではなく、日本と同じく竪穴に掘り進んでいく。2日前の3月4日に労働者による自主管理が認められたという。ソ連でただ一つ、歴史的なことだ。

エフトゥシェンコ炭鉱長にインタビューする。1989年7月10日、隣のシュビアコーワ炭鉱でストが始まり、その日のうちにこの地区の他の炭鉱も後に続いた。原因は、①住宅や学校、日用品が足りず社会発展が不足していること、②炭鉱労働者の賃金がこの3年ほどで一般労働者と同じ水準に落ちたこと、③ペレストロイカの影響で昔はあまり問題とならなかったことを労働者が問題とするようになったこと。炭鉱長はそう説明した。ストは4日間続き、他の町にも波及した。労働者と国が話し合い夜間手当や不足物資の輸入など40項目で合意、ようやくストは解決に向かうもののまだ要求の半分が実現したに過ぎない。

そこで労働者は炭鉱を自分たちで所有することを国に要求した。石炭相は1月に新しい所有形態の検討を指示、3月4日正式に自主管理が認められた。労働者が国家に金を払って炭鉱を借り、そこで働き、利益は自分たちで配分するという。生産した石炭のうち600万トンは国に売るが、残りの100万トンをどこに売るかは自分たちで決めることができる。ウラルの製鉄所に国よりも高く売るつもりで、外国に売る場合は別に許可を得る必要がある。

16時半、翌日の打ち合わせを済ませ、メジュドゥレチェンスクという街で食事。ソ連国営テレビ「ゴステレ」の駐在員2人も合流する。食事後、この町にあるホテルで宿泊。

3月7日(水)雪

7時20分、ホテル出発。薄暗い町、電気をつけたバスでの出勤風景。寒さのため、道の上で雪が転がるように舞う。

9時10分、ラスパッドスカヤ炭鉱で「労働の安全性に関する集会」を取材。冒頭所長があいさつ。「もう自主管理が始まった。これからは自分たちで決めねばならない。責任はもう移ったんだ」

まさにソ連で始まったばかりの「自主管理」という実験は多くの矛盾を秘めていた。できたばかりの自主管理機関は議長3人が決まっているだけでそれ以外はまだ決まっていない。各炭鉱の労働者の集会で選ばれた70人の代表が決めっていて、その中にはこれまで管理業務をしていた人も入っているが大半は労働者の代表であり、モスクワからの命令に代わってこれからは最高決定機関である「勤労者会」が経営方針を決めなければならない。とりあえず、勤労者会の会長は労働者の代表、副会長は以前に副所長に決まった。

労働者の98.6%を組織している労働組合のゴルバチョフ委員長にインタビューする。活動が変わりどう活動するか決めていない。配分、利益の問題もこれから。今後はストはやらず話し合いによって解決する。まずは管理側と労働者の間の契約を作る必要がある。給料を上げたり労働条件を改善したり住宅問題など要求の細かい内容を作らなければならない。会社の性質が変わっても管理はいつまでも管理で労組は元のまま必要だ。

営業担当のプロスクルニヤ副所長にも聞いた。どこに売るか、どうやって売るかまだ決まっていないが、なんとか解決しなければならない。国に買ってもらうほうが楽かもしれないが労働者が炭鉱の主人公、こういうことも大切だと語った。

15時半、炭坑内部の撮影に備え私たちも着替えをする。白いサラシの下着を履き、ブカブカのズボンとベスト、上着を着る。頭には布の帽子とヘルメット。足にはビロードのような布を巻いて長靴を履いた。火災のリスクがあるという理由で撮影用のライトの持ち込みは許されず、炭坑夫が使う暗いカンテラライトを4つ持ち、バッテリーはベルトで腰に固定した。非常用の酸素マスクを渡されるが、まるで旧日本軍の飯盒のような容器に入っていた。

16時半、歩いて炭坑の入り口へ。坑道にはトロッコがあるが使わないらしい。坑道の中は石炭の細かい煤でけぶっていて息苦しい。思わず咳き込む。真っ暗な坑道を案内のおっさんについて1.5キロ進む。途中道を間違えたりしながら低い天井に頭をぶつけないように腰をかがめて、やっと取材する現場に辿り着いた。回転刃のついた掘削機が動き、コンベアーで削り取った石炭が運ばれる。このあたりでは天井はますます低い。カンテラの明かりで撮影するがやはり暗いし、石炭は黒い。なかなか大変な取材だ。身動きもままならない狭い坑道の中でなんとか顔出しレポートも撮って引き上げるが、こんな場所で一日中作業を強いられる炭鉱労働者の苦痛が痛いほど身に染みる。

19時、坑道から出てシャワーを浴びる。ホテルに戻って夕食を済ませ、夜中まで原稿書きに追われる。

3月8日(木)女性の日

朝、ノボクズネツクを出発しモスクワに戻ってきた。雪が降っていてドミトリエフが出迎えてくれた。

13時半、メジュドゥナーロードナヤ・ホテルにチェックイン。モスクワで一番近代的なホテルだが、部屋からはやはり電話がかけられない。炭鉱取材のインタビューをチェックする。シューマコフの通訳なので4時間もかかってしまった。ドイツビアバーで夕食。ビールとソーセージしかない。

夕食後、部屋にこもって原稿書き。

3月9日(金)日曜の振替休日

ソ連に来てから1日も休みを取っていなかったので、この日と翌日スタッフを休みにする。

公衆電話を使って家と会社に電話をかける。プリペイドカードは1枚50外貨ルーブル、日本円で7500円。これでわずか5分しか話せない。

10時過ぎ、ドミトリフと合流し市内観光に出かける。

ロシア正教寺院は、パーミャチ運動でも感じた陰気さがある。正面には聖人を描いた絵「イコン」が掲げられ、老婆の遺体が2体、みんなに見えるように安置されてある。ロシア特有の暗さの源を見た気がした。

モスクワ大学前の展望台にのぼり、自由市場に入ってみる。野菜や果物がふんだんに並ぶ。客を勧誘する光景はソ連では珍しい。ザクロが4個で7.50ルーブル、チーズが3.50ルーブル、コーカサス風のピロシキが1枚50カペイカ。物を買うというのはどこでもなんとなくウキウキするものだ。青いカーネーションも売られていた。

市場を出てランチはピロシキ屋へ、1個17コペイカ。この店のはピロシキというよりもただのミートパイだ。

13時20分、クレムリン。城壁の中はなんということもない。「鐘の王様」という巨大な鐘があった。途中、政治局員のリムジンが通り過ぎるが、警備の車もついていない。全体的にソ連の心臓部というわりには観光客がゾロゾロいて警備が手薄な印象を受ける。

14時、赤の広場。聖ワシリー寺院は近くで見ると、壁の模様も色褪せて冴えない。案外広くないと感じる。この後、プーシキン美術館を経て、ベリオスカ・スーパーに立ち寄り牛乳、プリンなどを買う。ドル払い。夕食はイタリアレストラン「アルラシーネ」。ホテルに戻り原稿書き。

3月10日(土)雨

この日もスタッフは休み。私はホテルで原稿書きやボイスレポートを撮る。モスクワ支局の記者がホテルに遊びに来て北京飯店で一緒に夕食を食べる。

3月11日(日)雪のち晴

リトアニアがソ連からの独立を一方的に宣言したこの日、私はソビエト連邦を構成するアゼルバイジャン共和国の代表部を訪れる。ゴルバチョフが複数政党制と共に強力な大統領制を導入することを決めたことについて聞くと、「時期尚早だ。各共和国の意見を聞かないと」と批判した。

13時半、巨大な屋外温水プール「モスクワプール」で市民のインタビュー。大統領制への移行について聞くと、多くに人が賛同したものの、「もっと厳しくやったほうがいい。そうすれば秩序ができ、もっと良くなる」という男性や「ソーセージや石鹸や洋服が一番重要なのではなく、問題なのは道徳が落ちたこと。子供をどうやって教育するのか」とゴルバチョフを批判する女性もいた。

この頃、モスクワの最先端スポットだった「マクドナルド」の前でも市民のインタビューをした。「支持します。欠点もあるけど、他に大統領になる人いない」「複数政党制がいい。もっと競争があったほうがいいと思う」「もっと遊ぶところが欲しい。若者はやることがない」などみんなそれぞれ好きなことを口にする。

酒場の前に行列している人にも聞いた。「彼は好きじゃない。大会などで話すときに威張って見える。国民に対する態度も威張っている」

こうした市民のインタビューを荒編して、12日から始まる人民代議員大会のニュースで使えるよう支局に届ける。

20時、インドレストラン「デリー」。なかなかまともだ。

3月12日(月)人民代議員大会

大統領制導入と憲法改正を決める歴史的な会議の取材でモスクワ支局は大忙し。電話番を手伝う。

16時、モスクワ支局長と一緒に国営放送局「ゴステレ」に向かう。支局から30〜40分ほど離れているが運転手がおらず支局長自ら雪道を運転する。ゴステレのスタジオを借りて夜のニュースに生出演する支局長のサポート役で東京とのコーディネーションを担当するが、結局電話が繋がらず全く役に立たず。

20時、モスクワで最も有名な協同組合レストラン「クロポトキンスカヤ」へ。バイオリンとピアノの演奏あり。

3月13日(火)人民代議員大会2日目

10時、モスクワ大学で哲学科のゼミを取材。モスクワ大学は厳しいスターリン建築の中でも最も絵になる。女学生たちのファッションも決まっていて美人が多い印象を受けた。学生たちに授業後残ってもらい社会主義や民族問題について意見を聞く。なかなか多彩。

14時、モスクワ大近くの協同組合レストラン。グルジア料理が美味い。香辛料が効いていてアジアの料理に近い。

17時、ソブインタースポーツ。ここはソ連スポーツ委員会の貿易会社で、一流スポーツ選手を海外に送り外貨を稼いでいるという。サッカーとアイスホッケーを中心に、バレーボール、バスケットボール、競輪などの選手をヨーロッパやアメリカのチームに送りだし外貨を稼ぐ。受け取った外貨の50%は選手が所属するクラブや競技連盟が取り、外国チームとの交渉を行うこの会社の取り分は4%程度、残った金が選手本人に入る仕組みだ。当初はスポーツ委員会が自ら始めたことだが、扱う選手の数が増え、1987年にこの会社が作られた。

3月14日(水)大統領制可決

11時、モスクワ第43学校で11年生(16歳)の社会科の授業を取材する。マルクス主義の勉強はこの1年だけ、週2回歴史と社会の授業が行われるという。担任のレオニド・カツワ先生は「ブレジネフ時代について教科書が古くなったから読まないほうがいい」と生徒に伝え、所有権法が載っている新聞を教材として使った。この日の授業のテーマは「私的所有と社会所有がどう違うか」。国家所有と言いながら、その実態は共産党と官僚主義者の所有で、一番搾取しているのは国家だったと教えた。

午後は自由市場と国営商店での取材を行い、ホテルでインタビュー切りをする。

21時、レストラン「アルバート」に行くと、なんと娼婦たちのための席が用意されていて驚く。

3月15日(木)快晴 ゴルバチョフ大統領就任

ソ連の教育現場についてのレポートを荒編し、DHLで東京に送る。

テレビではゴルバチョフの大統領就任演説を繰り返し放送していた。

1990年3月15日、ペレストロイカをさらに推進するためにゴルバチョフは大統領制を導入し自らソ連の初代大統領となった。

保守派の巻き返しによる求心力の低下を挽回する狙いだったが、急速な改革によって国内は混乱し、共産党内では西側に譲歩しすぎだとしてゴルバチョフへの批判は高まる一方だった。

そして翌1991年8月に起きた保守派のクーデターにより休暇中のクリミア半島で一時身柄を拘束され、ロシア共和国のトップだったエリツィンによって窮地を救われたものの、両者の立場は逆転しこの年の12月、ついに大統領辞任とソビエト連邦の解体に追い込まれる。

大統領就任からわずか1年9ヶ月、ソ連の初代大統領は最後の大統領となってしまったのだ。

当時日本をはじめ西側諸国ではゴルバチョフの人気は絶大で、超大国ソ連がそれほどあっけなく最後を迎えるとは思っても見なかった。

日本で見聞きする報道はあくまで外形的なものばかりで、密室で繰り広げられる権力闘争を正確に知るジャーナリストは存在しなかったと言ってもいい。

ウクライナ侵攻で思わぬ泥沼にハマり込んだプーチン大統領も、徐々に厳しい立場に陥る可能性もあるだろう。

さまざまな憶測は飛び交うが正確なところはなかなかわからない。

ソ連崩壊当時の状況はそんなことを私に強く印象付けたのである。

<吉祥寺残日録>ソ連崩壊から30年!あの歴史的な日を私はモスクワで取材していた #211225

コメントを残す