責任能力

金正男暗殺のニュースは、連日テレビで大きく取り上げられている。真相はわからない。いわゆる業界でいうところの「言った者勝ち」のニュースだ。適当な推測を言っていても誰からも文句が来ない。お茶の間で推理を語り合うのと同じレベルでいろいろな推測を巡らすことが赦される類いのニュースだ。

一方、大きなニュースでなくても本質的な怒りを感じるニュースもある。きのう報じられたこのニュースには温和な私もちょっと怒りを覚えた。

昨年10月、集団登校の列に軽トラックが突っ込み、小学生ら7人が死傷した事故。容疑者の88歳の男性について、横浜地検は認知症との自覚がなかったとして不起訴処分としたというのだ。その理由が許しがたい。日経新聞の記事によるとこうだ。

『これまで家族から運転をやめるように促されたことも、認知症の通院歴もなかった。認知症との自覚がなく、事故を引き起こすことが予見できなかったため、過失責任が問えないと判断したとみられる』

冗談じゃない。そんな判断はありえないだろう。これだけ連日のように高齢者による交通事故が報道されている中で、「事故を引き起こすことが予見できなかった」という説明を遺族が納得するはずがない。

もちろん、記事からは窺い知れない特別な要因があるのかもしれない。しかし、高齢者の運転を自粛させる意味からも、このケースはきちんと罪を問うべきだ。

報道の仕事に携わってきて、「責任能力」という言葉には何度となく遭遇した。多くの場合、精神障害者が事件を起こしたケースに、その事件をニュースで扱うべきかどうかを判断する場面だ。

刑法第39条。

1.心神喪失者の行為は、罰しない。
2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

今回のケース。認知症は心神喪失者に当たるのか。88歳の老人の場合、車を運転する際、正常な判断や操作ができない可能性が高まることはもはや常識ではないのか。88歳で認知症の症状が出ることは何の驚きもない。それまでに全く症状が出たことがなかったとしても、何の意外性もない。

これは明らかに刑法第39条の拡大解釈だ。そもそも日本の司法においては、39条の拡大解釈があまりにも多い、と私は思っている。被害者からすれば、精神障害者に殺されるのも、健常者に殺されるのも全く違いはない。

「責任能力」とは何か。

刑法では、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力をいう。しかし、それが判断できない人の場合、通常の人と比べて罪が軽くなる理屈が私には理解できない。善悪が判断できなくても、結果罪を犯した場合には処罰される、その方が公正ではないか。

この事故では、小学一年生の田代優くんが死亡した。利発そうな写真がテレビ画面に映る。88歳が奪った6歳の命。私が加害者だったら、自分が許せないと思う。

私は、世の中の大勢とは違うだろうが、「長生きのリスク」を常に意識している。無批判に「長生き」に価値が与えられている社会に疑問を持っている。80歳以上生きることは「リスク」だと思う。医療の進化がもたらした「死なない社会」。それは価値ではなくリスクだと思う。現役生活を65歳で終えて、なお20年以上年金で生き続ける。人様の犠牲の上に生きているのだ。その自覚が今の年寄りにはない。自らの死に様に関する美学がなさすぎる。かつての日本人とは大違いなのだ。

「責任」ということでいえば、東芝の経営問題も腹立たしい。

ここにきて噴出した東芝の経営危機はアメリカの原発大手ウィスティングハウス買収に始まる。その決断を下したのは、当時の西田社長とその後社長に就任した佐々木氏だ。彼らは2年前の不正経理問題で辞任した。その不正経理も元を正せば原発事業の経営判断の間違いを覆い隠すために行なわれた。責任の所在はある意味で明確なのだ。

東芝は、西田氏、佐々木氏とその後継者である田中社長を含む5人を相手取り損害賠償の訴訟を起こしている。しかし、歴代3社長は自らの「責任」を潔く認めることはないようだ。文春オンラインにこんな記事が出ていた。

 

『東芝を解体に追い込んだ原因は、2006年に6600億円を投じて買収した米原発メーカー、ウエスチングハウス(WH)を核とする原発事業の不振だ。歴代3社長が引責辞任した粉飾決算はそれを隠すための「化粧」だった。

WH買収を決めたのは当時社長の西田厚聰。実際の交渉に当たったのは当時、原子力事業の担当役員で西田の次に社長になる佐々木則夫だ。

米国で初めて商用原発を作ったWHはゼネラル・エレクトリック(GE)と並ぶ重電の名門企業。だが1979年のスリーマイル島の原発事故以来、34年間、米国内では新規の原発を建設しておらず、東芝が買収した時点で、その経営状態はボロボロだった。

そこに2011年3月の東京電力福島第一原発事故が追い打ちをかけた。東芝とWHが30年ぶりに米国で受注した4基の原発は、安全基準が大幅に厳格化されたことで、当初の見積もりを大きく上回ることが確実になった。

本来ならこの時点で、事業計画を見直し減損損失などを計上するべきだった。米国の監査法人は減損処理を要求したが東芝は拒否。「原発事業は順調」と言い続けた。この時期の東芝社長が田中久雄だ。

東芝を解体に追い込んだのは、西田、佐々木、田中の歴代3社長である。粉飾決算が発覚すると、怒った株主は東芝に対し、彼らと、彼らに仕えた2人のCFO(最高財務責任者)の5人に損害賠償を求めることを要求した。東芝が5人を訴えなければ株主が代表訴訟を起こすことになる。東芝は止むを得ず5人を提訴した。

こうして2015年11月、東芝が歴代社長・副社長の5人を訴える異例の裁判が東京地方裁判所で始まった。事件番号は「平成27年(ワ)31552」。当初の損害賠償請求額は3億円だったが、証券取引等監視委員会の勧告により73億7350万円の課徴金を支払ったことから東芝は2016年1月、請求額を32億円に引き上げた。均等に割ると一人6億円強。負ければ退職金も水の泡になりかねない金額だから、被告の5人は必死である。

2015年11月7日に始まった裁判は被告の希望により非公開とされており傍聴できない。しかし裁判の記録は東京地裁に残されており、閲覧は可能だ。

血のバレンタインを招いた歴代3社長。彼らが法廷で見せた厚顔ぶりをとくとご覧いただこう。

訴状によると争点は4つ。

《1》インフラ関連事業にかかる会計処理

《2》テレビ等映像機器の製造販売事業における経費計上にかかる会計処理

《3》ディスクリート、システムLSIを主とする半導体事業における在庫の評価にかかる会計処理

《4》パーソナルコンピューターの製造販売事業における部品取引等にかかる会計処理

これらの事案で東芝は「不適切な会計処理」(粉飾決算を指す東芝用語)が行われていたことを認め、5人に対し「取締役としてそれを止める義務があったのに責任を果たさなかった」という「善管注意義務違反」を問うた。

《1》のインフラ事業の中にはWHなどの原発事業も含まれている。 《4》ではパソコン用の部品を下請けの組み立て会社に高く買わせて見せかけの利益を計上し、完成品を買い取る時に帳尻を合わせる「バイセル取引」が問題になっている。

バイセル取引の温床になったパソコン事業は西田厚聰のテリトリーだ。西田は東大大学院で西洋政治思想史を研究し、在学中に出会ったイラン人女性と結婚してイランに渡った。現地で東京芝浦電気(現東芝)とイラン企業の合弁会社に入社し、1975年に東芝本体に入社し直したという珍しい経歴の持ち主。東芝の保守本流である重電、新興勢力の半導体のいずれとも縁がなく、社内ベンチャーに近いパソコン事業でのし上がった。

2004年3月6月、専務に就任するとその期の第3四半期まで営業赤字だったパソコン事業を最後の四半期で黒字に転換し社内外から「西田マジック」と賞賛される。その勢いで2005年6月に社長に就任した。しかし東芝関係者によると西田率いるパソコン部隊は、この時期からバイセル取引に手を染めていた疑いがある。このころ資材調達を担当していたのが、西田の次の次に社長になる三悪人の一人、田中久雄だ。

バイセル取引を含め、パソコン事業には誰より精通しているはずの西田が、裁判ではこう、うそぶいている。

「社長時代はもとより、その前からバイセル取引において実態と乖離した会計処理が行われているとの報告は聞いていない」

裁判における東芝の主張によれば、バイセル取引で東芝はパソコン部品を外部の組み立てメーカーに実際の価格の4~8倍の価格で売りつけ、その収益を利益として計上していた。業界で「マスキング」と呼ばれるやり方で、ライバルメーカーに原価を悟られないための細工であり、組み立て終わった製品を買い戻す時にマスキング分を上乗せして相殺する。

期末に大量に部品を売って利益を出せば、その時はパソコン事業で利益が出ているように見える。期をまたいで買い戻す時には損が出るが、期末にはまた大量の部品を法外な値段で組み立てメーカーに押し込む。これを繰り返せば、期末の業績だけを見ている投資家にパソコン事業が儲かっているように見せかけることができる。

西田氏は「東芝の信用は毀損されていない」と反論
裁判で原告の東芝は「マスキング価格を使った利益計上で利益をかさ上げしてきた」と認め、それをやめさせなかった西田は「取締役としての善管注意義務を果たさなかった」と主張する。しかし西田はこう反論する。

「バイセル取引において不当な利益のかさ上げがされていたとの認識はない」

東芝は「不適切な会計処理」によって東芝の信用が失われたことに対する西田の責任も追及しているが、本人はこう反駁する。

「会計処理を誤ったからといって、電気機器具の製造等という原告(東芝)の主たる事業自体への信用も毀損されているとはいえない」

粉飾決算で株式市場における東芝の信用が失墜したことは、誰の目にも明らかだ。西田の言い分が通るなら、日本の上場企業の取締役は、羽ほどの責任も負っていないことになる。そんな無法地帯を海外投資家が相手にするだろうか。

西田の後任で社長になった佐々木則夫は、粉飾決算の実態を調査した第三者委員会の報告書の中で、部下に利益水増しの圧力となる「チャレンジ」を要求していたことが明らかになった。

チャレンジについて、佐々木はこう主張する。

「社長月例(月に一度、社長と事業部責任者との会合)において『チャレンジ』と称される目標の伝達が行われる場合もあった。その意味合いはコーポレート(本社)からカンパニー(事業部)に対する努力目標であり、その必達が要求されるものではなかった」

「俺は『がんばれ』と言っただけで、不正をやれとは言っていない」

佐々木は法廷でこう主張してるわけだ。

しかし関係者の証言によれば、佐々木は社長月例で「会議室の窓ガラスがビリビリ震えるほどの怒声を飛ばしていた」という。優しく努力目標を諭すような雰囲気でなかった。震え上がった東芝の社員は競うようにして粉飾に手を染め、積もり積もった利益の水増しが2306億円に達したのである。

第三者報告書では現場が「バイセル取引をやめたい」と言ってきたとき、佐々木が「会社の業績が厳しいから、今はやめるべきではない」という趣旨の指示を出したことが書かれている。報告書によると佐々木が社長を退任した時点でバイセル取引でかさ上げした利益の合計は654億円に達していたという。

原告の東芝は佐々木がバイセル取引をやめさせなかったことの責任も問うている。

「社長就任後、バイセル取引において利益のかさ上げが行われていることを認識していたにもかかわらず、これを中止させるための措置を取らず、かえってこれを中止することを妨げる指示を行った」

これに対して佐々木はこう反論する。

「東芝に入社して以降、代表執行役社長に就任するまで主に原子力関係事業を中心とする社会インフラ事業に携わってきたため、PC事業におけるバイセル取引の導入の経緯について詳細を知るものではない」

「バイセル取引の会計処理の詳細について説明を受けたことがなく、どのような会計処理がされていたのかについては知らない」

「自分の専門は原発であり、それ以外の事業については知らない」と言っているわけだ。しかし内容を知らない人間が「バイセル取引を続けろ」と指示するのはおかしい。

「第三者委員会報告書が間違っている」というのだろうか。

ついにWHの減損損失を認めて大赤字になった東芝は2016年、穴埋めに優良子会社の東芝メディカルを売却するなど、生き残りをかけたギリギリの戦いをしていたが、この間、原因を作った張本人である西田や佐々木は法廷で「知らぬ存ぜぬ」を繰り返していた。歯を食いしばって耐えている東芝社員がこれを聞いたら、なんと思うだろう。

裁判記録の中で圧巻は、危機の元凶である米国での原発事業に関する田中久雄の弁明だ。

原告の東芝によるとWHでは「(福島第一原発事故の後、安全基準が厳しくなったことによる)設計変更、工事工程の遅延等による契約原価総額の見積もりの増額(東芝ではこれを「コストオーバーラン」と呼んでいた)が複数回発生していた」という。

しかし、社長の田中や最高財務責任者だった久保誠らは平成25年度第2四半期の決算で「コストオーバーランを全額開示せよ」という監査法人アーンスト&ヤング(EY)の要請を拒否。「客観的かつ合理的な根拠を持ち合わせないまま、独自に挽回可能」とし、EYが3億8500万ドルと見積もったコストオーバーランを6900万ドルに圧縮して計上し、利益をかさ上げした。

裁判で原告の東芝は、田中や久保が行なった会計処理を「米国会計基準に違反していたといわざるを得ない」と断じている。

これに対する田中の言い分はこうだ。

「東芝は新日本監査法人及び米国EYと協議を行った上で最先端のシミュレーション技術を用いた慎重な検討を経て同期の損益を計上したのであり、WEC(東芝におけるWHの呼び名)が見積もったコストオーバーランを拒否し根拠のないまま原告(東芝を指す)が独自にコスト削減可能性を判断したものではない」

3年後の2016年3月期の連結決算で、東芝はWHの事業価値を切り下げ2467億円の減損損失を計上した。2013年の時点で、田中が「最先端のシミュレーション技術を用いて慎重に検討した」という6900万ドルと、EYが主張した3億8500万ドル、どちらが正しかったかはその後の歴史が証明している。

創業113年、連結売上高5兆7000億円、連結従業員数19万人の名門企業が今まさに解体される。その原因を作った3人が会社に訴えられ、法廷で「俺たちは悪くない」と叫ぶ。もはや醜悪を通り越し滑稽ですらある。

株主から預かった会社を「俺のもの」と思い込み、栄達のために無理な買収を決め、失敗を隠すため部下を「チャレンジ」という名の粉飾に走らせる。サラリーマン資本主義の毒は、名門企業を骨の髄まで蝕んでいた。血のバレンタインデー。「東芝解体」の知らせを聞く三悪人は何を思うのだろう。』

 

「責任」をとることは「能力」なのだろうか。それは能力ではない。人間としていかに生きるかという個々の意識の問題だと、私は思う。

私は、自らの人生を最後までデザインしたいと切望する。橋田壽賀子さんが「安楽死」の問題を提起した。非常によく理解できる。年をとると、誰でも正常な判断がくだせない時が必ず来る。それは、「知りませんでした」という話ではない。誰でもいずれはそうなるのだ。だから、自分の判断がくだせる間に自らの最期を決める、それが橋田さんが言う「安楽死」だろう。判断能力が衰える前に亡くなる方はそれでいい。しかし、90歳を過ぎると、いずれ自らが判断できなくなる状況に陥ると考えることが正常なのだ。そこで思考停止になる人は無責任だ。

6歳をひき殺した88歳は、きちんと責任を取って自らの人生にけじめをつけるべきだと、怒りに震えながら私は思う。私なら、死してお詫びするべき事故である。不起訴処分などありえない。そんな判決が出ても、自ら責任を取るべきなのだ。

 

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