<吉祥寺残日録>90歳五木寛之さんが発する「長生きしたい」の本音 #220102

今年のお正月、次々に家族に会っている。

大晦日から三男が2泊し、元日には弟の家を訪れて岡山のお米と弟の還暦祝い、さらに姪っ子の大学卒業祝いを届け、今日は長男と次男の一家合計11人での焼肉ランチと賑やかな時間を過ごした。

選んだお店は「いのうえ」。

5人の孫たちもみんな焼肉は大好物で、特に柔らかい「いのうえロース」が小さい子供たちには大好評だった。

ランチの後、長男一家は私たちのマンションにもやってきて、いつものようにゲームをして夕食を食べて帰っていった。

三男はお正月を実家で過ごした新妻を迎えに茨城まで行くため焼肉ランチには参加できなかったが、明日2人で我が家にやってきて昼食を共にすることになっている。

LINEでピザが希望とリクエストがあった。

オミクロン株の感染が広がり始めているのは気にかかるが、やはりお正月は賑やかに過ごしたいものだ。

一方で、岡山で暮らす親たちには順番に電話をかける。

認知症で入院中の伯母は電話した時昼寝をしていたらしく、寝ぼけているのかちょっと様子が変だった。

私に対しても「いろいろお世話になりました」となぜか過去形でお礼を言った。

一人暮らしの母は、いつも通りの明るい声でとても元気そうだった。

それでも昨年、「要支援1」の認定がもらえたので、ケアマネージャーさんから紹介された筋肉トレーニングができるデイサービス施設の近々見学に行く予定だと言う。

最初は介護サービスなど必要ないと抵抗していた母だが、新たな体験に前向きに取り組もうとしているのは、ちょっと嬉しい変化ではある。

今一番心配なのは、妻の母親の様子。

しっかり者だった義母は、去年目に見えるスピードで衰えていった。

基本的にはベッドと食卓の往復だけで、ヘルパーさんが用意した食事を食べているのだが、久しぶりに帰省した妻の弟も義母の老化が一気に進んだことに驚いた様子だった。

目下の懸案は冬の暖房をどうするかということ。

家が古いうえに、食卓が建物の北側にあるためとても寒いようなのだが、長年使っていた電気ストーブの熱で先日プラスチック製のゴミ箱が溶けるというトラブルがあり、一歩間違えると火事につながるとして妻が暖房を電気マットに変えてストーブを奥の部屋に片付けて帰った。

ところが、やはり電気マットでは足元が寒いらしく、わざわざストーブを見つけ出してまた使っていることがわかった。

妻の兄弟であれこれ相談をし、弟が何か安全な暖房器具を探してくることになったという。

ただ、義父母とも新しい電気器具が操作できなくなっているようで、果たして電気ストーブに代わる良い暖房器具が見つかるかどうか、妻はとても心配している。

子や孫と会うのは楽しいし、どんどん成長していく姿を眺めるだけでも頼もしく感じる。

それに対して、親たちの方は衰えていく一方であり、自然の摂理とは言え、どうしてあげればいいのかなかなか名案は見つからない。

私が50代の時「林住期」という本に出会い、それ以来シニアライフのお手本としている作家の五木寛之さんが、日本経済新聞に元旦の一文を寄せているのを偶然目にした。

「三密から「三散」の時代へ」と題したこの文章の中で、五木さんは90歳を迎える今の心境を次のように書いていた。

100歳人生。未知の領域への不安も迫っている。私は「下山」についてずっと考えてきた。山を登るときは後ろを振り返る余裕もなく、ひたすら山頂を目指す。下山の道のりは思索と回想の時だ。周囲をゆっくりと眺めながら。

登山には成長の喜びがあり、下山には成熟の喜びがある。私自身も80歳くらいから行動範囲が狭まったが、身近なことに幸福を見いだせるようになった。下山のプロセスをマイナスに捉えるのは間違っている。

引用:日本経済新聞

ここまでは「林住期」の延長線上、違和感なく読み進めた。

ところが、この文章の結論は私の想像とは異なるものだった。

今年で90歳。長生きしたい。好奇心は尽きず、見届けたいことが山ほどあるからだ。米中対立はどうなるのか。大谷翔平選手は10年後メジャーでどんな立場にいるのか。電気自動車が街にあふれる社会も見たい。劇的に変わる地球上の動きにドキドキするほど関心がある。

引用:日本経済新聞

「これが、90歳の本音なのか」と私は思った。

「林住期」を人生の黄金期を捉えてお金のためではなく本当に自分の興味に従って生きることを説いた五木さんだが、とっくに「林住期」を終えてすでに身辺を整理し死に臨むべき「遊行期」に入っているはずなのに、90歳になっても生きることへの強い執着を隠さない。

おそらく五木さん自身、林住期の頃に想像していた90歳の自分と今の自分の間の齟齬に気づいたのだろう。

私がもし90歳まで生きたとすると、その時どんなことを考えているのだろう?

正直、想像がつかない。

まもなく93歳を迎える妻の父親は、頭がまだ矍鑠としていて最近のことは忘れるが歴史の話などはスラスラと人物の名前が口をついて出てくる。

様々な興味は尽きないようで、ベッドに寝転んで本を読み、食卓にはたくさんのメモ書きが散らばっている。

米中対立や大谷翔平の将来に興味が尽きないという五木さんの言葉を読み、確かに自分の肉体は衰えて外での活動ができなくなったとしても、頭が動いている限り世界に対する興味は尽きることがないのだろう。

歳をとるとできなくなることがたくさんある。

しかし、全てを失ってしまっているわけではない。

高齢者が何を考え望んでいるのかを知ることは大切だが、難しい。

長生きを不安にさせるのは「痛み」だ。私は昔から片頭痛や肺気腫がある。慢性的な痛みは本当につらい。細胞や脳の研究と比べ、足や肩の痛みの緩和は低次元なのだろうか。痛みこそ不幸の源泉であり、医学が痛みの解放に向かっていないのは非常に不満だ。

引用:日本経済新聞

これも、五木さんの本音なのだろう。

高齢者の本音を教えてくれる作家の言葉は、介護生活に突入している私に多くの示唆を与えてくれる。

<吉祥寺残日録>気がつけば私の「林住期」ももう折り返しなのだ #200912

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