<吉祥寺残日録>赤ちゃんのいるお正月!妻は頭痛に襲われベッドに横たわって家族の集まりを見守った #230103

お正月、コロナ禍でも家族が集う貴重な日である。

今年は大阪に住む次男家族が上京しないことになり、少し変則的な集まりとなったが、代わりに主役に躍り出たのが三男の家に去年生まれた赤ちゃんだった。

私にとって6番目の孫である。

2日の昼ごろ、ベビーカーに乗せられてやってきた赤ん坊は、ぐっすり眠っていて多少揺すっても起きる気配もない。

なかなか物事に動じない男の子らしい。

ちょっと見ない間に倍ぐらいの大きさになり、抱くとずっしり重みを感じる。

泣くのはお腹が空いた時ぐらいで、夜もほとんど目を覚さない親想いの赤ん坊だ。

三男はすっかり赤ちゃんにメロメロで、甲斐甲斐しく世話を焼いている。

今時の会社は男性社員でも数ヶ月単位の育児休暇が認められるらしく、息子は所属する会社では過去最長となる3ヶ月半もの育児休暇を取得し、ずっと夫婦で初めての子育てを楽しんでいた。

しかし、そんな長い育児休暇も今日が最終日。

明日からは通常勤務に戻らなければならないと三男は嘆くが、私からすれば当たり前、よくも職場の人たちがそれほど長い戦線離脱を許してくれたものだと感心するばかりだ。

少子化に歯止めがかからない日本では、急ピッチで子育て対策が拡充されている。

それは間違いなく良い方向なのだが、それによって生まれてくる子供の数が増えるかどうかは甚だ疑問ではある。

今日は長男一家も合流して、お昼は予約していたイタリア料理店「ラ・クレアトゥーラ」でランチを食べた。

長男の家の小学校5年生になる孫娘が赤ん坊の乳母車を押し、吉祥寺の街を歩く。

将来、幼稚園の先生になることが夢の孫娘にとって、従兄弟にあたる赤ん坊はとても可愛らしい存在であり、目をキラキラ輝かせながらも恐る恐る赤ちゃんに接してくれた。

幸いなことに、食事中、赤ん坊はずっと寝てくれていて、孫娘はここぞとばかりに学校のことや友達とのことなど日頃から誰かに聞いてもらいたい話を歳の比較的近い三男夫婦にしゃべり続けている。

やっぱり女の子はどんどんおしゃべりになる。

それに対して中学生の兄は無口で、聞けば答えてくれるが自分からベラベラと話をすることはない。

彼も今年から受験生、来年の高校受験に向けて塾通いも始め忙しくなったようだ。

次男一家とは元旦にLINE電話で話をした後、初詣の写真が送られてきた。

2人の孫娘はまだ小学校4年と2年なのだが、今年の年越しは12時まで起きていたという。

「紅白を見たの?」と旧来型の質問をしたところ、友達と「あつ森」をしていたのだそうだ。

「あつ森」とは人気のゲームソフト「あつまれどうぶつの森」のことで、友達とオンラインで結べばゲーム上の仮想空間で一緒に遊んだりおしゃべりができたりするらしい。

小学生が真夜中に友達と遊びに出かけると親も心配するけれど、ゲーム上であれば特別に夜中まで友達と遊ぶことが許されるのである。

なるほど、今流行りの「メタバース」もこういうゲームソフトから浸透していくんだなと妙に納得してしまった。

一番下の男の子は今年幼稚園に入園することになっているが、そのタイミングに合わせて次男の家族は東京に戻ってくることをすでに決めている。

次男が希望通り東京に戻れるかどうかはギリギリまでわからないが、たとえ仕事の関係で大阪に残ることになっても家族は東京の家に戻ってくる。

これから3ヶ月、引っ越しやな何やらで忙しい日々となりそうだが、来年のお正月は3家族が顔をそろえる賑やかな集まりが復活しそうで楽しみである。

今日ひとつ残念だったのは、朝から妻が激しい頭痛に襲われ、家族の集まりにほどんど参加できなかったことだ。

昨日は元気で赤ちゃんとも散々遊んだのだが、そうした興奮が良くなかったのか、夜明け前、締め付けるような頭痛で目が覚めたという。

いろいろなお医者さんに診てもらっても、妻の頭痛の原因ははっきりせず、天気や気圧の影響や視神経の関連など複合的な要因が考えられる。

問題はいつ症状が現れるか全くわからないことで、妻はずっと集まりの時に痛くならないといいなと心配していたが、結果的にはちょうど当たってしまっったということになる。

それでも家族はみんな妻の症状のことは知っているので、妻が寝ている横で赤ん坊を遊ばせ、みんなでゲームをして遊んでいた。

妻が用意したお菓子やアイスクリームを食べながら、楽しそうに過ごす家族の声を聞きながら、きっと妻にとっても幸せなひと時だったんだと思う。

今時6人もの孫に恵まれる人は稀であろう。

日本で進む少子化の原因として、若者の貧困や子育て支援の欠如などが指摘されることも多いが、一番の原因は、親離れ子離れができていない日本の家族関係にあるのではないかというのが私の持論だ。

昔から「親はなくとも子は育つ」という諺がある。

しかし現実には、日本の経済成長に伴って少子化が進めば進むほど、子供ひとりに対する親の干渉が強まり、それがかえって少子化に拍車をかけていると私は見ている。

私と同じように感じる人もいるようで、田中早苗さんという心理カウンセラーのブログに『「こどもによかれ」ははた迷惑。「親は無くとも子は育つ」の深い意味』という一文を偶然見つけた。

「親は無くとも子は育つ」とはどういう意味なのか?

田中さんの解釈を引用させていただく。

思春期の子育てに悩んだら、

このことわざを

思い出してください。

『親は無くとも 子は育つ』

辞書で意味を調べれば、

「実の親がいなくても、

こどもはなんとか

育っていくもんだから、

世の中それほど

心配するもんでもないぞ」

ということが書いてあります。

私は、

これにもう一つの

意味を加えたいと

思います。

むしろこっちが

真実ではないかと

思っています。

それは、

親は、とかくこどもに

余計なお節介を焼くものだから

常にそのように

自分に言い聞かせて

こどもと関われよ。

という意味です。

(中略)

子育てに関していえば、

とかく、

本当に必要な時期に手間を惜しみ、

必要でない頃になって、

いらぬ世話を焼きたがるのが

親なのです。

こどもが思春期になったら、

黙って見守ることが重要です。

引用:にゃむさんの「発達凸凹ナビゲート」

別に子供をたくさん産んだから偉いという話ではなく、少子化自体が悪ではないと私は考えている。

でも、親たちが「こどもによかれ」と思ってあれこれお膳立てをしてしまうのはやはり違うと思ってしまうのだ。

子供に残したあげられる最大の贈り物は「自分で生きていく力」であり、そのためには危なかしくても自分の頭で判断し自分で決める環境を与えること、つまり我が子が成人年齢に達したら親元から離れて自立することが一番重要だと私は信じている。

少なくとも私の3人の息子たちは、そうやって自立し、自分で結婚相手を探し、子供をもうけて自分の家族を築いたのだ。

この先、6人の孫たちがどんな人生を歩むのかまだ全くわからないが、祖父として少し離れた場所から見守り、求められれば自分なりのアドバイスやサポートをしてやりたいとは思っている。

でも、決して過剰に干渉することはしない。

それだけは死ぬまで守っていきたい私のこだわりである。

孫の枝豆

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