10月31日投票の衆院選が今日公示され、本格的な選挙戦に突入した。

立憲民主党と共産党など野党の選挙協力が比較的進み、反自民票を取り込みやすい構図にはなったが、私が今いる岡山では5選挙区のうち3つで立憲民主党と共産党の調整がうまくいかなかったようだ。
各党ともバラマキ公約が目につき、超高齢化社会にまともに向き合おうとする政党は1つもないように見える。
年金生活の年寄りが有権者の3分の1を占める日本の政治は、どうしても未来よりも目先のバラマキを歓迎する風潮になってしまうのだろうか?
政治家たちの発言を聞くたびに、私は憂鬱な気持ちになっていく。

そんな永田町の陣取りゲームとは全く無縁のように、私は今日も夜明けと共にたくさん働いた。
最初にやったのは、裏庭のイチジクの木の下に溜まっていた落ち葉を掃除すること。
妻が昨日、この場所でムカデを発見し、ここが妻を悩ますムカデの巣になっているのではないかと疑ったためだ。

実際に落ち葉をどかしてみると、ムカデは発見できなかったが、小さな穴や何やらオレンジ色っぽい粉のようなものがあって、様々な生物の住処になっていた形跡があった。
妻にとって家の中にムカデがいたことは相当のショックだったようで、先日下見に来た水道屋さんにもムカデの話を大事件のように話をした。
すると水道屋さんは、「それは田舎ですからムカデぐらいいますよ」とまったく取り合おうとしなかったのだ。
だから妻は自分でどうにかするしかないと思ったようで、私が掃除役を仰せつかったということである。

イチジクの次は、家の前にある柿の木である。
これは「富有柿」という種類で、種が多いため個人的にはあまり好きではないのだが、やたらと実をつけてそれが時々道路上に落下するので、今回の滞在中に収穫してしまおうと思っていたのだ。

家の前の道路は昔からの田舎道で2台の車がすれ違えない狭い道なのだが、主要道路からの抜け道になっている関係で、毎朝通勤時間になるとたくさんの車がこの道を走り抜けていく。
我が家の柿の木はこの道路ギリギリに立っているため、柿の実を取っていると、危うく車に轢かれそうになる。
まさに命がけの柿もぎなのだ。

妻と2人がかりでおよそ1時間柿の木と格闘し、農業用コンテナ2箱分の柿の実を収穫した。
これでもまだ半分も取っていないと思う。
収穫するのはいいが、一体この柿、どうしたものか・・・。
ジャムとかにすると美味しく食べられるだろうか?

続いて、裏庭に作った小さな畑に野菜の種を撒いた。

「青首宮重 総太り大根」

「本紅金時人参」

「サラダほうれん草」

「赤丸はつか大根」

「ロケット」
いずれも妻が選んだ野菜の種だが、果たして育つのかどうか?
帰省の楽しみである。

そして午前中の最後は、昨日に引き続きブドウ畑に放置されたままとなっているブドウの房を除去する作業を行なった。
みっちり3時間。
妻と2人で枝に残って腐り始めているブドウを取り除いた。
中腰で重いブドウのカゴを運ぶのは重労働である。
廃棄するブドウの山がどんどん大きくなるのを見ながら、無心でブドウと格闘した。
来年は食べ物を粗末にしない方法を模索しなければならない。

そうして午前いっぱいしっかりと働いた後で、午後は私の母が一人暮らしをしている岡山市内のマンションに向かった。
先日、「要支援1」の認定が下りたのを受けて、地域包括支援センターの担当者とケアマネージャーが母のマンションを訪れることになっていてそれに立ち会うためだ。
介護が必要な状態にならずできるだけ長く自立した生活ができるように、母に合ったケアプランが受けられるよう契約書にサインすることが今日の目的である。

母はまだ自分の力で日常生活が送れているので、介護サービスは必要がないと考えている。
私の目から見ても、歳の割には元気でやってくれていると思うし、今すぐに誰かのサポートが必要とも思わないが、如何せん88歳の一人暮らしであり、私たち子供はみんな東京で暮らして何かあってもすぐに対応できないことが不安の種なので早めに介護申請を申し込んだ。
母にとってはそれがいささか不満らしく、「自立」ではなく「要支援1」が出たこともちょっと受け入れ難いような雰囲気である。
今日も契約書にサインはしたが、当分何のサービスも受けるつもりはないとはっきりと宣言していた。
まあ、それならそれでいいと思う。
「自分でできることも他人にお願いするようになると衰えが早くくる」という母の主張にも一理あると思うからだ。

母の契約も無事に終わり、夕方伯母の留守宅に戻ると、テレビで松坂大輔引退にニュースが流れていた。
「平成の怪物」と呼ばれた大投手。
甲子園決勝でのノーヒットノーラン、日米のプロ野球やWBCでの活躍、一時代の彼はまさにスーパーヒーローだった。
私にとって忘れられないのは、1999年4月7日、西武に入団した松坂が初先発した試合である。
「松坂フィーバー」が日本中を熱狂させ、松坂大輔がプロの世界でどれほど通用するのか注目の的だった。
そして初先発の試合がちょうど、私が編集長を務める夕方のニュースの時間とぴったりと重なったのだ。
各局が松坂の初登板を大々的に中継してくるだろうと考えた私は、悩みに悩んだ末、松坂の第1球だけを中継し、すぐに国会のニュースを伝える判断をした。
この日、国会では「周辺事態法」の審議が山場に差し掛かっていて、松坂フィーバーでこの重要ニュースの影が薄くなるのは許せないと考えたのだ。
松坂のニュースはネットニュースの後半でたっぷりと時間を使って放送した。
しかし視聴率的には惨敗だった記憶がある。
まあそれも織り込み済み、当時はそんなへそ曲がりな編集長がテレビ局にもいたということだ。

最後の登板を前に記者会見に臨んだ松坂は、家族について聞かれ涙ぐんでしばし言葉が出なかった。
「平成の怪物」も結局はケガに泣き、野球人生の後半は思うような活躍はできなかった。
23年…。本当に長くプレーさせてもらいましたけど…。半分以上は故障との戦いだったんだと思います。最初の10年があったから、ここまでやらせてもらえたと思ってますし。そうですね、僕みたいな人、なかなかいないかもしれないですね。一番いい思いと、自分で言うのも何ですけど、どん底も同じくらい経験した選手っていうのはいないかもしれないですね。
そうですね…。長くやった割には思ってたほどの成績は残せなかったなって思いますね。通算勝利も170。積み重ねてきましたけど…。ほぼ最初の10年で勝ってきた数字っていうんですかね。通算150が2010年くらいだったかな?だったと思うので。自分の肩の状態とかよくはなかったですけど、そこからさらに上乗せできると思っていましたね。
選手生活の後半はたたかれることの方が多かったですけど、それでも諦めずに…。諦めの悪さをほめてやりたいですね。もっと早く辞めてもいいタイミングはあったと思いますし。なかなか思ったようなパフォーマンスが出せない時期が長くて、自分自身苦しかったですけど、その分、たくさんの方に迷惑をかけてきましたけど。よく諦めずにここまでやってきたなと思います。最後はもう、これまではたたかれたり、批判されたりすることに対して、それを力に変えてはね返してやろうってやってきましたけど。最後はそれに耐えられなかったですね。最後、本当に心が折れたというか、今まではエネルギーに変えられたものが、受け止めてはね返す力がもうなかったですね。
引用:松坂大輔引退会見より
栄光だけでなく挫折を味わった男にこそなぜか惹きつけられるのはなぜだろう?
あの鮮烈な投球はやっぱり忘れられない。
松坂大輔、プロ野球人生最後のピッチングは最速118キロ、結果はフォアボールだった。
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