<吉祥寺残日録>祝!結婚40年!!出前の「特上うな重」を食べながら思い出す「台風直撃手作り結婚式」の記憶 #220801

今日8月1日は、妻と私の40年目の結婚記念日。

結婚40年は「ルビー婚」というそうだ。

本当ならば、新幹線で京都に行き、「ハイアットリージェンシー京都」に1泊して夜には大人のディナーでもと考えて予約していた。

しかしコロナ第7波の急拡大によって、妻はまったく旅行する気分ではなくなってしまい、吉祥寺で静かに過ごすこととなった。

まあ、それならそれでもいい。

どこか個室を予約してお祝いの食事でもと思い妻に提案するも、妻はそれも嫌だという。

仕方がない。

結果的に選んだのはうなぎの出前だった。

末広通りにある吉祥寺で一番美味しいと思う鰻屋さん「志乃ざき 吉祥寺店」の『特上うな重』。

塗りの器にご飯が見えないほどぎっしりと敷き詰められたうなぎは1.5匹分で、お漬物とお吸い物がついてくる。

値段は奮発して6700円、ちょっと前には5500円ぐらいだったというからだいぶ値上がりしたようだ。

それでもこれを二人で分けるのだから、お店で並を2人前注文するよりもお得だとも言える。

自分でお店に取りにいくテイクアウトでも配達してもらう出前でも同じ料金だというので、吉祥寺に引っ越して初めて自宅まで出前してもらった。

綺麗な紅白の風呂敷に包まれたうな重は、それだけでスペシャルな日を演出してくれる。

パリ時代に使っていたテーブルクロスを久しぶりに引っ張り出して、その上に出前のうな重と妻が用意したサラダと果物、さらに私が買ってきたケーキを並べる。

これはこれで、なかなか豪華な祝いのランチが出来上がった。

京都でちょっとした店で京料理などをいただくと、すぐに1人1万円は飛んでいくので、それに比べたらお手頃な40周年である。

こうして穏やかな結婚40年を迎えられたのは妻のおかげ。

もしもケチな妻と結婚していなければ、野放図な私は今頃全財産を浪費していたに違いない。

猛暑の吉祥寺で迎えた「ルビー婚」だが、40年前の今日はとんでもない暴風雨だった。

調べてみると、この時日本列島を直撃した台風10号は95人の死者・行方不明者と6000億円近い被害を各地に出した結構な台風だったことがわかった。

ちょっと懐かしくなって、久しぶりに古いアルバムを引っ張り出し、結婚式の写真を探してみることにする。

ようやく見つけ出した私たちの結婚式の写真はなんと白黒だった。

当時駆け出しの新聞記者だった私の友人が撮影してくれた写真、今のように誰もがスマホで写真を撮る時代ではなく、当時の私はきちんと記録用の写真を手配しようとは思わなかったようだ。

ウェディングケーキに入刀するこの写真だけ見ると、ごく普通の結婚式にも見えるが、実は私たちの結婚式は他ではあまり聞かないような良く言えばとてもユニークな、いやいや、若気の至りとしか言いようのない非常識極まりない結婚式だったのである。

これが結婚式の案内状。

私が手書きしたものを泊まり勤務の際、会社のコピー機を勝手に使って人数分印刷した。

その文面は・・・

『瓢箪から駒というか、一寸先は闇と申しますが、とかくこの世はままならぬもので、ひょんな事から、焼けぼっくりに火がついて、不意打ち的結婚の運びとなりました。 つきましては、暑いさなかではありますが、冷房のない会場で印度料理を用意し、皆様の汗をしぼり出そうと手ぐすねをひいてお待ちしておりますので、御用とお急ぎでない方は、どうかお金を握りしめてご出席下さるようお願いします』

今から見れば恥いるばかりのふざけた文面である。

テレビ局に入社したばかりの研修中に妊娠が判明し、バタバタで結婚することになった。

今で言うところの「できちゃった婚」の走りである。

当時はまだ新入社員で貯金もなく、学生のノリそのままに仲間たちに手伝ってもらって結婚式を手作りすることにした。

結婚式の会場は、妻の母校のチャペルを使わせてもらった。

披露宴も同じキャンパス内にある学食、ありがたいことに利用料金は確か無料だったと思う。

ただし妻の母校は小平にあり、式の参列者は都心から1時間以上かけて来なければならない。

おまけに当日は台風が直撃し、一日中ものすごい嵐が吹き荒れた。

最寄りの駅から大学のキャンパスまでは玉川上水沿いを10分ほど歩かなければならず、ようやく会場に辿り着いた参列者の皆さんはもうずぶ濡れだった。

式の準備は大学時代の仲間たちが大勢で手伝ってくれた。

大学でも会社でも同期の中で一番先に結婚したので、みんなまだ新鮮だったのだろう。

古いチェペルを掃除し、結婚式の立て看まで作ってくれて、披露宴で使う食器類は学生時代に入り浸っていたスナックのマスターからタダで貸してもらった。

私たちも自分たちでできることは何でもやった。

妻はサラシの布を買ってきてバージンロードを手作りした。

当時はまだ布オムツの時代で、バージンロードは結婚式後に生まれた長男のオムツになった。

神父さんもいない人前結婚は直前まで準備でバタバタで、参列者が集まり始めたチャペルで新郎自らバージンロードを敷いている光景はとても珍しかったに違いない。

結婚式では、ジョン・レノンの「イマジン」をみんなで歌った。

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

田舎からわざわざ来てくれた親戚のおじさんたちにも手作りの歌詞カードを渡したが、みんなキョトンとした顔で聞いたこともない歌に戸惑っていた姿を今でもはっきりと覚えている。

披露宴の料理はインド料理だった。

当時はまだ珍しかった本格的なインド料理店を吉祥寺で見つけ、当日出張サービスをお願いした。

それを聞いた私の父は、「それじゃ親戚の人たちが食べるものがない」と言い出し、急遽巻き寿司やサンドイッチを追加することになった。

引き出物として用意したのは様々な苗木。

帰る際に好きな苗木をご自由にお持ち帰りくださいと伝えたが、持って帰った人は半分ぐらいだったろうか。

1人7000円の会費制で開いたこんな非常識な披露宴、飲み物だけはふんだんに用意したが、親戚のおじさんたちが予想を超えるご祝儀を包んでくれたので、結果的には大幅な黒字となりそのお金で車を買うことができた。

後日、両親にその話をすると、「そうだろうな」と呆れ顔で納得された。

大人たちの目から見れば、実に風変わりでチープな結婚式だと思ったに違いない。

あれから40年。

あの頃を思い返すと、世間知らずで無邪気だった二人もそれなりに社会に揉まれ、少し分別くさくなってしまった気がする。

それはいいことなのか悪いことなのか、あの馬鹿な時代が妙に懐かしい。

妻もいろいろ思うところがあるようで、40周年の記念にと「青山フラワーマーケット」でいつもより豪華な花束を買ってきた。

ケチな妻が5000円近くする花を買ってくるというのは極めて珍しいことである。

あの台風の日、スピーチしてくれた多くの人が「雨降って地固まる」と口にした。

他の言葉が見つからないようなひどい日だったのだ。

でも今思えば、この40年、たくさんの雨が二人の間に降ってそしてようやく地が固まったと思う。

3人の息子と3人のお嫁さん、そして5人の孫にまもなく6人目が加わる。

あの日、雨さえ降らなければ大学のキャンパスに植樹をする計画があったことを思い出した。

結婚式の日には植えることができなかった苗木は、その後大学の方がキャンパス内のどこかに植えてくださったと聞いた。

あの木は今、どうなっただろう?

仕事と子育てに追われるうちにそんなことはいつしか忘れてしまい、私たちはまだ一度もその木を見に行ったことがない。

もし残っているのであれば、きっと大木に育ったことだろう。

できることなら一度見てみたい、そう思った。

<吉祥寺グルメ>「うなぎ 志乃ざき」の「うな重」 @うなぎ@和食

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