大型で非常に強い台風14号は、今日の午後7時ごろ鹿児島市付近に上陸した。
非常に強い勢力のまま台風が日本に上陸するのは極めて珍しく、上陸時の中心気圧935hPaは過去4番目に低い数字だという。

鹿児島や宮崎ではすでに特別警報が発表された。
すでに九州全域が暴風域に入り、九州新幹線は全線運転を取りやめている。
NHKは台風特番を続けていて、「過去に例がない危険な台風で、数十年に一度しかないような大規模な災害が発生するおそれが高まっています」と早めの避難を呼びかけ、夜に入り緊張感も高まってきた。
テレビの報道を聞いていると、今回の台風を枕崎台風や伊勢湾台風、第二室戸台風などと比較するなど歴史的な台風として取り扱っている局が多い。
台風が日本列島を走り抜けた後、果たしてどれほどの被害が出ているのか予想もつかないスーパー台風の襲来である。

こんな強力な台風の接近で、岡山でも天気の急変が懸念されたが、結果的には日中ほどんど雨が降らなかった。
台風の中心がまだ遠いことに加え、関東から四国の太平洋側に大雨を降らしている南からの湿った空気も四国山脈で遮られて岡山あたりまでは入り込めない地理的要因が大きいのだろう。
岡山は災害の少ない県だとよく言われるが、本当にその通りだと感じさせられる。

今日の天気が気になっていたのは、1週間前に退院した義父母がいよいよ老人ホームに入所するのが今日だったからだ。
姫路から義弟、埼玉から義妹が手伝いに駆けつけ、義妹の息子2人も休みを取っておじいちゃん、おばあちゃんに会いにきていた。
みんな今日が大きな節目の日だと意識しているのだろう。

幸い岡山は夕方まで全く雨が降ることもなく、台風の影響で適度に風のふく凌ぎやすい一日となった。
私たちも次男を連れて昼過ぎに応援に入り、施設に持っていく荷物を車に積んだり降ろしたりといった作業を手伝った。
そして義父母よりも一足早く施設に向かい、朝収穫したばかりのブドウをみなさんに食べてもらえるよう老人ホームに差し入れした。

午後3時ごろ義父母を乗せたタクシーが施設にやってきた。
このところほとんど食事が取れなくなった義父は、一段と体力が衰え、家を出る間際までベッドで横たわっていたという。
もはや家から施設に移動するだけでも体力的にキツそうである。

義父は名門大学を卒業後、岡山県庁などに務めた元公務員だ。
一人っ子の跡取り息子ということで、家ではかなりの専制君主だったようだが、今ではそんな面影もない。
死ぬまで家で過ごしたいと主張していた義母とは対照的に、息子たちが決めた老人ホームに入所することに一切抵抗することもなかった。
そして、施設に到着した義父は家族が手続きをする間、入口のベンチでうなだれて座っていた。
入所のショックというよりも一刻も早くベッドに横になりたいという感じだった。

一方の義母は、自ら手押し車を押して歩いて施設に入った。
一時は義父の方が元気で義母の世話をしていたが、すっかり形勢逆転となってしまった。
義母は義父のわがままに従うよくできた奥さんだったが、本当は社会に出て活躍したいというキャリアウーマン志向の女性だったらしい。
だから私の妻が大学卒業後、就職先をすぐに辞めて私と結婚したことに多少不満もあったと聞く。
親世代の女性たちはまだなかなか自分の意思通りに生きることは難しかったのだろう。
たくさん我慢をして家族のために尽くした人生。
でも近頃では義父の面倒もほとんど他人任せで、自分が食べたいものを食べて自由奔放に生きているように見える。
人生の最晩年における人間は、それまでの人格が大きく変わるように思う。

義父の後から施設に入っていく義母を玄関先で見送った。
「お母さん、元気でね。友達を作ってね」と声をかけた妻に、義母はおどけたように両手を振り、満面の笑みを浮かべて建物の中へと消えていった。
なんだかとても印象的なシーンだった。
義父の体調不良で一緒に入院していた病院から退院してから、「お父さんだけ入ればいい」と自身は老人ホームに入りたくないと何度も話していた義母だが、子供たちが代わる代わる世話をしてくれるのを見て、「若い人たちに迷惑をかけたくない」という気持ちになってくれたようで、笑顔での入所となったのだ。
この先、施設に入った義父母にどんな変化が表れるか予断はできないが、現実的には二人だけで自宅で過ごすことはもはや不可能な状況になっていたといえるだろう。

義父母の施設入りを見届けた後、岡山市内のマンションで一人暮らしを続ける89歳の私の母を訪ねた。
部屋にはお墓参りの際に摘んだニラの花が飾られていた。
私の母はとてもセンスの良い人で、もらった花を自分流にアレンジして常に部屋を飾っている。
伯母と義父母が相次いで介護付きの老人ホームに入所した今年。
残るのは母だけである。
久々に会う次男を交えて4人で中華料理を食べにいった。
近頃めっきり食事の量が減った母だが、今日はとても元気で思いの外たくさん食べていた。
こうして元気そうな母と過ごせるのも後どのくらいだろう。
10年かもしれないし、1年かもしれない。
親世代にはできるだけ穏やかな最後を過ごさせてあげたい。
でも、何をすることが最善なのか、その答えはなかなか見つからないのが現実である。