<吉祥寺残日録>岡山二拠点生活🍇 伯母の四十九日も無事終えて東京に戻る #230424

4月も下旬ともなると、新緑の色も濃くなって、ウキウキ感が若干色褪せてくる。

それでも、昨日は本当に素晴らしい天気だった。

抜けるような青空。

山も光り輝いていた。

向かいの山の中腹には薄紫色の花が咲いている。

亡くなった伯母はかつて「あらぁあー、桐の花じゃ」と教えてくれたことがあったが、その真偽のほどは定かではない。

今回の滞在中、近くまで行って確かめたいと思ったのだが、結局やることが多くてその願いは叶わなかった。

そんな暑くもなく寒くもない理想的な春の日に、先月亡くなった伯母の四十九日法要を取り行った。

法事と言っても参列するのは私たち夫婦と母、そして東京から日帰りでやってくる弟の4人だけだ。

だから多少体裁は悪くても、伯母が60年以上暮らした古民家で、伯母が使っていた物を使って祭壇を作ってあげたいと思った。

玄関にあった小机やダンボール箱などを並べて、その上に白いシーツをかけ、お位牌や遺影を並べる。

屋根裏部屋を片付けた時に出てきた黒い漆の台を磨いて、こちらには線香立てやおりんなどを置いた。

祭壇には何を並べるものなのか私も妻も知識がなかったので、ネットで調べながら必要なものを用意していく。

妻を一番悩ませたのは、祭壇の中央に置く御膳。

通常は御膳の上に5品の器を置くようだが、私たちは伯母が得意だった百人一首の木箱のフタを裏返し、その中におちょこのような小さな器を並べて代用することにした。

妻は前日から御膳に並べる煮物などを作り始めた。

そして仏様から見て左手前に炊き立てのご飯、右手前に汁物、左奥には煮物を置き、右奥には酢の物、そして真ん中に漬物を並べた。

ネットの情報もそれぞれ微妙に違っているので、まあ気持ちを込めて料理をすれば、多少中身や配置が違っていても伯母は怒らないだろうと考えた。

それ以上に私たちが気をつけたのは、伯母が生前愛用した物を出来るだけ祭壇に並べてあげること。

たとえば、百人一首だとか湯呑だとか、布袋様の置物や知り合いから贈られた「心」という書が書かれた額とか。

そして可愛がってもらった子孫の代表として、去年生まれたばかりの孫の写真も飾る。

しきたりよりも伯母が好きだったものに囲まれて送ってあげたかったのだ。

この祭壇を見た母はあまり感想らしきことを口にしなかったので、ちょっと戸惑ったかもしれない。

でも私たちの結婚式も常識から外れた手作りの式だったから今更驚きもしないだろう。

お坊さんは午後2時の約束時間から少し遅れてやってきた。

住職が来る予定だったが、急な葬式が入ったからと息子が代わりにお勤めをするという。

急な葬式というのはうちのすぐ裏手にある家のおばあちゃんで、前日に救急車で運ばれるのを妻が目撃していたが、どうやら亡くなったらしい。

お坊さんが着替えをしている間に、椅子を並べて法要の準備を整える。

90歳になった母は近頃畳の座るのが大変になったようで、それに合わせて全員椅子に座ることにしたのだ。

黄色と青の派手な法衣に着替えたお坊さんは「御位牌に魂を入れる儀式をしてから四十九日の法要に移るので今日は少し長くなります」と断ったうえで朗々とした声でお経を唱え始めた。

そして、宣言通りこの日のお経は予想以上に長く、せっかく用意した焼香用の炭がいざ焼香というタイミングまでに燃え尽きてしまった。

わざわざ仏具屋で買って用意したのに、焼香の煙が上がらなければちょっと拍子抜けである。

ついには祭壇の蝋燭も燃え尽きて、流石に長すぎるのではないかとお坊さんの背後で私たち4人、うとうとしたりソワソワしたりし始める。

私の両サイドでは妻と母が目を瞑っていてどうやら居眠りをしているらしい。

端っこに座る弟は、午後4時前の電車に乗るように新幹線を予約していたため、予想外に長いお経にちょっと当惑している。

いつものように、最後は私たちも一緒にお経を読まされ、四十九日の法要は1時間40分ほどで終わった。

弟はもう電車の時間がギリギリで、終わるや否や着替えをし近くの駅まで車で送ってようやく間に合った。

弟を駅に送り戻ると、お坊さんも普段着に着替えて妻と話をしている。

父親の住職もおしゃべりだが、息子も負けずにおしゃべりが好きなようだ。

私はお坊さんをテーブルに招き、重要な話を切り出した。

伯母については今後、高野山で永代供養してもらうことにしたと伝えたのだ。

寺を離れる場合、離檀料などでお寺と揉めることが多いと聞くが、まだ見習い中の息子だからか全く動揺する様子もなく、「帰って住職に伝えます」と答えて高野山での修行時代について楽しそうにおしゃべりを始めた。

まあ、揉めなければ、多少のおしゃべりに付き合うぐらいお安いものである。

こうして四十九日の法要を区切りに伯母についてはお寺を離れ、今後は高野山を中心に新たな供養の仕方を私たち親族で作っていこうと思っている。

ただ秋には私の父の十七回忌があり、母の希望で従来通りお寺にお願いすることにしているので、お寺との縁が完全に途切れるわけではない。

少なくとも母が生きている間は、毎年のお布施も続けて関係を維持するつもりだ。

東京にいると、通夜も告別式も簡略なものが多く、法事などもほとんどしないという人も珍しくはない。

東京で1時間40分もお経を読むお坊さんはきっと嫌がられるだろう。

でも熱心にフルバージョンでの供養をしてもらったのだからお坊さんに文句を言うのは筋違いで、30分か1時間で終わるだろうと考えて早めの新幹線を予約していた弟の方に問題がありそうだ。

お坊さんが帰った後、妻と母と3人でお墓参りをし、私が母をマンションに送っている間に妻はさっさと祭壇を片付けていた。

人が亡くなった後のセレモニーというものは、こうでなければならないという信念がなければ、なんでわざわざこんな面倒なことをするのかと素朴な疑問が湧いてくる。

普段から全く信心深くない人間がにわかに仏教徒になろうとしても所詮無理がある。

大切なのは儀式のやり方ではなく、故人のことを親族みんなで偲ぶこと。

そのやり方は時代と共に変わっていくのも自然な流れだろう。

法事が終わり、今日東京に戻ってきた。

岡山を発つ時、伯母が長年暮らした家の庭には伯母が育てたシランの花が咲き始めた。

この家に来ると、そこかしこから伯母の思い出が蘇る。

こうしてちょっとした時に伯母を思い出すこと。

そうした日常こそが、私にとっては最も自然な供養なのではないかと思っている。

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