会社を辞めたのだから少しぐらい家事の負担を引き受けなければ・・・。
そんなことを考えながらも、妻がさっさとやってしまうのでたまにゴミ出しを手伝う程度で妻に甘えっぱなしだった。
そういう意味では、妻の体調不良はいいきっかけになったと言える。

昨日の発熱から一夜が明け、朝起きると妻の熱は下がっていた。
しかし、全身の激しいだるさは残りめまいもするようでベッドから起き上がることができない。
熱が下がったということは、コロナやインフルエンザではなさそうだなとひとまず安心しながら、妻に代わって朝食の用意をする。
「おかゆでも作ろうか」と聞くと、妻は普通のご飯がいいという。
ご飯に塩をふったものなら食べられそうだというので、冷凍してあったご飯をレンジで温め塩をふってベッドに持っていった。
妻は苦しそうに体を少し起こし、少しずつご飯を口に入れ、バナナも少し食べた。

私は温めたご飯に「錦松梅」を振りかけて、冷蔵庫に残っていた千枚漬けなどと一緒に簡単な朝食を済ました。
昨日四谷三丁目を訪れた時、「錦松梅」の本店の前を通りかかり、昔よく食べたなあと懐かしくて一袋買ってきたのがたまたま役に立った形だ。
朝ごはんの後は食器を洗う。
昨夜から妻は寝たきりなので、私は洗い物をしたり、鍋に残っていた湯豆腐を妻に指示されるままにタッパーに納めて冷蔵庫にしまったり、少しだけ家事をやっている。
妻が元気な間に一通りの家事ができるようにならなければとずっと考えていたので、ちょっと面倒だがいいタイミングだという思いもあった。

妻は自分で電話をかけてクリニックの予約を取った。
「晴朗クリニック」は小児科と内科のお医者さんだが、妻のかかりつけ医の一つであり、私に「連れて行って」と言う。
歩いて10分もかからないクリニックだが、妻はとても歩いて行けそうにないので、タクシーを拾って行く。
久しぶりに、妻と手を繋いだ。

小さな子供たちが次々に検診に訪れる中で、妻はソファーの端っこに腰掛けて壁に頭をもたせかけて順番を待つが、とても苦しそうだ。
ようやく順番になり、診察室に入って行った。
医師は妻の話を聞いて、コロナやインフルエンザの検査はせずに、疲労が原因だろうと診断した。
これを治す薬はないので、しっかり寝てご飯を食べるしかないと言いながら、「ビタミンニンニク注射」を打ってくれたという。
一時、芸能人やスポーツ選手の間で流行った「ニンニク注射」の一種なのだろう。
その効果があったのか、クリニックからの帰りはタクシーに乗ることなく、ゆっくりと歩きながら手をつないで家に帰ることができた。

昼ごはんは、温めたご飯にきなこをかけて食べる。
温め直した湯豆腐も少しだけ食べて、朝よりも少しだけ元気になったようだ。
私はこの機に懸案の家事を少し覚えようと思い、食後買い物に出かけた。
吉祥寺のスーパーの中で一番安いという西友に向かう。
妻に付き合って何度か訪れたことがあるので特に戸惑うことはないが、一人で来ると、普段妻が買わない食材が目に留まる。

妻に頼まれたのは牛乳だけだったが、妻が食べられそうなものや私が食べたいものなど私の判断でいろいろ買って帰った。
自分で主体的に食材を選ぶという行為はなかなか新鮮で、一家の毎日の食事を考える主婦にとって、日々の買い物は、仕事であるのと同時にある種のレジャーでもあるのではと感じた。
買った食材をどう組み合わせて何を作るのか、そこにはマネージメント能力が求められる。

家に帰って、予約の仕方を妻に教えてもらいながら炊飯器をセットする。
自分でご飯を炊くのも学生時代以来かもしれない。
こう見えても学生時代には結構自炊をしていたのだ。
家事ができないはずはないだろう。
とはいえ、台所のどこに何が入っているのかさっぱりわからないので、いちいち妻に聞きながらの作業である。
炊飯器をセットするとどっと疲れた出て爆睡してしまった。

夕方目が覚めて、食事の準備を始める。
妻は、冷蔵庫にあった茹でたほうれん草とシラスを食べるというので自分の分だけ作ればいい。
そこで私が作ったのは炒め物2種類。
一品目は、冷蔵庫にあったセロリを刻んで今日買ってきた味付きチャーシューを混ぜ、ごま油で炒める。
味付けは塩胡椒だけだ。
本当は、中華風の腸詰が良かったのだがスーパーには置いていないというのでチャーシューで代用した。
もう一品は、やはり冷蔵庫にあった茹でたジャガイモとほうれん草をバターで炒め、玉子を加えた。
味付けは塩胡椒と香づけの醤油。
自分で料理をしたのはいつ以来だろう。
学生時代にも簡単な炒め物を作ることが多かったので、この程度なら今でもできる。
食べてみると、まあまあの出来であった。
慣れないことをするのは大変ではあるが、ちょっと新鮮で楽しくもあった。
ニンニク注射が効いたのか、夕方には妻の容態も快方に向かいホッと胸を撫で下ろす。
妻の病気は、私が家事に取り組む必然性を生んだ。
これもきっと、天の導きというものなのだろう。
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