今日からゴールデンウィーク。
去年と一昨年は緊急事態宣言下で県を跨いでの移動自粛が呼びかけられていたが、今年はそうしたこともなく多くの人が移動すると見られている。

東京駅では各地に向かう乗客で混雑し、行列を整理する人の姿も久しぶりに見られたという。
しかし我が家では、妻の不眠症が一向に改善せず、昨夜もほとんど寝られなかったらしい。
ほぼ1日おきで徹夜している妻は、眠れなかった翌日にはほとんど家事をする元気もなく、かといって横になるのも疲れてしまうという始末で、これは並の病気とはまた一味違った苦しさがあるようだ。

本来であればこの季節、岡山に行けばやることがたくさんあるのだが、一人で無理に行っても妻のことが気がかりで楽しむことはできないだろう。
朝、「また寝られなかった」と私のもとに来てぐったりしている妻の背中をさすってやった。
若い頃だったら、自分のやりたいことが優先でもう1ヶ月になる妻の不眠症をうとましく感じただろうが、60代になり会社も辞めて悠々自適の隠居生活に入ると、わざわざ人の多いゴールデンウィークに出歩く必要もあるまいと、意外に心の平穏が保たれているのを感じる。
硬くなった妻の体をそっと抱く。
弱った妻もそんな私の温もりを喜んでくれる。
私も歳をとって少しは「やさしい人」になれたかな、と思う。

ゴールデンウィーク初日、吉祥寺には雨が降っている。
雨の井の頭公園を眺めていると、昔のことがふと脳裏に浮かんできた。
若い頃、私が立てた人生の目標の一つが、「やさしい人」になることであった。
子供の頃の私は、人と交わるのが苦手で一人遊びを好む内気な少年だった。
人に優しく声をかけたり、友達と心打ち解けて裸の付き合いをするのも苦手だった。
そんな私が大きく変わったのは、大学生になり東京に出て寮生活を始めてからだ。
自分を知る人のいない新たな環境でまったく違った人間に生まれ変わろう、そう決めたのを覚えている。
大学の授業にはほとんど行かず、毎晩友人と飲んで麻雀をし、学園祭の委員になって様々なイベントに飛び回った。
旅行に行くようになったのも、意図的に始めたことだ。
「旅行が趣味」と言える格好いい自分を妄想し、なるべく人が行っていない場所に行こうと計画した。
大学時代に、インド、中南米、アフリカを旅したのは、就職すると長期の休みが取れないだろうからなるべく遠い国から旅行しようと考えたからだ。
国内でも、北海道をヒッチハイクで一周したり、小笠原や西表島などなるべくミーハーな観光客が行かない場所を選んだ。
予想通り旅での経験は私を大きく変え、多少のことには動じない鈍感力を植えつけてくれたが、同時に自分のやりたいことをいつも優先して平気で嘘をつき周囲の人間を振り回すような人間に変貌していく。
妻とは大学時代の最初につきあったが、「人間関係を一度リセットすることにした」という自分勝手な理由で私の方から一方的にふった経緯がある。
妻はおとなしく真面目な女性で、当時の私にとっては刺激が足りなかったんだと思う。

留年して大学に6年間留まった私は、就職が決まった後アフリカを旅行することを決め、どういうわけか既に就職していた今の妻に連絡した。
「一緒にアフリカに行かないか?」
自分からふっておいて、今度は唐突にまた誘う・・・今から考えればあり得ないひどい話である。
しかし、妻は会社を辞めて私と一緒にアフリカに行くことを決めた。
当時の私は結婚などする気は毛頭なかったが、「俺の生き方についてこれるかどうかテストだ」といった上から目線な話をした記憶がある。
まったくとんでもない勘違い野郎だが、それでも妻は私についてきた。
真面目で何事にも慎重な妻には、そういう信じられないような大胆さと決断力がある。
エジプトではトイレの水も流れないような安宿でノミに食われながら眠り、ケニアではキャンプ中に象にテントを襲われて死にそうになった。
それでも妻は文句も言わず、40日間私と一緒にアフリカを回ったのだ。
そんな女性が今、不眠症で悩んでいる。
この1ヶ月の半分は、一睡もできないまま長い夜を過ごしている。
どうにかしてやりたいが、私には彼女を抱きしめて背中をさすってやることぐらいしかできない。
今年のゴールデンウィークは吉祥寺にとどまって、妻の背中を撫でながら過ごすことになるだろう。

アフリカから帰国した後も、私は妻に結婚しようとは言わなかった。
その春はテレビ局への就職が決まっていて、私の前には無限の未来が広がっていた。
とても結婚などしている場合ではない、そう思っていた。
4月になりテレビ局での研修が始まった頃、妻から電話が入った。
妊娠したという。
一瞬頭の中が真っ白になったが、出産予定日が1月1日だというのを聞いて、なぜか私は運命のようなものを感じた。
「この子は産まなければならない」
同期の連中が毎晩飲み歩いて親交を深める中、私は一人彼女の元に通いながら、逃げたい心を押さえ込んでやっとの思いで結婚することを決断した。
全く予期せぬ人生が始まろうとしていた。
そんな時立てたのが、他人の迷惑を省みない自分勝手な生き方を改めて「やさしい人」になろうという目標だった。
社会人としてやっていけるかという不安と同時に、家族を持つという思いもかけない責任が若い私にのしかかってきたあの1982年は、私の人生にとって最大の転換点であった。

あれから40年。
今年、私たち夫婦は結婚40周年を迎える。
あの頃、大人しく私についてきてくれた妻も、今ではすっかり口うるさい女房に変身した。
3人の息子と5人の孫に恵まれ、まもなく6人目の孫も生まれる。
会社を辞めてアフリカまで私についてきた妻の決断は、今時珍しい大きな家族を作ったのだ。
仕事の忙しさにかまけて子育てはいつも妻に任せっきり、なかなか「やさしい人」にはなれなかった。
今でも自分のやりたいことを優先したい気持ちは強いが、それでも妻のそばに寄り添い、そっと背中に手を当ててあげるくらいのことはできるようになった。
結婚を決めた時に立てた目標が、40年経ってようやく少し実現できたのかもしれない。
人生とはままならないものである。
今はじっと妻の体が回復するのを待とう。
きっとそういう時期なのだ。