以前このブログにも書いた「養子縁組」について、その続きを書きたいと思う。
難航も予想されたが意外にスムーズに話が進み、本当に伯母と養子縁組をしてしまった。
先週末の話だ。亡くなった父親の13回忌で私たち夫婦と弟夫婦が岡山に集合した。

伯母が今も暮らす岡山の実家には、私たち兄弟も子供の頃7年間ほど住んだことがある。
縁側の柱には、その当時、私と弟が貼った漫画のキャラクターシールが今も残っていた。

13回忌の行事は、まずお寺に行くことから始まった。
普段扉が閉ざされている御本尊をこの日は拝むことができた。最近、岡山県の重要文化財に指定されたらしい。
菩提寺に顔を揃えたのは、私たち夫婦と弟夫婦、母親と伯母の6人。7回忌まではたくさんの親戚も呼んでいたが、今回はごく近い人だけで法事をすることにした。
和尚の都合で、予約していた時間が変更となった。
いつも必要以上におしゃべりな和尚なのだが、この日は和尚の予定が詰まっているらしく読経の時間が制限された。私たちにとってはむしろ歓迎すべきことだった。
お寺で1時間ほどの法要を済ました後、一度実家に戻り、6人で岡山市内で会食をする計画だった。
しかし、案の定、晴れがましいことが嫌いな伯母が「私は行かない」と言い出した。ちょっと強引なところもある弟が散々伯母を説得したが、伯母はさっさと着替えてしまい結局会食には行かなかった。
滅多にない機会なので伯母にも参加して欲しかったが仕方がない。
5人は、岡山駅前のホテルグランヴィア内の和食屋「吉備膳」でミニ懐石を食べた。当日のドタキャンだったので、伯母の分もテーブルに並んだ。みんなで分けたが、若者がいないので全部はとても食べきれない。
でも伯母がいない会食の席は、伯母との養子縁組について話をするにはちょうど良かったとも言える。
私は養子縁組の用紙を母と弟に見せながら、伯母の養子になることのメリットを話した。そして養子縁組の届けには、2人の証人が必要なので母と弟にサインしてくれるよう頼んだ。
弟はすぐに全面的に賛成し、その場で証人欄に署名してくれた。
しかし、母親は多少微妙な雰囲気だ。
「おばちゃんの気持ちが第一だ」という理由で、伯母が承諾した後でもう一人の証人になると言った。
実は、弟がまだ幼かった時、子供がいない伯父と伯母の家に弟を養子に出すという話があった。その時、母が強く反対したため話はご破算となったのだが、そんな過去の記憶も母の頭によぎったに違いない。
歳を取っても、自分の子供を養子に出すというのは心がざわざわするものらしい。

翌日、私は一人で伯母を訪ねた。
世間話をしながら、自然な流れで養子縁組の話を持ち出してみた。
弟がすでに署名した養子縁組の用紙を伯母に見せながら、私の気持ちを伯母に伝えた。
養子縁組の手続きはとても簡単なこと、養子縁組をしても私と実母との関係は変わらないので気にしなくていいこと、伯母の希望通り農地を私に相続させるためにも養子になるのが一番確かだということ、そして伯母がもっと歳をとり施設に入所したり手術をする時にも養子になっていれば手続きが簡単にでき私自身が助かることなどをゆっくりと説明した。
養子縁組の話は電話でも以前していたので伯母は特に驚いた様子もなく、「それはうれしいけどなあ」と素直に話を聞いてくれた。いつものように「もう、ええ」と言って話をまったく聞こうとしないのではと心配したが、そんなそぶりはまったくなかった。
しばらく話をした後、「無理にとは言わないけど、養母の欄にサインしてハンコを押すだけだから。別に急がなくていいからゆっくり考えて」と言ってみた。
驚いたことに、伯母はまったく迷うことなく、印鑑を探しに行った。
戻ってくると、「手が震える」と言いながら、何度も何度も自分の名前を書く練習をしてから、養母の欄に署名した。
こうして思いの外すんなりと、私のミッションは達成されたのである。

夫に先立たれて50年以上、伯母は一人でこの家と農地を守ってきた。
すごいことだと思う。
そうして伯母が守ってきた家と農地を私は受け継ぐ。
その農地が今どうなっているのか、畑や山を一回り見回ってから家に戻ると、伯母が縁側で寝ていた。
布団も敷かず、板張りの床にやせ細った体を横たえている伯母。その足先だけが、障子の隙間からのぞいていた。
何一つ、贅沢をしなかった伯母の人生を思う。

月曜日、会社を休んで伯母の戸籍謄本を取りに、近くにある市役所の出張所に行った。出張所はJRの線路の近くにあった。ここを訪れるのは初めてのことだ。
伯母を一緒に連れて行ったので、待つこともなく簡単に謄本を取ることができた。免許証を返納した伯母は本人確認のために、健康保険証と介護保険証など2つの公的証明証が必要だった。やはり、甥だと、謄本の申請も容易ではなさそうだ。
「支払いは、キャッシュレスじゃないんですか?」と聞くと、役場の人はバツが悪そうに「すいません。現金だけです」と言って笑った。
安倍政権が推し進めるキャッシュレス決済だが、田舎の行政まではまだ浸透していないようだ。

子供の頃、この場所で暮らした後、実家にはごくたまに帰省した時に立ち寄るだけだった。もともと田舎には興味がなかったし、その土地を自分が相続する気もまったくなかった。
父親が死に、その土地を相続した時、初めて我が事として先祖の土地に向き合った。その当時、伯母はとても80歳とは思えないほど元気で、山の中をかき分けながら我が家の土地がどこにあるのか私に教えてくれた。
東京では考えられないほど広大な土地。相続した当初は、その土地を売ることだけを考えていた。しかし、農地や山林には勝手に家が建てれらないので買い手を探すのは難しい。それに、伯母が苦労して守ってきた土地を伯母が生きている間に手放すことはできないだろうと思い、しばらくそのままにすることに決めた。
でも、自分のものになった農地や山林に通ううち、その土地に愛着が湧いてきた。子供の頃、あれほど嫌いだった田舎がとても美しい場所だと気がつき始めた。集落の人たちがそれぞれの農地に手をかけて守ってきた田園風景がそこにはあった。
帰省するたびに、心が休まるのを感じるようになる。
チェーンソーを買って、年末には山にはびこった竹を伐採する作業を年一回行うようになると、静まり返った山の中で黙々と作業する気持ち良さが癖になってきた。
そして今回。法事の後の会食で、弟が思わぬことを言い出した。
「希望を言わせてもらうと、墓はこのまま岡山に置いておいて欲しい。墓があると、子供たちも岡山との関係を保つことができるから」と言った。
私たちの子供たちも弟夫婦の子供たちも、全員東京を中心に生活していて、岡山には親に連れられておばあちゃんに会いに行く程度の接点しかない。私や弟のように岡山で暮らした経験もない子供たちに、岡山の農地や墓の面倒を見ろというのは所詮無理な話だろうと私と妻は考えていた。
母や伯母が亡くなった後には、私の代で始末しなければならないと覚悟を決めていた。先祖が眠る墓についても、今流行りの墓じまいをして東京に移すのが現実的だろうと考えたのだ。
でも、弟は意外にも、岡山との関係を残しておきたいという。
父親が死んだ時、婿養子のような形で奥さんの親と同居している弟は、岡山のことは全部私に任せると言っていた。少なくとも当時、弟は岡山の土地にまったく興味がなかったのだろう。
でも、弟も60歳が近くなり、少し考えが変わったようだ。まだ仕事が忙しい弟だが、これからは時々岡山に戻りたいと言う。
家や農地をどのように管理していくのか、新たなプランが必要なようだ。

東京に戻り、私の本籍地である三鷹市役所に養子縁組の申請に行った。
11月20日のことだ。
いくつかの文言の修正はあったが、申請書は無事に受理された。
この日をもって、私は伯母の養子となった。
私の実母、妻の実母、そして養母。私には岡山に3人の母親ができたのだ。
3人とも年齢は、86歳か87歳。養母はまもなく88歳となる。

晴れ渡った東京の空の下、色づき始めた井の頭公園を見下ろしながら、改めて責任の重大さを噛み締めていた。
そして今日、私と弟の一族全員が参加するLINEの新しいグループを立ち上げた。
岡山の農地管理も、新しいフェーズに入ったのだ。
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