<吉祥寺残日録>今年も残すところ半月、さあ来年は何をしようかな? #211215

さて、今年も残すところ半年となった。

介護のために岡山との往復生活が始まったものの、我が家は至って平穏な一年であった。

コロナ禍で緊急事態宣言が長く出されていたこともあり、旅行もほとんどせず、吉祥寺と岡山を往復しながらほとんどの時間を家の中で過ごしてきた。

感染防止の観点から言えば、かなりの優等生である。

それでも、1年間のテーマとして設定した井の頭公園の植物観察や歳時記の勉強はとても新鮮で、おかげで公園を歩いていても「これは○○の木だ」などと妻に自慢できるようになった。

自分が少し賢くなったようで、これは、とても良かった。

とはいえ、まだ名前のわからない植物は無数にあり、鳥や昆虫の名はまだほとんどわからない。

おそらく死ぬまでかかっても、すべての名前を覚えることはできないだろう。

こうして自然と向き合うようになると、古の人たちが歳時記に込めた暮らしぶりというのが少しだけ理解できるようになってきた。

野に生えている植物を片っ端から食べてみて、これは食える、これは食えないなどと判別しながら、この葉は腹痛に効くとか、この樹皮は染め物に使えるなど長い時間をかけて少しずつ生活に取り入れていったのだ。

地球温暖化が問題となる中で、何でもかんでも化石燃料に頼る「文明」がもはや続けられなくなってきた。

そうなると、「進歩」の名の下に捨ててきた昔の生活、先人たちの知恵がにわかに見直されようとしている。

今年の正月、私は新年にあたって一冊の本の話をこのブログに書いている。

イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが書いた世界的ベストセラー「サピエンス全史」。

この本の中で作者が投げかけている一つのシンプルな問いを、年の終わりに当たり改めて考えている。

「人類は幸福になったのか?」

人類の壮大な歴史を独自の視点から分析した上で、ハラリ氏は、このように書いている。

本の中で私が問いかけているのは「幸福」という哲学的な問題です。人間は幸福になったのか? 2万年前よりも私たちは幸福なのか? ということです。

ほとんどの歴史書が、国家がどれだけ権力を得たかについてだけ書かれていて、「幸福」という問題を軽視してきました。しかし「幸福」という視点がなければ歴史における重要な問題について理解することはできないのです。権力は必ずしもより良い世界を創り、人々を幸せにするものではないということを認識しなければなりません。歴史を見ると、人間は権力を大きくするのは得意ですが、それを幸福に替えるのはうまくありません。ですから、現代人は石器時代より何千倍も力を持っているにも関わらず、2〜3万年前と比べてそれほど「幸福」には見えないのです。

引用:ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」より

資本主義社会で暮らす私たちは、子供の頃から豊かさの基準としてGDPという指標に慣れ親しんできた。

経済成長というものが何よりも重視され、企業でも売り上げや利益の対前年比アップが重視される。

しかし、会社を辞めて1年間無職のオヤジとして過ごしてみると、収入は激減しているのに幸福度は間違いなくアップしているように感じるのだ。

定年になっても次の仕事、次に居場所を求めていろいろ動き回る人もいる。

ずっと社会の中で暮らしてきた人にとって、肩書きを失い、社会から切り離されることに大きな不安を抱える人も多いのだろう。

不安というよりも、それまでの延長線上ではない自分の生き方を想像できないのかもしれない。

まあ人それぞれなので、その人にあった老後を選べばいいのだけれど、せっかく有り余る時間を手にできるのだから、本当に自分が幸せを感じられることに時間を使った方がいい。

私にとってそれは間違いなく「旅」なのだが、コロナ禍の状況で焦って旅に出なくても、楽しみ方はいろいろある。

「旅」の基本は非日常に身を置くことであり、見たことのない風景、行ったことのない国、知り合いが誰一人いない環境、そして言葉さえ通じない不便さの中で、未知の体験をすることが旅だが、井の頭公園で植物を観察することも、岡山で農地と格闘することも少なくとも今年の私にとっては未知の体験であり、ある種の「旅」であった。

同じ日のブログで、司馬遼太郎さんの言葉についても書いている。

『倭は元来、素っ裸の褌一本』

『文化は興すが、文明は興さない』

日本人の本質は、文明を重んじた中国や朝鮮から見ると「褌一本に大刀をふりまわして駆けまわる」倭寇のようなものだと決して自虐的ではなく書いていたのだ。

それを読んで、私はこんなことを書いている。

日本人は喧嘩の時になぜか「諸肌を脱ぐ」。

身を守るためなら防具を着込んだ方が有利だが、日本人はなぜか自らの肌を晒すのだ。

自然災害などですべてを失っても「裸一貫から出直す」と言って諦めずに頑張る。

そして、温泉を愛し、「裸の付き合い」を昔から大切にしてきた。

これはひょっとすると日本人の中に眠る南方の血によるものなのかもしれないと司馬さんの本には書かれていないことを勝手に想像した。

日本人のご先祖様は、島伝いに南方からやってきて、朝鮮半島から渡ってきた北方系の民族と混じり合って日本人の原型ができあがった。

自然と共生する裸の文化は南方から、稲作や仏教・儒教、律令などは朝鮮半島から日本列島に人間の移動を伴って流れ込んだのだろう。

大陸で「黄河文明」が勃興し激しい戦乱が始まっても、日本列島では縄文文化ぐらいで十分みんなが呑気に暮らすことが可能だった。

まさにハラリさんが定義した「農業革命」の前と後の違いだ。

そう考えて、一人一人の人間の視点から眺めると、中国人よりも日本人の方が長い間「自由」を享受できたと言えるかもしれない。

『倭は元来、素っ裸の褌一本』

無駄なものを削ぎ落とし、素っ裸でも柔軟にしぶとく頑張れる日本人の個性を再認識して、その特性を磨いていく。

それこそが、コロナ後の日本にとって大事なことではないかと感じたことも、2021年の元旦に書き残しておきたいのである。

引用:吉祥寺@ブログ

社会人として抱え込んでいた分不相応の重荷を下ろして、本来の「素っ裸の褌一本」に戻れたのが今年だったのかもしれない。

親たちの介護はこれからますます大変になるだろうが、親の最後を支えることができるのもある意味幸せなことである。

人生にはお金では買えない価値がある。

それを一つ一つ見つけていくことに、私に残された時間を使っていくのだ。

さて、来年は何をしようかな?

いくつかの年間テーマが私の頭には浮かんでいる。

  • 毎月岡山に通って農作業をする
  • 歴史と和食と温泉を求めて日本各地を旅する
  • 福島で活動する姪夫婦の手助けをする
  • 自分で料理にトライする
  • 岡山の古民家をDIYで修理する
  • 生涯の苦手科目・英語に再トライする

あまり欲張りすぎると、すべてが中途半端になってしまうので、コロナの状況も睨みながら力まずにできるところから励んでいきたいと思っている。

とりあえず、明日からまた岡山に行ってくる。

こうして毎日ブログを書いていることが、知らず知らずのうちに自分の尻を叩いている・・・そんなことに気づく今日この頃である。

<吉祥寺残日録>年の始めには大きなことを考えよう!「サピエンス全史」と司馬遼太郎の言葉 #210102

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