<吉祥寺残日録>私が生きた時代👀 ドキュメンタリー番組『世界サブカルチャー史』で辿る「アメリカ幻想の1970年代」 #221105

映画を中心としたサブカルチャーを糸口に時代ごとの空気を検証していくテレビマンユニオン制作の大変興味深いドキュメンタリー番組『世界サブカルチャー史 欲望の系譜』。

1960年代から始まって2010年代まで10年刻みで番組化されたのだが、私にとって一番肝心な1970年代の回を録画し忘れていた。

それが最近短く再編集された形で再放送されていて、ようやく私の人格形成に大きな役割を果たしたであろう1970年代を振り返る糸口を掴んだ気分だ。

番組では1970年代を取り上げたこの回に「幻想の70’s」というタイトルをつけた。

NHKのホームページにはこんな解説が。

戦後サブカルチャーの震源地、超大国アメリカ。「自由と民主主義の実験場」の迷走は「空白の70年代」に始まった?「イージー・ライダー」「ゴッドファーザー」「ジョーズ」「未知との遭遇」「サタデー・ナイト・フィーバー」「ディア・ハンター」「タクシードライバー」「地獄の黙示録」…、ベトナム戦争の傷跡の中、超常現象、オカルトブームが沸き起こる。時代のマグマはどこに噴出する?異色の歴史エンタメ・ドキュメント。

引用:NHK

「空白の70年代」という言葉に、ちょっとショックを受ける。

歴史の専門家たちの間では、1970年代はそう呼ばれているらしい。

この番組の最後で、ボストン大学の歴史学者ブルース・シュルマン氏は次のようにこの時代を総括していた。

『70年代はこれまで軽視され過ぎ、さらに完全に誤解されていました。アメリカをはじめ世界中の歴史学者が70年代を「空白の十年」と見ていたのです。ところが真面目に見てみると、きわめて重要な時代であると気づくでしょう。多くの意味でアメリカそして今日の世界の種まきの時期だったのです。』

何が空白だったのか?

私にはさっぱりわからない。

あの時代ほど複雑で多くの問題を浮き上がらせた時代はなかったのではないか、私はそう感じる。

では、番組に沿って私が多感な中高生そして大学時代を過ごした1970年代を振り返ってみたい。

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1970年、大阪でアジア初の万国博覧会が開催された。

私は当時中学生、学校の遠足としてみんなで万博を見に行った。

一番の見せ物はアメリカ館の月の石だったが、あまりの行列におじけずきマイナーなパビリオンばかり回った記憶がある。

あの時代、日本はまだ1960年代から続く高度成長の真っ只中にあり、先進国の仲間入りしたという高揚した気分が社会に溢れていた気がする。

アメリカにとっても1960年代は黄金の時代、中流階級でも自動車や郊外の一軒家を持つことが当たり前となり、日本人が憧れる大量消費社会が到来した。

1964年に放送が始まったコメディドラマ「奥さまは魔女」では、こんなフレーズがよく登場した。

『2人はごく普通の結婚式を挙げて、ごく普通のハネムーンへ、ホテルもごく普通、しかし普通でないことがひとつ・・・奥様は魔女だったのです』

この「ごく普通の」を意味する「tipical」という言葉が何度も繰り返されたように、中流家庭の「当たり前」が違和感なく受け入れられたのが1960年代のアメリカだった。

しかし1970年代、アメリカ的なる「当たり前」が音を立てて崩れ去る。

変化が現れはじめたのは1968年、ベトナム戦争が泥沼化し、キング牧師やロバート・ケネディ上院議員が相次いで暗殺された年だ。

若者たちは豊かなアメリカ社会に疑問を感じ抵抗を始める。

そんな時代に生まれたのが「カウンターカルチャー」だ。

男性の長髪にロック、ドラッグ、フリーセックス、こうしたカウンターカルチャーのうねりは1969年のウッドストックで最高潮に達する。

そんな時代に生み出された映画がデニス・ホッパー監督、ピーター・フォンダ主演の「イージーライダー」だ。

あの主題歌「Born to be wild ワイルドで行こう!」は、まさに私の青春時代を代表する1曲だった。

映画そのものは中学生だった私にはそれほど面白いものではなかったが、保守的な南部で理由もなく住民に銃撃され若者が死ぬラストシーンは衝撃的で、社会や大人たちに対する怒りを私の心に植え付けたように感じる。

監督のデニス・ホッパーは当時の時代状況をこう話していた。

『たとえば大都市では黒人と白人の争いで、街のあちこちで焼きうち騒ぎがあったし、ヒッピーは街に繰り出してドラッグの使用を堂々と主張し「ラブ・イン」が行われ、国中がベトナム戦争に対して失望するようになっていたり、恐ろしいほど悪い状態だったんだ。それで俺は、それを象徴化したかったんだ。』

この年、こうした若者文化に不安を感じる古い世代に訴えかけ大統領選に勝利したのがニクソンだった。

「サイレントマジョリティ」と呼ばれた保守層にニクソンの主張は支持されたのだ。

自由を意味する長い髪は、南部の人たちには伝統を踏みにじる脅威そのものと映った。

さらに徴兵を猶予されていた学生に対し、有無を言わせず戦場に送られた北部の労働者たちの間にもドラッグに興じる若者たちに対する不満が高まっていた。

1970年5月、ヘルメット姿の労働者がニューヨークをデモ行進を行い鉢合わせした反戦デモ隊と乱闘となった。

日本でも70年安保闘争が抑え込まれたように、アメリカでも奇抜な若者文化は次第に排除されていく。

「イージーライダー」の中で、ピーター・フォンダは「俺たちは負けたんだ」というセリフを残した。

それが時代の空気だったのかもしれない。

しかし、この時代に生まれたヒッピー文化が私の人格形成に大きな影響を与えたことは間違い無いだろう。

ハリウッドから離れ低予算で製作された「イージーライダー」の成功は、独立プロダクションを立ち上げたばかりの2人の若手監督に大いなる追い風となった。

フランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカスである。

1973年にルーカスが発表したのが「アメリカン・グラフィティ」。

1960年代初頭のカリフォルニアの小さな町を舞台とする青春群像劇である。

まだケネディ暗殺もベトナム戦争も知らなかったアメリカの古き良き時代が、ロカビリーの名曲に乗せて描かれる。

若き日の私も大好きだったこの映画。

でもその背景には、70年前後の左翼革命が失敗に終わり、アメリカの文化がカウンターカルチャーから一気にノスタルジーへと移っていった時代状況があったことをこの番組によって知らされた。

オイルショックに襲われた1970年代初頭のアメリカでは、不況とインフレが同時に襲うスタグフレーションという未知の状況が起きていて、基軸通貨としてのドルの信用が低下し73年にはドルの固定相場制が崩壊する。

ルーカスはこの映画について、こう語っている。

『僕はある年代のアメリカ人がティーンエージャーだった時代をどう捉えているかということを形に残しておきたかったんだ。僕はそういう時代を生きてきたし、その時代が大好きだったんだ。今の子供は僕らの頃みたいに人生に夢がないんだ』

ただルーカスが美化したベトナム戦争前のアメリカとは、まだ公民権運動もウーマンリブもなく、白人男性中心の古いアメリカであり、そう考えると複雑な気持ちになってしまう。

一方、コッポラが1972年に発表したのはイタリアマフィアを主人公にした重厚な映画「ゴッドファーザー」だった。

こちらは単なるノスタルジー映画ではなく、当時マイノリティの間で高まっていた「エスニック・リバイバル」と呼ばれる民族のルーツや伝統を再確認する運動を反映していた。

家業とは距離を置こうとしていたアル・パチーノ演じる主人公マイケル・コルレオーネが、次第にファミリーの掟に縛られ血の抗争を経てマフィアのドンとして生きていく姿を描く。

若き日の私には派手な抗争シーンばかりが印象に残ったが、歳と取ってからみると実に重々しい人間ドラマであり、多民族国家アメリカの一つの断面を鮮やかに切り取った作品だということがわかる。

『マイケルは、アメリカ社会に同化したい欲求と伝統を守る必要性との間で苦しみます。その葛藤は、70年代のアメリカでは非常に大きな部分を占める物語です。大衆文化、とりわけ映画においてはとても重要な要素だったのです』とボストン大学のシュルマン教授は分析するのだ。

コッポラは言う。

『あの中で私はマフィアというグループを描きたかったのではなく、アメリカという一つの国を描きたかったんです。マフィアというのはアメリカの一つの象徴だと思うんです。彼らは自分たちのグループの利益を第一と考えそれを熱烈に追い求めている。これは資本主義社会の第一議的なことではないでしょうか。つまりはマフィアはアメリカそのものなんですよ。その長がマイケル・コルレオーネで、彼は一切のものを排し利益を追求した。でもその結果どうなったか。彼はすべてのものを失ってしまったんです』

ノスタルジーと並んで、カウンターカルチャーが挫折した後のアメリカでブームとなったものの一つに神秘主義があった。

日本でユリ・ゲラーが大ブームを巻き起こしたのもこの頃だ。

不況とインフレに加えて、72年に発覚したウォーターゲート事件が民主主義に対する失望を生み、先が見えない状況の中で人々は得体の知れない不安を抱えていた。

こうした中で「ジョーズ」や「タワーリング・インフェルノ」をはじめとするパニック映画が次々にヒットする。

「ジョーズ」が公開された1975年はベトナム戦争が終わった年。

超大国アメリカが無様な形でアジアの小国から追い出されたのだ。

建国以来初めて味わう大きな挫折は、1970年代のアメリカに幾つもの名作映画を生み出した。

その代表的な一つが1976年公開の「タクシードライバー」。

ロバート・デ・ニーロ演じるベトナム帰りの元海兵隊員トラヴィスは不眠症を患い、タクシードライバーをしながら退廃した社会に怒りを募らせていく。

彼の歪んだ正義感は次第にエスカレート、大統領候補の暗殺を企てるが失敗し、結局売春組織の元締めを射殺してマスコミによって英雄に祭り上げられる。

荒んだアメリカの70年代の空気と救いのない不安がスクリーンから溢れ出るような強烈な作品である。

もう一本は、1978年のアカデミー作品賞を受賞した傑作「ディア・ハンター」。

こちらもロバート・デ・ニーロが主演を務め、ベトナム戦争の闇をロシアンルーレットの狂気という形で描く。

映画の前半、今ではラストベルトと呼ばれるペンシルベニア州の田舎で暮らす若者たちの平凡な日常が描かれる。

裕福ではないが固い友情で結ばれた青年たちがベトナムに送られ、彼らの人生は一変する。

戦場で捕虜となり仲間を失い、やがて精神を病んでいく。

「ニューヨーク・マガジン」の元編集長カート・アンダーセン氏はこの映画についてこう語る。

『「ディア・ハンター」は現在にまで通じる政治的な病理や失敗を描いた比類なき映画と言っていいでしょう』

監督のマイケル・チミノはこう語っている。

『僕の映画は戦争がこうあるべきじゃなかったっていうこととは全然関係ないものだ。この映画は、自分の家から闇の奥に出かけそして戻ってきたこの国の普通の人たちの疑問に答えているんだ』

何のために戦ったのか?

敗者となったアメリカが必死でこの問いの答えを模索していく中で到達したのが、1979年公開、コッポラ監督の超大作「地獄の黙示録」だった。

戦闘ヘリがワーグナーの「ワルキューレの騎行」を大音量で流しながらベトナムの村々を焼き払う映画史に残る有名なシーン。

でも私は、映画の冒頭で流れるドアーズの「ジ・エンド」が好きで、今でも強烈な印象として残っている。

映画が進むほどに謎が深まり、観客はどんどん難解な沼に引き摺り込まれる感覚を覚える。

コッポラは何を伝えたかったのか?

撮影現場となったフィリピンのジャングルで、コッポラはこの映画をどのように終わらせるのかで苦悩していた。

その様子を見ていた妻のエレノアは、次のように書き残している。

『たった今、脚本の結末を書けない理由がわかったという。なぜ我々がベトナムに行ったのかという問いに単純な答えがないのと同様に、その戦争が矛盾そのものだったから。人間そのものが矛盾から成り立っている。それを認めて初めて、私たちの内部にある愛と憎しみ、平和と暴力といった矛盾の中立地点を発見できる』

コッポラの映画は賛否両論を呼ぶが、やがてアメリカはベトナム戦争を問うことをやめ、新たな方向に進み始める。

「ジョーズ」の成功で27歳の若さで名声を博したスピルバーグが、次に取り組んだのがSF超大作「未知との遭遇」だった。

私はこの映画を有楽町の日劇で観た。

鳴り物入りの超大作ならば、どうせだったら日本で一番大きなスクリーンで見たいと思ったからだ。

映画館は超満員で一番前の席しか空いておらず、視界に収まらない大スクリーンからさらにはみ出す大きさで巨大な母船が登場した時の驚きは今でも鮮明に覚えている。

これまでに見たこともないリアルなUFO。

宇宙人が人類の敵ではなく、交流すべき相手として登場する物語も斬新だった。

ちなみに、ルーカスが「スターウォーズ」の第1作を発表したのも「未知との遭遇」と同じ1977年だった。

宇宙の支配を目論む悪の帝国に対して、勇敢に立ち向かう反逆者の物語は、最新の特撮技術と共に世界中の観客を熱狂させた。

ルーカスはもともと「地獄の黙示録」の監督をする予定だったが、「スターウォーズ」の大成功により、このシリーズ化を優先することになる。

この頃からアメリカ映画の大きな潮流はファンタジーへと移り、勧善懲悪のSF超大作が人気シリーズとして今日までハリウッドの中心に居座り続けている。

そして次第に私は映画を観なくなった。

70年代は、現在まで続くアメリカの分断が生まれた時代でもあった。

60年代に始まったウーマンリブ運動は次第に女性の社会進出を促し、70年代半ばには合衆国憲法に男女平等の修正条項が盛り込まれるところまで進んだ。

それと同時に離婚も急増し、結婚した男女のほぼ半分が離婚するほどに深刻な社会問題となる。

そうした70年代のアメリカを切り取った映画がダスティン・ホフマンとメリル・ストリープ主演の「クレイマー・クレイマー」である。

この映画が公開された1979年には男性が子育てをすること自体が新しい題材だったが、この先80年代以降のアメリカ映画では、離婚したカップルが定期的に子供の受け渡しをするシーンはもう当たり前、すっかり定番となった。

さらにLGBTや移民といったマイノリティが少しずつ声を上げ始めたのもこの時代だ。

日本でも一大ディスコブームを巻き起こした映画「サタデーナイト・フィーバー」が公開されたのは1977年、私が大学生の頃だった。

当時は単なるダンス映画として話題となったが、決して明るいストーリーではない。

ボストン大学のシュルマン教授は指摘する。

『ダンスシーンやビー・ジーズのヒット曲は確かに印象深いものですが、ダンスをめぐる軽快なロマンスを期待して映画を見始めたら驚くでしょう。社会に出て成長していく若者がアイデンティティーを確立できずにいる。ジョン・トラボルタ演じる主人公は、先行きのない仕事についていて金もない。イタリア出身の家族たちと同居を続け家庭内には絶えず不和がある。彼にとってダンスコンテストで優勝することだけが貧しさから抜け出す道なのです。「サタデーナイト・フィーバー」は70年代の若者の閉塞感を描いています。上の世代の誰にでもあったチャンスや親よりも成功できるという感覚がない。父親は失業中です。建設労働者としてこれまで順調に働き家族を支えた父親が今は失業しています。家族を養えないだけでなく、昔のように男らしさを誇ることもできない。家族のリーダーとしての地位を失い、奥さんに叩かれ怒鳴られる始末、以前では考えられない事態です。家族の崩壊のイメージは「サタデーナイト・フィーバー」で鮮明に描かれました』

ベトナム戦争での失敗、一向に上向かない経済。

アメリカにとって1970年代は、忘れ去りたい衰退の時代だったのだ。

そんな時代に登場し人気を博した映画が、ベトナム戦争終結の翌年1976年に公開されたシルベスター・スタローン主演の「ロッキー」だった。

自ら脚本も手がけたスタローンは、その狙いを次のように述べている。

『ある時、今の映画界やテレビ界の間違いは何もかも「アンチ」であるということに思い当たったわけさ。反政府、反宗教、反幸福・・・そんなものから人間の希望は生まれて来るだろうか、と思った時、今の時代に必要なのはもっと肯定的な態度だって気づいたわけ』

こうして「ロッキー」が象徴する強いアメリカの復活を託されて80年代に登場するのがドナルド・レーガン大統領である。

保守派を基盤とするレーガンは、60年代から少しずつ積み上げてきた福祉を切り捨て、小さな政府を推進することにより、市場を活性化させアメリカ経済を甦らせることに成功する。

1970年代が「空白の十年」と呼ばれるのは、まさに80年代との対比によるもの。

アメリカは常に強くて豊かでなければならないということなのだろう。

でも、さまざまな問題に苦悩し多様な価値観が生まれた1970年代に私は育った。

それは全く空白ではなく、あらゆるものが混在した非常に複雑な時代だったと思う。

「スターウォーズ」や「マクドナルド」が世界中を席巻し、さらにSNSの登場で世界が均一化した現代と比べて、私の育った1960年代、70年代には自らの弱さを直視する深みがあった。

あらゆる権威を疑い、自らの権利を主張してさまざまな人が声を上げた時代。

今から見ると奇異に映る70年代ファッションには、ダサくても手触り感のある「自由」があった。

私はあの珍しい時代に育った。

あの奇妙な時代が、私という人間を形作っている。

そのことに一片の後悔もないし、むしろあの時代に青春を過ごしたことを幸せだったと思う。

今の若者たちは、60代になった時、私と同じように自分の生きた時代を肯定的に振り返ることができるのだろうか?

<吉祥寺残日録>私が生きた時代👀 ドキュメンタリー番組『世界サブカルチャー史』で辿る「アメリカ闘争の1960年代」 #220818

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