<吉祥寺残日録>自転車に乗って🚲国木田独歩の「武蔵野」をめぐる #200929

今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと櫻橋といふ小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、此茶屋の婆さんが自分に向て「今時分、何にしに来ただア」と問ふた事があった。

これは、国木田独歩の名作「武蔵野」の一節である。

当時の武蔵野の美を描写したこのエッセイの中で、唯一具体的で独歩の足跡がうかがえる部分なのだが、昨日、久々に晴れ渡った空を眺めながら、私はその道を自転車で辿ることを思い立った。

武蔵境駅

出発地となるのは、文中にも登場する「境の停車場」、今のJR中央線「武蔵境駅」である。

中央線の高架化工事が行われ、駅の南北がつながった現在の駅の形になったのは、ほんの8年ほど前のことだ。

人気の吉祥寺駅や特別快速が停まる三鷹駅と比べて地味な駅だが、実はこの辺りでは一番古い歴史を持つ。

武蔵境駅の構内には、その歴史を記したパネルが設置されている。

それによれば、この駅ができたのは1889年4月11日。

新宿と立川を結ぶ甲武鉄道の駅として開業した。

武蔵境駅のパネルでは、明治時代の境駅の写真も見ることができる。

独歩の「武蔵野」が出版されたのは1898年なので、独歩が降り立った境駅はまさにこんな雰囲気だったのだろう。

こちらは昭和初期に走っていた蒸気機関車。

独歩が乗った明治時代の汽車の写真は、残念ながらパネルにはなかったが、やはり外国製の蒸気機関車が走っていたらしい。

国木田独歩文学碑

武蔵境駅の北口を出ると、「すきっぷ通り」という商店街がある。

これが昔からのメインストリート、きっと独歩もこの道を通ったのだろう。

商店街で抜けると、広いバス通りになるが、そのまま真っ直ぐ北へ向かうと・・・

駅から1キロほどのところに「桜橋」がある。

桜橋の交差点には、東京都水道局の境浄水場の入口がある。

大正時代、1924年に完成した大きな浄水場だ。

そして、境浄水場の斜向かい、玉川上水にかかる桜橋の脇に私の目的地があった。

実にひっそりと、誰にも見向きもされず・・・。

「国木田独歩文学碑」。

妻が生まれた昭和32年に建てられたものだ。

石碑には、このブログの冒頭に書いた「武蔵野」の一節が刻まれている。

「今より三年前の夏のことであった。・・・櫻橋といふ小さな橋がある」

あの婆さんがいた茶屋は、このあたりにあったと言われている。

独歩はこのように続ける。

自分は友と顔見合せて笑て、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答へると、婆さんも笑て、それも馬鹿にした様な笑ひかたで、「櫻は春咲くこと知ねえだね」と言った。

国木田独歩「武蔵野」より

当時まだど田舎だった小金井には、春の桜の時期以外に遊びに来るものはいなかったのだろう。

天気の良い月曜日の昼間に、この石碑を訪ねて来る物好きも私だけだった。

其処で自分は夏の郊外の散歩のどんなに面白いかを婆さんの耳にも解るやうに話して見たが無駄であった。東京の人は呑気だといふ一語で消されて仕了った。

国木田独歩「武蔵野」より

私のサイクリングも、独歩の散歩と同様、人にその面白さを理解してもらうのは難しそうだと思った。

「面白さ」という概念は、それこそ人それぞれであり、強制されても困るし、強制すべきものでもない。

でも、同じことに「面白さ」を感じる人には、親近感がわくものである。

桜橋の下を流れる玉川上水沿いには、水の流れを覆い隠すように植物が生茂る。

逆光に照らされて輝く木の葉を眺めているだけで、心が洗われるようだ。

婆さんが剥て呉れる甜瓜を喰ひ、茶屋の横を流れる幅一尺計りの小さな溝で顔を洗ひなどして、其処を立出でだ。此溝の水は多分、小金井の水道から引いたものらしく、能く澄で居て、青草の間を、さも心地よささうに流れて、をりをりこぼこぼと鳴ては小鳥が来て翼をひたし、喉を湿ほすのを待て居るらしい。しかし婆さんは何とも思はないで此水で朝夕、鍋釜を洗うやうであった。

国木田独歩「武蔵野」より

まあ、地元の人というのは、えてしてそう言ったものであり、よそ者の方が新鮮な目でその土地の良さを見つけるのだろう。

それこそが旅人の眼である。

独歩橋と桜

桜橋を玉川上水に沿って西に歩くと、次に架かる橋の名は「独歩橋」と言う。

とはいえ、この橋ができたのは昭和44年のことで、別にこの橋の上に独歩が立ったわけではなさそうだ。

せっかくなので独歩橋の上に立ち、下を流れる玉川上水を見ようとする。

しかし、緑の葉を茂らせた枝が視界を遮り、水面を見ることはほとんどできなかった。

橋の下では何とも言ひやうのない優しい水音がする。これは水が両岸に激して発するのでもなく、又た浅瀬のような音でもない。たっぷりと水量があって、それで粘土質の殆ど壁を塗った様な深い溝を流れるので、水と水とがもつれてからまって、揉み合て、自から音を発するのである。何たる人なつかしい音だらう!

国木田独歩「武蔵野」より

果たして、独歩がいう通りの原理で音が出ているかどうか私には判断できない。

ただ、確実に水は橋の下を流れている。

おそらく、独歩の時代よりは水量が減っているため、音はほとんど聞こえないが・・・。

桜橋や独歩橋の界隈はその名の通り、玉川上水に沿って桜の木がびっしりと植えられている。

茶屋を出て、自分等は、そろそろ小金井の堤を、水上の方へとのぼり初めた。あゝ其日の散歩がどんなに楽しかったらう。成程小金井は櫻の名所、それで夏の盛に其堤をのこのこ歩くも餘所目には愚かに見へるだろう、しかし其れは未だ今の武蔵野の夏の光を知らぬ人の話である。

国木田独歩「武蔵野」より

私の場合は、夏も過ぎ、秋の気配が色濃くなる季節に小金井の堤にやって来たのだ。

でも、何と心地よく、楽しいことか・・・。

しかし、桜の名所である小金井の堤にも、時の流れは容赦がない。

少なからぬ桜の木の幹には、赤い張り紙が付けられているのを見た。

「伐採のお知らせ」

今年の9月から11月にかけて、多くの桜の木が伐採されてしまうらしい。

葉を失って、ほとんど幹だけになっている桜は仕方がないとは思うが、こんな立派でまだ葉が茂っている桜の木にも赤い張り紙が巻かれていたのは、いささか悲しい思いにさせられた。

「武蔵野」が出版されたのは1898年。

その3年前にここを歩いたとすれば、ちょうど日清戦争の頃ということになり、独歩と私の間には実に120年以上の時の隔たりがある。

「桜の寿命はどのくらいなんだろう?」という疑問が脳裏に浮かび、調べてみると、ソメイヨシノの寿命は60年ぐらいという定説があるようだ。

ただし、ソメイヨシノは人が手をかけて育てる桜なので、手入れがよければ100年以上生きる。

最盛期は40年目ぐらいで、その後は人間がどんな環境を提供するかにかかっている。

多くの桜は最盛期の40年目ぐらいに花見客を集め、人間が根のまわりを踏みしめて硬くすることにより、弱ってしまうという。

桜の名所であった小金井の堤も、春には多くの花見客に踏み固められ、多くの桜の木がもうそろそろ寿命を迎えようとしているのだろう。

境水衛所と玉川上水

玉川上水沿いにさらに西へと進むと、五日市街道との合流地点の手前に、小さな堰のようなものがあった。

ここは、江戸市中への水を確保するため、水番人と呼ばれる人が常駐していた場所で、江戸時代は「水番所」、明治27年からは「境水衛所」と呼ばれた。

水番人は、ここで玉川上水に流れる水量の確認や周辺の巡回、流れてくる落ち葉の掃除などを行ったそうだが、1980年、西新宿にあった淀橋浄水場の廃止に伴ってここにあった水衛所も廃止となったそうだ。

この水番所の跡には、玉川上水の歴史が書かれた東京都水道局の案内板が設置されていた。

「玉川上水は、羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応3(1654)年に完成しました。これにより、多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給されることとなり、江戸が大きく発展することができました。

その後、明治31(1898)年に完成した淀橋浄水場への水路として、昭和40(1965)年に同浄水場が廃止されるまで、利用されていました。」

淀橋浄水場は、新宿西口の高層ビルが立ち並ぶエリアにかつてあった大浄水場で、「ヨドバシカメラ」の名前にその地名が今も残っている。

この境水衛所跡では、玉川上水の流れを間近で見ることができる。

それはコンクリートに囲まれた今風の水路ではなく、人の手によって掘られた自然と調和する美しさがあった。

独歩も水面の様子を描写している。

自分達は或橋の上に立て、流れの上と流れのすそと見比べて居た。光線の具合で流の趣が絶えず変化して居る。水上が突然薄暗くなるかと見ると、雲の影が流と共に、瞬く間に走て来て自分達の上まで来て、ふと止まって、急に横にそれて仕了うことがある。暫くすると水上がまばゆく煌て来て、両側の林、堤上の櫻、あたかも雨後の春草のように鮮かに緑の光を放って来る。

国木田独歩「武蔵野」より

すべての家庭に水道が行き渡った現代では想像もできないことだが、江戸時代、この玉川上水が果たした役割は極めて大きい。

つい先日、このブログでも関東平野の成り立ちと構造的に水が不足する荒野の話を書いたばかりだ。

参考記事

<吉祥寺残日録>@武蔵野…「お椀の大地」を開拓した帰化人たち #200925

吉祥寺@ブログ

玉川上水は、人口が急増する江戸っ子たちの飲料水確保と流域の新田開発という意味で、江戸を世界一の大都市にする基盤を作ったと言っても過言ではない。

桜井正信著「歴史細見 武蔵野」には、玉川上水の開拓者についての記述がある。

四代将軍家綱は、時の老中松平伊豆守信綱の意見で、関東郡代伊奈半十郎を水道奉行に任じる一方、信綱の家臣安松金右衛門を相談役にして各地を調査させた。安松は多摩川の水質が良質であることと、水量が豊富で傾斜と台地の屋根が武蔵野に通水するのには便利であることなどを理由に、多摩川の河川に明るい羽村の名主加藤庄右衛門・清右衛門の兄弟を起用して、玉川上水道の江戸導入の工事調査と施工を命じた。

兄弟は上水道の建設を承応2年(1653)4月から着手し、羽村から江戸四谷まで13里の作業を1年で完成した。

この工事の完成によって、施工者庄右衛門と清右衛門の兄弟は、幕府から「玉川」の姓をもらい、上水建設の功が認められ、ながく玉川上水の水利権があたえられた。

桜井正信著「歴史細見 武蔵野」より

玉川上水を作った玉川兄弟の像は、羽村の取水口に立っているそうだが、境水衛所近くにも、玉川上水が国指定の史跡であることを示す立派な石碑が立っていた。

この石碑近くで、玉川上水は交通量の多い五日市街道と合流する。

五日市街道

ここから自転車は、玉川上水と五日市街道との間に設けられた遊歩道を走ることになる。

独歩が歩いた頃の風情はまったくないが、それでも足もとに目を向けると自然は残っている。

燃えるような彼岸花、曼珠沙華の花もそこかしこに咲いている。

名前はわからないが小さな紫色の花も咲いていた。

ネットで調べてみたが、紫色の野草というのは意外にたくさんあるようだ。

トリカブトにも似ているし、シソ科の植物にも似たようなものがある。

そして、古の武蔵野のシンボルだったススキも・・・。

荒野が一面ススキで覆われていた頃の武蔵野はどんな風だったろう。

平安貴族でなくても、興味をそそられる。

遊歩道の脇にまた一つ、石碑が立っていた。

「桜樹接種碑」

案内板にはこう書いてあった。

「元文二年(1737)頃、桜が植えられた玉川上水堤は、しだいに桜の名所としてにぎわいを増してきました。しかし、百年余がたち老木化が進んだので、嘉永三年(1850)、代官大熊善太郎は、田無村・境新田・梶野新田・下小金井新田・鈴木新田に、互いに協力して補植するよう命じました。村むらでは、桜の苗木を持ち寄り、それぞれの持ち場に数百本を植え足しました。」

やっぱり、桜が老木になると周辺の人々が新たに苗木を植えて、桜並木を守ってきたのだ。

赤い貼り紙がされた桜の木々が伐採された跡にも、新しい桜が植えられるのだろうか?

石碑の風化が進み、刻まれた文字はほとんど読めなくなっているが、説明書によれば、「さくら折るべからず」といったことが書いてあるそうだ。

いつの世も、桜の木の下には不届き者。

桜の名所を守り抜くことは、決して容易ではないのだ。

さらに進むと、「陣屋橋」という小さな橋があり、その脇に案内板が立っていた。

それによると、この近くには南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋(役宅)が置かれていたという。

玉川上水が完成したことで、その流域には82ヶ村もの新田村が誕生したのだ。

そして、玉川上水の両岸に桜を植えたのも、最初は幕府の命令だったと書かれている。

当時の役人の粋な計らい。

それが後に、桜の名所・小金井堤を産んだわけだ。

これぞまさに、レガシーというものなのだろう。

御成の松と小金井橋

五日市街道沿いの遊歩道をさらに進むと、唐突に一本の松が立っていた。

その松の手前にも案内板が立っている。

「御成の松跡」。

案内板にはその由来が書かれていた。

「天保十五年(1844)旧暦2月25日(4月12日)、第十三代将軍家定一行が花見に訪れました。家定側近の紀行文によると、当日はあいにく大雨でしたが、家定は馬から下りて堤を歩き、御座所を設けて花見の宴を催しました。

この家定の御成りを記念して里人が御座所跡に一本の黒松を植え、「御成の松」と呼ばれてきました。見事な枝ぶりでしたが、惜しくも平成6年に枯れました。ここはその跡です。」

あれ? 

この隣にある松って、「御成の松」じゃないの?

どうやら、今ある松はダミーのようだ。

ちなみに、大正時代に撮影された本物の「御成の松」。

やっぱり、この頃の方がめちゃめちゃ風情がある。

昔の武蔵野は、良かったろうなあ。

この「御成の松」を過ぎると、サイクリングの終着点「小金井橋」。

中央線の武蔵小金井駅から北に伸びる小金井街道と五日市街道の交差点だ。

この交差点を北に進むと、日本で一番会員権の高いゴルフ場「小金井カントリー倶楽部」がある。

特段何の変哲もない交差点だが、ここを終着点に決めたのには理由がある。

私が図書館で借りた「武蔵野」の最後に、野田宇太郎という人が書いた「国木田独歩と武蔵野」という解説のような文章が添えられていて、独歩が自分では書かなかった興味深い裏話が綴られていたのだ。

「今より三年前の夏」といふのは、明治二十八年の夏で、これを「欺かざるの記」に照せば、それが佐々城信子との武蔵野閑遊であったことがわかる。「或友」は他ならぬ、信子である。その日、独歩と信子は甲武鉄道で境駅の次の国分寺まで乗り、そこから二人は人力車をつらねて玉川上水の小金井橋まで来て、それから川下へ歩き、現在も昔の場所にのこる境の櫻橋まで来て、やがて近くの雑木林中で語り合っている。

野田宇太郎著「国木田独歩と武蔵野」より

これにはちょっと驚く。

独歩は境駅ではなく国分寺駅で汽車を降り、人力車でこの小金井橋までやってきて小金井の堤を東へと歩いたという。

つまり、小金井橋は散歩の終点ではなく、起点だった。

この写真は、武蔵境駅構内のパネルに掲載されていたもので、明治34年当時の様子である。

この何もない武蔵野に独歩を誘った女性が佐々城信子だった。

明治28年の夏、独歩と一緒に小金井の堤を歩いた佐々城信子は、その年、独歩の妻となる。

しかし翌年の春、信子は独歩の前から突然姿を消し、二度と彼のもとには戻らなかった。

独歩は「狂気のように信子の姿をもとめつづけた」という。

最愛の女性との楽しかった記憶は、その後の別離によって独歩の心の中で形を変えたのか?

信子を「或友」と呼び、歩いた道を逆転させた。

夏の武蔵野の林の中で燃えた独歩と信子の至純な恋愛の焔は永遠に美しい。だからこそ、独歩は信子への怨恨を超えて「武蔵野」を書き得たのであろう。「武蔵野」は小説ではないから、事実を事実としてそのままに書いているが、第六章の或友の部分だけは、事実と少し違っていて、歩いたコースも反対に、境から小金井橋の方へ徐々に描いている。その真実を知ることが、名作「武蔵野」の意義を理解する上に役立つのは云うまでもあるまい。

野田宇太郎著「国木田独歩と武蔵野」より

果たして、「武蔵野」を書いた時の独歩の心理はどのようなものだったのか?

小金井橋から見る玉川上水も、鬱蒼とした木々に覆われて、私には何も見えなかった。

自転車に乗って🚵‍♂️

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