<吉祥寺残日録>岡山二拠点生活🍇 屋根裏や納屋に溜まった100年分の不用品を一気に処分する #230418

私が伯母から引き継いだ古民家は、おそらく大正10年に建てられたもので、ちょうど築100年ぐらいになるんだと思う。

それはまるでタイムカプセルのような家で、普段生活する場所は時代に合わせて少しずつリニューアルされるものの、誰も手をつけないままずっと大昔の物が眠ったままの場所もある。

今回、ブドウ棚の解体を業者に依頼した際、ついでにこの家に眠る不用品を一気に片付けようと思い立った。

将来、子供たちの誰かがこの家を相続したとしても、いずれ誰かが片付けをしなければならないならば、私の代でやってしまおうと決めたのだ。

まずは、納屋の2階。

ここに行こうと思ったら木製の梯子をかけないと上がれない。

子供の頃、屋根にボールが引っかかった時にこの2階の窓から屋根に出て、ボールを取りに行ったものだ。

この納屋の2階は昔からずっと物置になっていて、誰も触らないので私が子供の頃から何一つ変わっていないように見える。

今回片付け前に改めて納屋の2階に登ってみた。

すると、長さ3メートルほどの木の棒やたくさんのむしろなどに混じって、木製の水車や古い農機具などが置かれていることに気づいた。

水車なんかどこで使っていたのだろう?

おそらくは水田に水を引くためだったのだろう。

台所の屋根裏にも隠し部屋のような場所があり、ここも物置になっていた。

去年から妻がコツコツと片付けをしてくれて、私の祖父の手紙や書物などが大量に出てきたので、面白そうなものを一部残してボロボロになった残りの物は少しずつ処分した。

しかし、それらの大量の物が詰まっていた空の「長持」が6個ほど屋根裏に残っていた。

どれも長さが2メートルほどもある大きな物で、これを自分たちで持って降りるのも大変だと手をつけられずにいたのだ。

解体業者に見せると運び出せるというので、これもお願いした。

さらに玄関の土間にある私が草刈機などをしまっている物置の上には天袋のような扉があり、そこを開けると葡萄酒などを入れていたと思われる大きなボトルや一升瓶などが入っていた。

もともと三脚でも使わないと物の出し入れができない場所なので、伯母も一切ここには手をつけておらず、このボトル類がいつの時代の物かは不明である。

ついでに、伯母が暮らしていた部屋の片付けも始める。

古い洋服ダンス、おそらくこれは私の両親がこの家で同居していた時期に使っていたものだと思う。

さらに押し入れダンス、そして古い綿の敷布団。

これらもまとめて処分してもらうことにした。

家財道具の処分用に産業廃棄物を運搬する2トントラックが我が家にやってきた。

敷地の入り口が狭いので入れるかなと心配したが、そこはプロ。

余裕のハンドルさばきで一度も切り返すことなくスムーズにバックで車を入れる。

作業が始まったのはブドウ棚の解体作業と同じ16日の午前8時。

2人の作業員が手分けしながら、まずはタンス類から運び出しが始まった。

縁側から外に持ち出されたタンスは、その場で解体され全部板状にされる。

こうすることでトラックに最大限の荷物を積めるようにするのだ。

ただ日曜日の朝8時から家具をハンマーで叩き壊す大きな音が近所に響きわたり、思わず「病気で寝ている人もいるので、なるべくお静かに」と申し入れる。

次に、台所の屋根裏部屋から長持の運び出す。

あんな大きな箱をどうやって持ち出すのかと心配だったが、なんのことはない、屋根裏で長持を解体し板状にして持ち出すのだ。

あれだけ部屋を塞いでいた大きな長持も解体されると随分嵩が減る。

屋根裏部屋の床に敷いてあったゴザも剥いで持ち出してくれた。

長年蓄積した埃が舞い上がり、作業員たちの顔はすでに真っ黒になっている。

マスクをしていてもあれだけの埃、吸い込まずにはとても作業はできないだろう。

ちょっと申し訳ない気持ちになる。

こうして作業が始まって1時間半で、屋根裏部屋はすっかり空っぽになった。

最後に床の掃除もしてくれて、居心地の良さそうな屋根裏部屋が出現した。

その様子を見た妻は、早速この部屋を改装して子供たちが泊まりに来た際の寝室に使えないかと夢想し始めている。

多少手直しすれば、確かに魅力的な部屋になりそうである。

続いて、玄関の天袋の中に手を付ける。

最初に運び出されたのは、葡萄酒の酒瓶。

大きなボトルが10本、そのほか木箱に入れられた一升瓶もある。

さらには昔の本やら祖父のノートやら、いろんなものが出てくる出てくる。

その中から、祖父が自分で書いたものはちょっと興味があって残すことにした。

こうして母家から運び出された不用品だけで、トラックはいっぱいになってしまった。

なるべく多くの物を一度に運べるよう、積み方も工夫しながら手作業で積み込んでいく。

トラックからはみ出すような長い棒は、納屋の1階にあったものだ。

玄関の天袋から出てきた酒瓶はトラックの上から今にも転げ落ちそうになっている。

「これで大丈夫なんですか?」と聞くと、「最後にシートをかけますから」との答え。

最後に古い敷布団を荷物のてっぺんに広げ、荷崩れしないようにしっかりと不用品の山を押さえた上で、シートをかけゴムベルトとひもで荷物が落ちないようしっかりと固定する。

このトラックのチームは、運ぶ荷物は2トントラック1台分と聞いていたらしく、午後には別の仕事が入っていた。

でも実際に積んでみると、母家の荷物だけでトラックは満杯、一番多くの物が詰まっている納屋の2階はまだ手付かずである。

時間はすでに11時半、もうそろそろ荷物を運んで次の現場に行かなければならない。

困った様子でリーダー格の作業員がどこかに電話をしている。

結局、残った不用品は畑のチームが運ぶことになったらしく、とりあえず納屋の2階にある物を全部屋外に下ろすように指示を受けたようだ。

ここから2人でせっせと納屋とトラックを往復し、大昔からそこにあった大量のゴミを運び出していく。

納屋の中はものすごい埃。

扉から窓から、埃の帯が外に流れ出している。

この中での仕事、キツイなあと思いながら見守る。

結局、2階の物を全部外に運び出すのに1時間半を要した。

我が家の庭に巨大なゴミの山が出現する。

まるで、ミュージカル「レ・ミゼラブル」に登場するフランス革命の巨大バリケードのようだ。

これは、木製の脱穀機だろうか?

まるで民芸館のよう。

こちらは牛に引かせて田畑を耕した耕耘機か?

そういえば、古いこの家の設計図が残っていて、そこには牛小屋との表記があった。

2人の活躍で、あれだけ物が溢れていた納屋の2階が嘘のように空っぽになった。

床の上にはまだ長年溜まった埃や土が堆積していたが、もう午後1時、後は私たちで片付けるからと言って頑張ってくれた2人の作業員を送り出した。

本当に感じのいい働き者の2人であった。

家の片付けが一段落したので、私は畑の方の進捗状況を確かめに行った。

こちらも捗ってはいるが、全部の廃棄物を畑から持ち出すにはまだまだ時間がかかりそうだ。

現場監督が私に話しかけてきて、案の定「家の荷物、明日まで置かせてもらってもいいですか?」と言う。

仕方がない。

こうして納屋の2階に溜まっていた100年分のゴミの山は我が家の庭を占拠したまま一晩居座ることになってしまった。

家の前を通りがかった近所の人は一様に、とても珍しそうにこのゴミの山を眺めていく。

その量もさることながら、年配の人にとっては、昔懐かしい農機具もその中には含まれていたからだ。

翌日。

積み上げられたゴミの山を運ぶために、2トントラックで2往復しなければならなかった。

全ての荷物がトラックに積まれ我が家から消えたのは午前11時半。

この日も運び出しに3時間かかったことになり、100年分のゴミを捨てるために要した時間は合計8時間という計算になる。

こんな大仕事、とても自分たちだけではできなかっただろう。

そもそも不用品の処分は妻が以前から希望していたことだ。

絶対に使いもしない大昔の荷物が家の中に存在することが我慢できなかったらしい。

とはいえ、古い物が全て嫌いというわけではない。

ゴミの山の中から使えそうなものを見つけ出し、ガーデニングに利用することにした。

たとえば、この格子戸。

妻が以前から植えたがっていたジャスミンのフェンスとして利用することにした。

こちらは、大八車の車輪。

庭木にくくりつけて、庭のアクセントとして使う。

そして納屋の2階にあった木製の水車は、裏庭の柿の木に縛りつけて個性的なオブジェとなった。

妻はその周りに朝顔のタネを蒔いた。

今年の夏、この水車をよじのぼって朝顔の花が咲くかもしれない。

何十年も使われることなく納屋の中で眠り続けていた水車が、庭のオブジェとして復活するのだ。

こうして不用品がとりあえず家から一掃された古民家。

とはいえ、新しいものなど伯母が晩年買い替えた冷蔵庫やテレビぐらいだ。

家も100年、祖母の嫁入りダンスを私たちは今も使っている。

岡山での暮らしに慣れるに従って、最初は汚いと感じていた壁の汚れも次第に味わいだと感じられるようになった。

不用品を運び出した納屋を今後どのように活用するのか、台所の屋根裏部屋はどうするのか、それを考えるのも私たちの新たな楽しみになっている。

<吉祥寺残日録>岡山二拠点生活🍇台所の2階にある謎の屋根裏部屋を片付ける #220109

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