🇵🇭フィリピン/ネグロス島 1986年8月30日〜9月10日
ピープルパワーがマルコス独裁政権を倒したフィリピン革命が起きたのは1986年。
革命後の半年後、フィリピンの反政府ゲリラ「新人民軍(NPA)」の同行取材を行いました。NPAはフィリピン共産党の軍事組織で、毛沢東思想による革命を目指して、農村部を拠点に活発な武装闘争を繰り広げていました。
当時テレビ局のバンコク支局で報道カメラマンをしていた私は、政府軍との戦闘を続けていたゲリラ兵士たちに同行して、10日間にわたってフィリピンのジャングルをさまよい、知られざるNPAの実情を取材しました。
その時に記したメモや写真をもとに、当時の記憶を書き残しておきます。
謎のコーディネーター
8月30日のメモには取材の準備について書いてありました。
14時20分、マニラ到着。荷物が出て来ない。タグを調べると、何と大阪行きになっている。慌てて荷物の収納コンテナを下ろしてもらい私たちの機材を探し出す。間一髪だった。
タクシーでマニラ支局に寄り、夕方からキアッポで買い物。軍払い下げの靴(350ペソ)、ズボン(500ペソ)などを買う。
20時、コーディネーターの西山ただし氏にホテルのロビーで会う。西山という名は偽名だ。
支局長の部屋で、簡単な日程と必要な装備について打ち合わせ。何が撮れるのか、イメージが湧かない。西山氏に仮払いとして100ドルを渡す。
翌朝、ロビンソンというデパートで食料、長袖シャツ、パンツ、薬などを買う。キアッポで米軍の水筒を買い、簡易コンロを探すが品切れだった。
夕方、男5人で連れ添って床屋に行く。今日はマッサージもベテランのおっさんで上手だったし、半魚人のようなパックをした後の顔のマッサージも気持ちよかった。ただ、バイブレーターを使っての頭のマッサージは髪の毛が抜けそうで死ぬほど痛い。400ペソ。
取材メモより
私には謎の日本人コーディネーターと思えた西山氏は、ネグロス救援委員会という団体で活動する人でした。
冷戦下のアジアでは、西山さんのような現地と太いパイプを持つ謎の日本人が各地で活動していたのです。

飢餓の島ネグロス
9月1日、マニラから取材場所であるフィリピン中部のネグロス島に飛びます。
ネグロス島の中心都市はバゴロド。
まずは、市内の商店で食料などの買い出しを行います。
ゲリラ取材は1週間、その間は自給自足です。
メモにはこう記されていました。
12時15分、バゴロド着。天気はまあまあ。シュガーランドホテルに入る。
まずは両替。中央郵便局前にショルダーバッグを持った男女がいて、彼らが闇ドル屋だった。1ドル=20ペソぐらい。タクシーの運ちゃんに連れて行ってもらい車の中で替える。ホテルは1ドル=18ペソだからまずまずか。
固形燃料や鍋などを買う。予想に反して街には品物が溢れ、マニラより豊富なほど。一方、物乞いの姿も多い。店ではバーゲンセールもやっていて、買い物客も多かった。総じて店の作りも田舎にしてはいいようだ。

当時のネグロス島では、深刻な飢餓が進んでいました。
16時30分、1人でバゴロド・プロビンシャル・ホスピタルへ。最近よく報道されるネグロスの飢餓だが、確かにガリガリになった子供たちが何人かいる。病院全体で栄養失調は99人。昨年などとほぼ同じとのこと。しかしこんなに物が溢れているところでなぜ飢餓状態が生まれるのか?
海岸沿いに並ぶスラムを車で見てホテルに戻ると西山氏からの連絡が入っており、すでに氏の部屋で打ち合わせが始まっていた。連絡員はローラという女性だが、驚いたことに妊娠9ヶ月だという。彼女が通訳として我々に同行してくれる。彼女の夫も新人民軍の兵士だ。明日の午後、現地に入ることになる。
この年、劇的な革命で世界中の注目を集めたフィリピンでは、政権が変わっても癒されることのない問題が国中に山積していました。

夜になると、娼婦たちを積んだトラックが市内を走ります。この時代、フィリピンから日本にやってくるジャパゆきさんの問題も大きなニュースとなっていました。
ダウンタウンで少し買い物。19時でほとんどの店が一斉に閉まり、帰宅する店員たちがジープニーに殺到する。南米に似た光景だ。
小さなレストランに入る。男たちがテーブルに陣取る。テーブルの上には空になったサンミゲルビールの瓶でいっぱいだ。カラオケが始まる。録音状態が悪いテープを目一杯音量を上げて騒音を撒き散らす。料理はなかなかこない。結局、支局長のオムレツは最後まで登場せず、店を変えて食い直すことになる。
2階建のレストラン&バー。1階はフィリピン音楽、2階はロックバンドが入っている。食い始めた頃、1台の赤いジープニーが店の前に止まる。客は若い女の子ばかり。店内の男たちが手招きすると数人の女の子が男たちの席に来る。要するに、フィリピンのどこにでもいる商売の女の子たちだ。「置屋」ならぬ「置き車」というわけだ。よく見ると、店内のあちこちに同業のおばさんたちも陣取っている。その数は21時ごろから急に増えてくる。この店はどうやら溜まり場らしい。「置き車」の女の子はショートで300ペソ、1晩で500ペソとのこと。
突然、バリバリと鋭い音がしたかと思うと、ドガーンとものすごい音と共にレストランの壁が内側にめり込み、近くのテーブルを押し倒した。1台のジープがブレーキが効かなくなり、突っ込んできたらしい。壁際の人たちは慌てて飛び退いたので怪我人はいなかった。一瞬何か抗争事件か身構えたが、幸いライフルの乱射はなかった。野次馬が集まり、ライフルで武装した警察軍も飛んできた。しかし、人々の表情はそう驚いた風でもない。(翌日も民家に乗用車が後ろ向きに突っ込んでいるのを見た。よくあることなのかもしれない)
日本人からするとまさに混沌とした日常。
ネグロス島をおおう貧困こそが、反政府活動の元凶となっているのは明らかです。
ゲリラとの待ち合わせ
9月2日、朝6時半にロビーに降りると、西山氏とローザさん、もう一人のおばさんが待っていた。予定が狂ったという。我々を運ぶ車が壊れたため、1日延期すると言うのだ。
シーブリーズホテルに移り、朝食後再び寝る。
日本料理店で昼食を済ませた後、バゴロドの街を少し歩く。海に近い方にホテルやレストラン、旅行代理店などが集まっている。市場の周辺は日用雑貨、さらに陸側に行くと車の部品や修理、家具などの問屋街になる。どこも品物はいっぱい。マニラより綺麗な品が多い。

そして9月3日、ゲリラとの連絡ルートを辿って、いよいよネグロスの山中に入ります。
8時ホテル発。迎えのワゴン車にはローラと運転手、途中までおばさんが同乗。車はネグロス西岸を南に走る。水田が多い。車のポイントがずれているらしく、時々プスンと音がして出力が落ちる。
10時、カバンカラン。1人の若者が案内役として乗り込んでくる。ここから山道だ。
11時20分、政府軍のチェックポイント。ノートに名前を記入する。UNISEF関係者で日本からの援助の状況を視察に来たと説明する。
11時40分、カンドニの教会で昼食。赤十字の人間と鉢合わせし、偽名を名乗るように言われる。
13時30分、バリオ・バクトロン着。たまたま橋の工事でよそ者が来ているので、彼らが帰るまで民家で待機するように言われる。

NPAの基地がどこにあるのか、それは秘密です。
まず指定された村で、連絡を待ちます。木切れで建てられた粗末な家は、この村で唯一のお店でもあります。
17時35分、小さな民家に着く。ここでコンタクトパースンを待つように言われ、夕食をしながら待機。
22時、ライフルを持った兵士たち10人ほどが突然現れる。今夜はもう来ないかと思って寝ようとした時だった。兵士らは、ウィンジェイ、ナト、ネコなどと名乗る。フィリピンや日本の現状について意見交換する。
翌朝から、いよいよゲリラと行動を共にします。彼らは、私たち一人一人に名前をつけました。
私の名前は、「シ・ボーイ」。シは、同志という意味です。
これから1週間、私は「ボーイ同志」として、共産ゲリラと行動を共にすることになりました。
9月4日午前5時15分起床。思ったより暑い。蚊に悩まされよく寝られなかった。
7時、迎えの兵士たちが来て民家を出発。
7時20分、キャンプに到着。
すぐに朝食が用意された。マンゴーと青パパイヤのスープ、揚げたナマズ、そして米。
9時25分からオリエンテーション。撮影上の注意としては、幹部や渉外などNPA側の指定したメンバーの顔を撮らぬことと、ライムストーンが写ると場所がわかってしまうので撮らないでくれとのこと。しかしキャンプ全体がライムストーンの上に建っているので、実質的に全景は撮れないことになる。
我々が泊まる小屋に案内される。壁もなく簡単な掘立て小屋だ。屋根はヤシの葉葺き、竹でできた床は途中から段違いになっていた。ほとんど野宿同然だが、夜も意外に暑かった。
こうしてゲリラとの共同生活が始まったのです。
ゲリラの訓練
彼らは、我々に日常生活をいろいろ見せてくれました。
でも、山中ではいちいち記録する余裕がなくなり、メモはここでストップしています。

上の写真は、新人教育の様子です。
彼らは、村の若者たちをリクルートし、共産主義について教え、一人前の反政府ゲリラに育てるのです。
特に、思想教育はとても重要です。
赤軍の規律、NPAやネグロスの歴史、フィリピンにおける民主主義の歴史などを講義しているみたいですが、生徒たちはとても退屈そうで、紙切れのタバコの葉を巻いて吸ったりよそ見したり集中力を欠いていました。
早朝の訓練は朝4時に始まりますが軍隊と呼ぶには動きがバラバラで、所詮は村の若者の寄せ集めといった印象です。

隊列を組んだり、地面に伏せて射撃の構えをしたり・・・。でも、決して弾を撃つことはありません。
ゲリラにとって、弾はとても貴重なのです。
だから、訓練を見ている分にはほとんど緊張感はありません。まるで青年団が集まって祭りの準備をしているようでした。
しかし、現実には政府軍の掃討作戦は今も続いています。
もし今この場で政府軍に遭遇すれば、そこが一瞬で戦場に変わるのです。

ゲリラ兵士たちは、山中の村々を移動しながら夜は民家に泊まります。我々もそれに従います。
山中で過ごした数日間。風呂には当然入れません。
一番困ったのは食事です。基本的には持参した食料を食べましたが、ゲリラたちから食べ物を勧められると断れません。たとえば、野草を泥水で茹でたようなスープ。味はほとんどしません。むしろ心配だったのは、肝炎です。
結果的に、あの食事を食べて、誰も風土病に感染しなかったのは幸いだったと思います。
共産主義革命の夢

夜、焚き火を囲んで「カルチュラル・ナイト」というイベントが始まりました。
このあたりいかにも、20世紀の世界を席巻した共産主義的なカルチャーです。
みんなで革命歌を歌い、人民の解放を芝居に込める。そしていつの日にか、革命によって人民のための国家樹立を誓うのです。

日本にもそんな時代がありました。60年、70年の安保闘争の時代、日本の若者も共産主義を信奉し、革命を夢見たものです。
その夢は、子供たちに語り継がれます。
若者たちは団結の力を信じ、革命による貧困からの脱出を目指したのです。

取材の最後、部隊全員で記念撮影。みんな銃を構え、ポーズを決めてくれました。
反政府ゲリラとはいっても、実際のところ貧しい村の若者たちの集団です。子供が飢え、娘が売られる貧困の中で、若者たちが社会の変革を夢見て共産ゲリラに身を投じました。
メディアを駆使する「イスラム国」のようなテロ組織が登場した今から見れば、冷戦時代の牧歌的なゲリラ活動のようにも感じます。共産主義がまだ希望の光を放っていた時代。
私たちは、あの頃よりも幸せになったのでしょうか?
フィリピンのNPAは、メンバー数を減らしながらも、まだ反政府活動を続けているということです。
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