宗教のお話

昨年末、キリスト教について調べたくて読みはじめた「ふしぎなキリスト教」という対談集。年明けとともに日本史に関心がいっていたため放置していたが、返却日が迫ったため久しぶりにページを開いた。

宗教について真剣に興味を持ったことがなかったため、本当に何も知らないことを改めて痛感する。面白いと感じたことを、ランダムに書き写しておく。

まずは「律法」のお話から。

『ユダヤ教の律法は、ユダヤ民族の生活のルールをひとつ残らず列挙して、それをヤハウェの命令(神との契約)だとする。衣食住、生活暦、刑法民法商法家族法・・・・、日常生活の一切合切が、法律なのです。 もしも日本がどこかの国に占領されて、みながニューヨークみたいなところに拉致されるとする。百年経っても子孫が、日本人のままでいるにはどうしたらいいか。それには、日本人の風俗習慣を、なるべくたくさん列挙する。そして、法律としてしまえばいいんです。正月にはお雑煮を食べなさい。お餅はこう切って、鶏肉と里芋とほうれん草をいれること。夏には浴衣を着て、花火大会を見物に行くこと。・・・みたいなことが、ぎっしり書いてある本をつくる。そしてそれを、天照大神との契約にする。これを守って暮らせば百年経っても、いや千年経っても、日本人のままでいられるのではないか。そういう考えで、律法はできているんですね』

なるほど面白い。イスラム教も同様に生活のルールを定める宗教法を持っている。最近インバウンド対策でよく耳にするハラルというのもここから派生しているのだ。

主な宗教の違いについて。まずは一神教。

『一神教は、この世界のすべての出来事の背後に、唯一の原因がある。それも、人間のように人格を持つ、究極の原因=Godがある、と考える。背後に、責任者がいるんです。仏教、儒教、神道は、このように考えない。ここが違う。 その責任者(God)は、意思があり、感情があり、理性があり、記憶がある。そして大事なことですが、言葉を用いる。要するに、人間の精神活動と瓜二つなのです。実際、世界は言葉によってつくられた。「光あれ」と言うと、光があった。そして、意思として、イスラエルの民を選んだ。その民に、預言者を通して語りかける』

次に仏教は。

『仏教は言ってみれば、唯物論です。自然現象の背後に神などいない。すべては因果律によって起こっているだけ、と考える。人間も死んでしまえば分解して、アミノ酸になり、微生物に食われ、そうした生命の源となり、それがまた別の生命に形を変え、食物連鎖みたいな生命循環があって・・・。そこには、因果法則があるだけで、だれかの意思が働いているわけではない。それを言うなら、天体だって地球だって、気象だって生態系だって、すべて自然法則に支配されているにすぎない。そういう、自分たちを取り巻いているこの宇宙の法則を、どこまで徹底的に認識したかが勝負であって、それを徹底的に認識した人が、仏(ブッダ)と呼ばれるわけです。仏と言えども、この宇宙を支配する法則を、1ミリでも変えることができるわけじゃない。そうした法則を、ありのままに徹底的に認識し、一切の誤解や思い違いがなく、自分と宇宙が完全な調和に到達した状態、それが理想なのですね。 法則には、人格性がありません。ブッダとは対話できても、法則とは対話ができない。法則は、言葉でできていない。言葉で表現するのが困難である。ここに、ブッダの悩みがあって、ブッダはせっかく究極の知識を手にしているのに、それを言葉にできない。ゴータマ・シッダルタが悟った真理を、言葉で伝えてつぎつぎにブッダを量産する、というわけにはいかないのです。別な人間は、最初からもう一回始めるしかない』

いいね。仏教の方が納得感が強い。やはり仏教だね。

続いて儒教。儒教は宗教ではないけど東アジアには絶大な力を持っている。

『儒教は、自然をコントロールすべきものと考えている。コントロールの手段は、政治です。政治は、大勢の人びとが協力することなので、人びとの中のリーダーが、リーダーシップを発揮しなければいけない。それには政治的能力が必要になる。そうした能力を持っていそうな人を見つけ、訓練して、その能力を伸ばす。リーダーを訓練して、いい政治をさせる。これが儒教で、政治的リーダーを訓練するシステムなのです。その訓練のマニュアルがあって、みんなそれを読んで勉強する。 儒教はこんな具合で、宇宙の背後に人格があると言う考え方がない。人格を持っているのはリーダーで、政治家のほかには、自然や宇宙があるだけ。神々もいたとしても、怪力乱神などといって、無視すべきものと考えている。 儒教も朱子学になると、リーダーの背後に天がある、などと抽象的なことを言い出す。とはいえ、天も、その元とされる理や気も、人格ではない。言葉でできているわけでもない。そうするとコミュニケーションは、政治的コミュニケーションに限定される』

なるほど、確かに孔子は理想の君主を捜して諸国をさまよう。リーダーを求めたのだ。

『ひるがえって一神教の場合、神との対話が成り立つのです。それは神が人格的な存在だから。 この神との不断のコミュニケーションを、祈りと言います。 この種の祈りは、一神教に特有のものなんですね。祈りを通して、ある種の解決が与えられると、赦しといって、神と人間の調和した状態が実現する。赦しが得られるまでは、悩みや苦しみに圧倒され、神のつくったこの世界を受け入れられない、理解できない、という状態が続く』

『一神教は、すべてを神が指揮監督していると真じるのですが、するとしばしば、理不尽な感情に襲われます。たとえば、なぜ私の家族や大事な人が重い病や事故に見舞われるのだろう。なぜ自分の努力が報われないのだろう。 悩んで、いくら考えても、答えは得られない。 そうすると、残る考え方は、これは試練だ、ということ。このような困った出来事を与えて、私がどう考えどう行動するのか、神が見ておられると考える。祈りは、ただの瞑想と違って、その本質は対話なのです』

この神が試練を与えるということを伝える書物が「ヨブ記」だという。旧約聖書の「諸書」のひとつだ。信仰心を試すためにヨブは次々に不幸が襲いかかるのだ。おぞましい。

ちなみに、「アーメン」とは「その通り、異議なし」という意味なのだそうだ。

やはり一神教はなかなか理解できない。神との対話が足りないから。そもそも対話をするくせがないから仕方がない。教会で感じた違和感の正体がおぼろげながら見えてきた気がする。

一方、一神教と仏教、儒教にも共通点があると言うお話。古い多神教と対立することだと言う。

『伝統社会の多神教は、まあ日本の神道みたいなもので、大規模農業が発展する以前の、わりに小規模な農業社会か、狩猟採集社会のもの。素朴で、自然とバランスをとっている人びとの信仰なんです。山林原野もあって、その土地に育った人びとが大部分で、よそから移ってきた異民族はあまりいない。だから、自然と人間は調和し、自然の背後にいるさまざまな神を拝んでいればすむ。 日本は、先進国としてはめずらしく、こんな信仰が現在まで続いているんですけど、これほど幸運な場所は、世界的にみても、そう多くない。 それ以外のたいていの場所ではどうなるかというと、異民族の侵入や戦争や、帝国の成立といった大きな変化が起こって、社会が壊れてしまう。自然が壊れてしまう。もとの社会がぐちゃぐちゃになる。ぐちゃぐちゃになってどうするか、というのが、ユダヤ教とかキリスト教とか、仏教とか、儒教といった、いわゆる「宗教」が登場してくる社会背景なのです。そういう問題設定が、まず、日本にはない。だから、そうした宗教のことがわからない。 で、ぐちゃぐちゃになっても、人間が人間らしく連帯して行きていくにはどうしたらいいのかの戦略なんですけれど、一神教と仏教と儒教には、共通点がある。それは、もう手近な神々に頼らないという点。神々を否定している点です』

『神々を否定し、放逐してしまうという点で、一神教と、仏教、儒教はよく似ている。そして、日本と正反対なんです。この根本を、日本人はよく理解する必要がある。神道は多神教で、多神教は世界にいっぱいあるじゃないか、なんて思わない方がいい。 神々は放逐された。だから、仏教、儒教、一神教がある。世界の標準はこっちです。世界は一度壊れた。そして、再建された。再建したのは、宗教です。それが文明をつくり、いまの世界をつくった。こう考えてください。 偶像崇拝がなぜいけないか。偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではない。偶像をつくったのが人間だからです。人間が自分自身をあがめているというところが、偶像崇拝の最もいけない点です』

さすがに宗教というものは一朝一夕で理解は不可能だ。ただ、この本のおかげで少し頭の中がすっきりした。引き続き勉強を続けたいテーマである。日本は世界でもっとも宗教色の薄い国なので、世界を理解する上で、日本人の発想では理解不能なことが多いからだ。

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