今日の東京の新規感染者は664人、東京都の累計感染者数は5万人を超えたという。
とはいえ、1000万人のうちのまだ5万人だ。
実際のところ、何人がすでに感染しているかは見当もつかないが、集団免疫を獲得することはありえないレベルと言える。
そんな中、アメリカの製薬会社ファイザーのワクチンが日本でもついに承認申請されたらしい。
時間がかかることで有名な日本の厚労省が果たしていつ頃認可するのかわからないが、来年の東京五輪をにらんで通常よりはスピーディーに事を進めるだろう。
今日も私は一歩も家から出ずに、自主的ステイホーム。
録画済みの番組を片っ端から見ている。

そんな中の一本が、NHK-BS1で再放送された「ナイキを育てた男たち〜“SHOE DOG”とニッポン〜」というドキュメンタリー番組だ。
特別、番組としてよくできているわけではない。
でも、世界一のスポーツメーカーに成長した「ナイキ」を救った日本人たちがいたという物語は知らなかったので、とても興味深く試聴した。
メディアの取材を受けないことで有名なナイキの創業者フィル・ナイトが、この番組のインタビューを受けたこと事態、彼がいかに日本に感謝しているかの証明なのだ。

「ナイキ」といえば、私のジョギングシューズもナイキ製である。
というか、吉祥寺に引っ越してジョギングを始めると決めた時に、ナイキのショップで靴やウェア一式を買い込み、まずは格好から始めたというのが真相だ。
ナイキのジョギングシューズは軽くてクッション性に優れ、とても気に入っている。
しかし、そもそもこの会社は、日本のスポーツシューズをアメリカで販売する販売店としてスタートしたのだ。
大学で陸上をやっていたフィル・ナイトが卒業後日本で見つけたシューズが「オニツカタイガー」だった。
彼はこのシューズに惚れ込み、オニツカの本社に乗り込みアメリカでの販売権を獲得する。
当時まったく無名だった日本のシューズはアメリカで人気となり、ナイトたちはアメリカ人の足に合わせて次々に改良を提案、日本の職人たちの手によってそれが商品化されていった。
そうして事業を拡大していったナイトだが、突然アメリカのメインバンクから融資を断られ大きな危機を迎えた。
その時、ナイトを救ったのは日本の総合商社「日商岩井」だった。
日商岩井は、ナイトたちが日本から靴を買い付ける代金を立て替えてくれた。
高度成長期を迎えていた日本で、総合商社は世界中にネットワークを張り、成長の見込みのある企業を探していたのだ。
当時の日商岩井の担当者・皇孝之さんが取材に応じ、「我々がよく言っていたのは“当たるのは100に3つ”」という言葉を口にした。
当時の日本企業は世界を股にかけ、大きなリスクをとっていたのだ。

日商岩井の支援を得たナイトは、1971年「ナイキ」というブランドを立ち上げ自分たちの靴づくりを始める。
日商岩井は、日本の工場を紹介し、ナイトたちのアイデアを形にする手伝いをしただけでなく、支払いが遅れた時も現場担当者の裁量で待ってくれた。
さらにメインバンクが「ナイキ」の口座を凍結した際にも、その借金を全額肩代わりして倒産の危機を救ったのだ。
オレゴン州にある「ナイキ」の広大な本社には、「日商岩井ガーデン」と名付けられた日本庭園がある。
創業時に救ってくれた日本人の商社マンたちへの感謝を記憶するものだ。
高度成長期、敗戦後の焼け野原から日本を再生した時代のビジネスマンはたくましかった。
現場の一人一人が自分の頭で考え、リスクを取って世界と勝負したのだ。
私が会社に入った1980年代初めにも、まだそうした雰囲気は残っていた。
個人のアイデアがある程度尊重される代わりに責任も取らされる、現場の裁量権が大きかった時代だった気がする。
「どんな事をしても特ダネを取ってこい」「他社に抜かれたら別のネタで抜き返せ」「他社の真似をするな」
そんな事を先輩から叩き込まれた時代だった。
だから、仕事が楽しかった。
そうした雰囲気がなくなったのは、やはりバブルが崩壊し企業倒産が相次いだ1990年代後半ぐらいからだろうか?
「コンプライアンス」とか「月次決算」という言葉とともに、何でも上司に報告することが求められるようになり、現場の裁量が減っていった。
会社の上層部に豪快なタイプが減って、何事も管理したがる官僚タイプが増えた気がする。
そうして日本企業はリスクを取らなくなり、気がつけば世界の潮流から遅れ始めている。
「ナイキ」が世界的大企業に成長し、それを救った「日商岩井」が弱体化して他社と合併している現状がその事を物語っているように思う。
自分のサラリーマン生活と重ねながら、かつての日本のビジネスマンを思い出させてくれた興味深い番組だった。